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橘氏の祖は息子の橘諸兄(たちばな の もろえ)
橘三千代は無名です。橘氏の祖は三千代が藤原不比等と再婚する前の美努王(みの の おう)との間の子・葛城王(かずらきおう)だから。
改名した橘諸兄(たちばな の もろえ)です。
葛城王は27才まで無位無官でした。皇親政治だったのに無位無官というのはプータローと同じ。王といっても敏達天皇の子孫なので天智・天武系統からは遠く、政治家としても皇族としても相手にされてませんでした。
天皇の血を引いた無職の男で、皇族ではなかったというのが実態です。
母の力でさっそうと登場する葛城王
708年、母の三千代が元明天皇から橘と宿禰(すくね)の姓をもらいます。中堅氏族の県犬養氏出身でただの女官からスタートしたにしては異例の出世。
710年、息子の葛城王はいきなり母と同じ五位になりました。翌年には宮中の役職につきます。無位無官から五位はありえない登用。
五位と言えば、前も言ったように地方の国司の長官や軍人の少将レベル。
母・三千代のおかげでしょう。
父・美努王も五位でした。いきなり父と並んだことになります。
妹が皇后になるけど政権に入る隙がない
第45代 聖武天皇が即位すると、妹・光明子が皇后になります。でも、葛城王がそれでいい思いしたわけではありません。
聖武天皇の最初の政権は、長屋王(ながやおう)政権で皇親政治。藤原不比等も亡くなり息子の時代になっていました。彼らも光明子の兄です。
(藤原武智麻呂と藤原房前(むちまろ, ふささき))
長屋王と不比等の息子の権力闘争で葛城王の入る余地がありません。
光明子も藤原氏として育ったから親近感があるのか、葛城王よりも藤原氏の兄たちを頼りにしていました。
そのあとも光明子は藤原不比等の系統を大事にします。
棚からぼたもち。周りが勝手に脱落してトップになる
次の政権は、長屋王を失脚させた不比等の息子たちの藤原四子政権です。このとき葛城王は藤原四兄弟の弟二人と同時に参議に昇進しました。
今でいうと内閣に入るようなものですね?
橘諸兄と同期の藤原氏
藤原宇合(ふじわら の うまかい)
藤原麻呂(ふじわら の まろ)
二人は先に政権に入っていた武智麻呂と房前の弟。
このとき葛城王は母がもらった橘と宿禰姓を名乗るのを聖武天皇に願い出て許されます。橘諸兄(たちばな の もろえ)の誕生。(736年)
(弟の佐為王も同時に橘佐為(たちばな の さい)に改名。)
しかし藤原四子政権も長くは続きません。疱瘡が流行って政権幹部が次々に死んでいきました。残ったのは鈴鹿王(すずかおう)と諸兄の二人だけ。
疱瘡(ほうそう)
天然痘(てんねんとう)のこと。ウィルス感染する病気で昔は大量の死者を出した。
じんましんみたいに発疹が出る。昔はもっとも恐れられていた病気の1つ。
ここで諸兄が右大臣になって政権トップになりました。(最終的に左大臣まで昇進。)
数年前までプーターローだったところから政権トップになるとかありえない。
母ちゃんのおかげ以外の何物でもない。
諸兄の政権は藤原不比等の孫たちが入ってきました。優秀な学者たちも登用します。吉備真備(きび の まきび)など。
知太政官事 | 鈴鹿王 | |
左大臣 | 橘諸兄 | 右大臣から出世。 名実ともに政権トップになる。 |
右大臣 | 藤原豊成 (ふじわら とよなり) | 藤原不比等の孫。 |
内臣 (うちつおみ) | 空席。 | |
中納言 | ??? | |
参議 | 藤原仲麻呂 (ふじわら なかまろ) | 豊成の弟。 |
参議 | 藤原真楯 (ふじわら またて) | 藤原不比等の孫。 |
葛城王が橘姓を名乗る申請を出したのは三千代が亡くなって3年が経っていた頃。
橘姓を一代で終わらせたくなかったのだろう。
- P1 天皇から姓を下賜されたのは女性
- P2 女性の成り上がりの物語
- P3 橘氏の祖は息子の橘諸兄(たちばな の もろえ)
- P4 橘氏は2代でフェードアウト
- P5 世代を超えて復活!
- P6 なぜ四大氏族に数えられるのか?