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第43代 元明天皇。息子から皇位を引継いだ稀な女帝。初老での即位は限界だったか?

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歴代天皇 - (律令)国家・日本を作った天皇たち -

第43代 元明天皇(げんめい)は、710年の平城京遷都で有名ですが、息子から皇位を受け継いだ歴代天皇の中でもまれな女帝です。

(退位したときも母から娘へ継承した。これまた、まれな天皇。)

もう寿命が来てもおかしくない年齢で即位したので、途中で放り投げたように見える退位でした。

古代 奈良時代

  • 皇居
  • 藤原宮
    (ふじわらのみや)

    平城宮
    (へいじょうきゅう)

  • 生没年
  • 661年?月?日 ~ 721年12月7日
    斉明天皇7 ~ 養老5
    61才
  • 在位
  • 707年7月17日 ~ 715年9月2日
    慶雲4 ~ 和銅8
    9年
  • 名前
  • 阿陪(阿閇)皇女
    (あべ の みこ)
  • 別名
  • 日本根子天津御代豊国成姫天皇
    (やまとねこ あまつ みしろとよくに なりひめ の すめらみこと)

  • 蘇我姪娘
    (そが の めい の いらつめ)

    蘇我倉山田石川麻呂の娘
    (そが の くらやまだ の いしかわまろ)

  • 草壁皇子
    (くさかべ の みこ)

なんで息子から引継いで天皇に?

先代の文武天皇には皇子がひとりいました。

首皇子。おびと の みこ。のちの聖武天皇。)

ただ、文武天皇が亡くなったとき7才で天皇になるのはムリです。

(当時は天皇が政治家でないといけない。)

そこで文武天皇の母が即位しました。元明天皇です。このとき46才。

当時は天皇の皇子たちは若死にでした。40過ぎれば寿命といってもおかしくありません。20代で亡くなる人も珍しくありませんでした。

いつ死んでもおかしくないお婆ちゃんの即位は不自然です。

天皇の息子たちはどうした?

天武持統文武と、ここ最近の政治は天皇の息子たちで固める皇親政治です。

文武天皇が亡くなったとき、政治経験が豊富な天皇の息子たちはまだ残っていました。

元明政権メンバー
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工 ※ 青印は天武・持統・文武・元明朝の政権メンバー。 ※ バツは元明政権の前に死亡。

ただ、世代交代が起きていません。天武の孫の世代・新世代は長屋王(ながやおう / ながや の おおきみ)くらいです。

(長屋王は当時24才。)

そのほかは経験が足りないか、幼い皇子たちばかり。

天武天智の息子たちのベテラン勢は残っていたのに、そこから天皇を出していません。

おそらく、そこから天皇を出して政権メンバーを減らすことが出来なかったのでしょう。

律令制では役所が8省あったので、ひとり1省の長では足りず(長屋王を入れて6人)、ぜんぶをまとめる知太政官事もいるので3人は兼務が必要です。

そこから天皇まで出すと...

ひとり2省。兼務ばっかり。ムリだ~。

(そのほか、太政官左大臣・右大臣・大納言などもあった。)

知太政官事(ちだいじょうかんじ)

第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官

律令政治の太政官を監督するマネージャー職。

左大臣よりも上。)

有力な皇族が務めた。

だれが?就任時期
忍壁皇子
(おさかべ の みこ)

天武天皇の子。
703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。

第42代 文武天皇
穂積皇子
(ほずみ の みこ)

天武天皇の子。
705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。

第42代 文武天皇
第43代 元明天皇
舎人皇子
(とねり の みこ)

天武天皇の子。
720年(養老4)~ 735年(天平7)。

第44代 元正天皇
第45代 聖武天皇
鈴鹿王
(すずか の おおきみ)

高市皇子の次男。
天武天皇の孫。
737年(天平9)~ 745年(天平17)。

第45代 聖武天皇

このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。

太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。

じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。

藤原氏の台頭で皇親政治が終わると同時に無くなった。

(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)

結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。

(最後の鈴鹿王だけ孫。)

本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。

(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)

令外官(りょうげのかん)

律令制度の令(行政法)にない官位のこと。特別職。臨時職。

にある(令にない)位』。摂政関白太政大臣内大臣など。

正式な官位じゃないので比較的自由な立場で仕事ができた。また、正式な官位と兼務ができた。

第50代 桓武天皇は軍政改革で、征夷大将軍検非違使を新たに作った。

律令制は法が現実に合わなくなってもそのままにして、新しい法を追加して臨機応変に変えていくので、それにならって令外官も都度追加された。

ただ、正式な官位よりも重要なものも多い。

太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣(令外官)
左大臣
右大臣
内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

舎人皇子(とねり の みこ)の息子・大炊王(おおい の おおきみ)は第47代 淳仁天皇、施基皇子(しき の みこ)の息子・白壁王(しらかべ の おおきみ)は第49代 光仁天皇になる。

元明天皇が即位したとき、まだ生まれていない。

元明天皇の即位は持統天皇と同じ理由か?

元明天皇の即位は、皇親政治のメンツが減っているのを止めるための政権だと思います。天武の孫世代が出てきてくれるまでの。

姉・持統天皇も、皇親政治のトップ3が死んでしまって天皇になった経緯があるので、

empress image
お姉ちゃんが出来たんだから自分にもできるはず!

と思ってもおかしくありません。

でも持統天皇はもともと夫・天武天皇が一番信頼していた政治家とも言われ、皇子たちのリーダーでもあったので、実力、実績はぜんぜんちがう。

ベテラン皇子は年齢的にムリだった?

こうも考えられます。天武天皇の息子たちの寿命は短いです。それが理由で持統天皇は苦労しました。

それはおそらく、当時の人たちも気づいていたでしょう。

ベテラン皇子を天皇にしてもすぐに死ぬから、また皇位継承の問題が起きる。

でないと、過去に例がない子から親への継承は理解できません。

(子から親へ皇位を受け継いだ事例はあとにもない。この1件のみ。)

これ以上、皇親政治のメンツを減らさずに、新世代の登場を待つには元明天皇に頑張ってもらうしかなかったのでしょう。

なんの因果か、元明天皇はお姉ちゃんと同じ苦労をするはめになってしまいました。

元明天皇のイレギュラーな即位でも分かるように、皇位の継承はいかに親から子へつなぐかが第一条件になっていた。

たくさんいた政治家の皇子たちは、文武天皇の叔父さんやいとこにあたる。

その叔父さんだって天武天皇の子。それでも文武から見たら傍系。

この時代にはすでに傍系よりも直系優先が見て取れる。

直系は先代の天皇から見てどういう関係? が大事。

天皇の子で血統はピカイチでも直系から外れたら優先順位は低い。

人材不足は藤原不比等にはチャンス!

政権のメンツが少ないのは、藤原不比等(ふじわら ふひと)にメリットしかありません。将来、天皇になるのが約束されている首皇子のおじいちゃんでもあるし。

(皇子の母は不比等の娘・宮子(みやこ)。)

しかも不比等はかなり優秀です。天武天皇のときは皇太子・草壁皇子(くさかべ の みこ)の下で働いていたとも言われてるし、文武天皇のときは飛鳥浄御原令の改定作業も担当していました。

皇親政治のなかではトップになれないけれど、重要な仕事を任されてきたので経験豊富です。

皇親政治はトップの皇子がお飾りだったとも言われてるので、『オレのほうが仕事してるしデキる』と思っていたかも知れません。

(708年、元明政権になってすぐ右大臣になる。右大臣は太政官のナンバー2。)

太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣(令外官)
左大臣
右大臣
内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

敵なのに出世する石上麻呂

不比等が右大臣になったとき、左大臣になったのは石上麻呂(いそのかみ の まろ)です。

(左大臣は右大臣より上。太政官のナンバー1。)

この人は不思議な人で、壬申の乱天武天皇の敵だった大友皇子(おおとも の みこ)の側近でした。大友皇子が自殺する最後までついて行ったといいます。

なのに、元明政権でナンバー1までのぼりつめました。よっぽど優秀だったのでしょう。

(元明政権は大友の敵方の天武系。)

ちなみに、麻呂の出身氏族は物部(もののべ)です。聖徳太子の時代に蘇我氏に潰されましたが、天皇のお付きの氏族では名門中の名門。

もしかしたら、この家柄が影響したのかも知れません。藤原氏の台頭を抑え込むための、皇親勢力皇親政治を守ろうとする勢力)の思惑があったのかも?

元明政権

ここで元明政権を整理しましょう。

知太政官事穂積皇子
(ほずみ の みこ)
政権全体のご意見番。
左大臣石上麻呂政権のトップ。
総理大臣みたいなもの。
右大臣藤原不比等政権ナンバー2。
副総理みたいなもの。
宮内卿長屋王704年に3階の飛び級で位をもらったばかり。
父が太政大臣だったので恵まれたデビュー。

不比等が右大臣になった1年後(709)、宮内
卿に昇進するが、位は不比等より3階級下。
舎人皇子
(とねり の みこ)
新田部皇子
(にいたべ の みこ)
長皇子
(なが の みこ)
舎人、新田部はあとで皇親勢力の中心として
出てくるのでかなり上の位だったと思われる。

しかし、元明政権でどの仕事をしていたのか
分からない。

長はもともと存在感がない。
宮内省(くないしょう)

律令制の8つの役所のひとつ。

トップは宮内卿(くないきょう。事務次官)。

いまの宮内庁みたいなもの。

宮廷の掃除、修理から食事、医療など広く管理。

天皇の財産も管理した。

とりあえずキーパーソンだけです。これ以外は、天武の血をひく皇子たちが重要なポジションにいました。

(その下に優秀な官僚たち。)

天皇の男系男子継承ってウソでしょ?

令和のいま、天皇の後継者問題が起きています。そこで言われるのが、

天皇の男系男子継承は伝統。

伝統なわけがないです。元明天皇の即位のとき、政治経験が豊富で天皇の息子は少なくとも5人はいます。

(長屋王まで入れると6人。)

でも天皇になったのは元明、女帝です。わざわざイレギュラーなことをしてまで。

(しかも元明は皇子たちの叔母・姉なのでピークを超えている。引退してても良い世代。)

これで男じゃないと天皇じゃないという人の気が知れません。彼らのなかでは元明天皇は天皇じゃないのでしょう。

天皇の息子たちを差し置いて天皇になった女帝だから。

もちろんですけど男が女より優先されてもいません。ベストな選択をするためには、あたりまえのように女帝が誕生します。

あのころの日本人のほうが、柔軟な考え方をもっているように思えます。

いまの日本人のほうが伝統じゃないものを伝統と言ったり、自分の考えに固執してバッドな選択をしているようにしか見えません。

柔軟な発想をもっていた人が伝統を作り、『伝統』をいう人がゴリゴリの石頭になって『発想』しない。

なんだ?この矛盾は?

平城京遷都

元明天皇でこれは外せません。710年(和銅3)、平城京へ遷都しました。

前の藤原京への遷都も持統天皇のときでした。当時、近代的な都を作ったのは女帝です。

ボクの学校の歴史教育の記憶では、近代的な都を作ったのが女帝だったというのがありません。

どっちかというと藤原不比等が有名だったような。

まぁ、ボクが小・中のころは、学校の職員室やその付近の廊下に社会党や共産党のポスターが貼ってあった時代なので、しょうがないかな?

ゴリゴリの反天皇制だし。

(今思うとすごい世界。子どもには気づかないところでイデオロギー満載。)

ちなみに、このポスターで土井たか子のことを知った。目と鼻に画びょうが刺さってたけど。

藤原京と平城京

藤原京(ふじわらきょう)

690年(持統4)、女帝・第41代 持統天皇が造営を開始し、4年後(694年, 持統8)に遷都した都。

日本ではじめて中国式の都を建設した(条坊制を採用)。

条坊制は東西と南北に網の目(碁盤目)に道路を作ったもの。いまでも京都に残る。

平城京(へいじょうきょう)

710年(和銅3)、女帝・第43代 元明天皇のときに遷都した本格的な中国式の都。

707年(慶雲4)に遷都の審議がはじまり、元明天皇が708年(和銅元)に決定した。

藤原京とちがい、遷都が決まってから2年しかたってない。未完成のまま引っ越して、そのつど増築されたと考えられている。

古事記の完成

これも外せません。日本最古の歴史書のひとつ『古事記』が完成して上奏された人が元明天皇です。

古事記は第40代 天武天皇の『国の歴史書を作れ!』の号令にはじまり、過去の歴史書を掘り起こしたところからはじまります。

ただ、持統文武と天皇の代替わりがあり、古事記の編纂作業は中断していました。

(国家づくりを優先させていたか?)

それを復活させたのが元明天皇です。放置していたのを太安万侶(おお の やすまろ)に命令してまとめさせました。

これが古事記です。

古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)

第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。

それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。

国記と天皇記

第33代 推古天皇のとき、聖徳太子蘇我馬子(そが の うまこ)が編集長になって作ったと言われる。

国記
(こっき)
国家の歴史書
天皇記天皇の系譜

天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。

そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。

帝紀と旧辞

帝紀
(ていき)
天皇の系譜、功績をまとめたもの。
旧辞
(きゅうじ)
各氏族の系譜をまとめたもの。
氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。
日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。

帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。

当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。

帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。

古事記(こじき。ふことふみ)

帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。

712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。

20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。

(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)

日本書紀(にほんしょき)

完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。

中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。

天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。

古事記倭語を漢字にあてた。
『夜露死苦』(よろしく)みたいに。

国内向け。
国家統一に利用するためか?
日本書紀漢字で書かれた。
(中国人でも読める。)

国外向け。
世界に日本をアピールするために利用か?
上奏(じょうそう)と勅(ちょく)・詔(みことのり)

上奏

政治の最高責任者から天皇に行なう報告。天皇への意見や相談。

勅・詔

天皇の命令。勅書(ちょくしょ)・詔書(しょうしょ)は命令書。詔勅(しょうちょく)ともいう。

勅と詔はケースバイケースで使い分けているが、ルールがよく分からないので同じものと思っていい。

1945年の玉音放送は、詔書。

天皇の命令を強調すると勅令(ちょくれい)、意見を強調すると勅語(ちょくご)という。

明治の教育勅語は天皇の意見。当時、天皇が国民に強制するものではない、勅令ではダメだということで勅語になった。

勅語は意見なので国民が絶対に聞かないといけないものではない。

風土記(ふどき)を作らせたのも元明天皇

元明天皇の最大の功績はなんと言っても風土記の編纂でしょう。古事記で日本の歴史が確定したところで今度は地方の歴史書の編纂を各地方に命令しました。

これが風土記。風土記は地方の正式な歴史書。

風土記は古代の日本の姿を知ることができる1級資料です。

歴史書を作るのは今では何でもないことですが、当時は歴史をもつことは先進国家の証でした。

元明天皇の時代に風土記を作ったこと = 日本は国家の形を完成させたということ。

今の日本人は女帝のやってのけたことを正当に評価しません。女性皇族には価値がないなんて平気で言ってるうちは永遠に理解できないでしょう。

天皇の仕事を放り投げた?

元明天皇は、先代・文武天皇の息子が成長するまで天皇を続けられませんでした。715年(和銅8)、55才で退位します。

そして天皇をゆずった相手が、娘で文武天皇の姉・氷高皇女(ひだか の みこ)。

母から娘への皇位継承は歴代天皇でこれだけ。

このイレギュラーな継承は途中で放り投げたように見えるし、そう言われることが多いんですが、じっさいは限界だったと思います。

姉・持統天皇は、天武天皇に嫁いだときから夫の優秀な参謀で、トップクラスの政治家でした。

それにくらべ元明天皇は政治家の実績ゼロ。お上品なお姫様だったでしょう。

その人が、もう人生が終わろうかという46才で天皇になりました。退位したとき姉が亡くなった年齢とあまり変わりません。

潮時だと思ったのでしょう。6年後、元明上皇は亡くなりました。

元明天皇は天皇になるときウルトラCで、退位したときもウルトラCの不思議な天皇です。

元明天皇は息子から母へ皇位を受け、母から娘へ皇位を継承した、どっちも唯一無二の天皇。

和銅(わどう)ってなんだ?

和銅は国産の銅のことです。708年、武蔵国の秩父(埼玉県)から銅が掘り出され天皇に献上されました。

これはおめでたいとなり元号を和銅に変えます。

和銅開珎(和同開珎。わどうかいちん / わどうかいほう)は有名ですね?

かつては日本最古のコインと言われてたやつです。これもこのときに作られたもの。

ただし今は、和同開珎よりも20年も古い富本銭(ふほんせん)が一番古いと言われます。

(第40代 天武天皇の時代。)

『日本でいちばん古いコインは?』

の質問に、

『和同開珎!』

と自信満々に答えると古い世代ということが分かります。

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第42代 文武天皇。日本誕生の手柄をもらったラッキー男。25才で早死して好環境を活かせず。
第44代 元正天皇。唯一、母から娘に母系で皇位を継承する。家族が天皇だらけでエグい。
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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。

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