歴代天皇 - 江戸幕府に押さえつけられたけど負けなかった天皇たち -
明正天皇(めいしょう)は、859年ぶりに誕生した女帝です。武士の世になってから、天皇が直接政治をしなくなってから初めての女帝。
明正天皇の即位には、江戸幕府と父・後水尾天皇のバチバチのバトルがありました。
父がブチ切れたため即位します。
近世 江戸時代
- 皇居
平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1623年11月19日 ~ 1696年11月10日
元和9 ~ 元禄9
74才
- 在位
- 1629年11月8日 ~ 1643年10月3日
寛永6 ~ 寛永20
15年
- 名前
- 興子
(おきこ)
- 別名
女一宮
(おんないちのみや)
- 父
第108代 後水尾天皇
(ごみずお)
- 母
徳川和子
(とくがわ まさこ)東福門院
(とうふくもんいん)
有名な武将の血統を受け継ぐサラブレッド
明正天皇の母は、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)と正室・お江の方(おごうのかた)の間に生まれた和子(かずこ・まさこ)です。
明正天皇は徳川家康(とくがわ いえやす)のひ孫。これだけではありません。
お江の方の母はお市の方(おいちのかた)で、父は戦国武将の浅井長政(あざい ながまさ)。
さらに、お市の方はあの織田信長(おだ のぶなが)の妹。お江の方は織田信長の姪っ子です。
明正天皇は、織田家・浅井家・徳川家と、有名戦国武将の血筋を受け継いでいます。
こんな血統の天皇は明正天皇以外いません。久しぶりの女帝だけでなく血統でも珍しい天皇です。
お江の方の姉は淀の方で豊臣秀頼の母。そして、和子の妹は豊臣秀頼に嫁いだお千(おせん)。
おばさんが豊臣家の当主に嫁いでいるので豊臣家とも親戚。
明正天皇の叔父さんは第3代 将軍・徳川家光でお祖父ちゃんが第2代 将軍・徳川秀忠。
父がブチ切れて即位する
父の後水尾天皇は江戸幕府と対立していました。
いままで朝廷が決めてきたものを幕府が作った法律でがんじがらめにして、朝廷が幕府の許しなしに何もできなくなっていたから。
公中並公家諸法度の発布
公中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)
朝廷の中ならびに公家のためのいろいろな法律。
江戸幕府が朝廷を締めつけるためにつくった。
- 叙位叙勲(勲章を与える)ができない。
- 処罰を与えられない。
- 元号が制定できない。
- etc...
法律で天皇・朝廷をがんじがらめにしたのは、日本の歴史上江戸幕府がはじめてです。
摂関政治の藤原氏、平家、鎌倉幕府、室町幕府はしませんでした。
そして、春日局(かすがのつぼね)が無位無官なのに天皇と面会します。
無位無官(むいむかん)
官位がなにもない。
これに後水尾天皇は怒り狂いました。当時、天皇と面会できるのは限られた官位の人だけだったから。
(エラい人だけが天皇と面会できた。)
それまでもいろいろガマンしてきた後水尾天皇は、幕府にだまって自分の娘の興子内親王に譲位して退位します。
明正天皇の即位です。7才でした。
幕府は、後水尾天皇と和子の間に皇子が生まれて、その子を天皇にして徳川を天皇の外祖父(母方の親戚)にしようとしていた。
後水尾天皇はそれに先手を打って退位します。
もちろん幕府もブチ切れたのですが、一応、明正天皇も徳川の血筋を受け継いでいるので、無理やり変えることもできません。
後水尾天皇はそれも分かったうえでやっています。力はないけれど、できるかぎり大きなダメージを幕府に与えることに成功した。
幕府が明正天皇の即位を認めた理由
後水尾天皇が退位したとき、大御所・徳川秀忠、第3代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ)は激怒しました。
幕府が自分の血筋を天皇にするために、無理やり少女の明正天皇を即位させた。
というマイナスイメージを嫌がったからです。
(後水尾天皇はそれを狙っていた。)
後水尾天皇と和子には2男3女の子供が生まれましたが、男子は早くに亡くなっていました。
明正天皇の即位は、男子ではないけれど、それ以外の手が無くなっていたので『まぁいいか』になります。
いちおう、明正天皇は3代将軍・家光の姪っ子。幕府が朝廷に大きな影響力をもつ目的は果たされました。
当時の幕府は、反抗的なものはことごとく排除していた。親・兄弟・親戚関係なく、お家取り潰しや切腹させてたくらい。
徳川家康が亡くなってすぐなので、将軍に素直に従うものが少い。
明正天皇の即位を止めると天皇親政をかかげて反幕府勢力が大きくなることを恐れた。
家康側に損得勘定でついた武将もまだ残っていて、秀忠・家光に義理があるわけではない。
(たとえば伊達政宗など。)
家康が豊臣家から天下を奪ったことと同じことが起きる可能性があった。
明正天皇は中継ぎの女帝
明正天皇は21才で退位して上皇になり弟・後光明天皇が即位します。在位は15年でした。
その間、父の後水尾上皇は生きていたので政治は何もしていません。元々、次の男子が成長するまでの中継の即位でした。
明正天皇は手芸を好み、由緒ある寺に押し絵などの作品が伝えられています。
上皇になってから50年以上生き、74才で亡くなりました。
明正天皇は、奈良時代の第43代 元明天皇とその娘の第44代 元正天皇の女帝から一字ずつもらってつけられています。
諡(おくりな)はふつう亡くなったあとにつけますが、これは明正天皇が生前に自分で選んだと言われます。