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第88代 後嵯峨天皇。南北朝分裂のきっかけを作り、次の天皇を幕府が推薦するようになる。

後嵯峨天皇 肖像画

歴代天皇 - 鎌倉幕府が認めないとなれなかった天皇たち -

第88代 後嵯峨天皇(ごさが)は、朝廷が天皇の即位を決められず、鎌倉幕府が決めた天皇です。

そしてこの時代には珍しく、26年の長期間、院政を行なった上皇でした。

中世 鎌倉時代

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあんのみや)

  • 生没年
  • 1220年2月26日 ~ 1272年2月17日
    承久2 ~ 文永9
    53才
  • 在位
  • 1242年1月20日 ~ 1246年1月29日
    仁治3 ~ 寛元4
    5年
  • 名前
  • 邦仁
    (くにひと)
  • 別名
  • 素覚

  • 源 通子
    (みなもとの みちこ)

    源 通宗の娘
    (みなもとの みちむね)

  • 中宮
  • 西園寺 姞子
    (さいおんじ きっし)

    大宮院
    (おおみやいん)

    西園寺 実氏の娘
    (さいおんじ さねうじ)

  • その他

皇統がほとんど消えかかっていた

先代・四条天皇は、12才の子どもで突然の事故死だったので後継者を決めていませんでした。もちろん子どもはいませんでした。

四条天皇の父は後堀河天皇で、承久の乱で根こそぎ排除された後鳥羽系じゃないところから連れてこられました。

後堀河天皇は天皇になれないはずだった、また23才で亡くなったため、四条天皇以外の後継者を作れませんでした。

結局また、ほかのところから連れてくることになりました。

ここで天皇の系図を見てみましょう。

emperor list image
宮内庁HPより抜粋 色付きマークは筆者加工

赤い×は承久の乱で鎌倉幕府から排除された天皇・上皇です。

青い×は承久の乱のあと、後鳥羽系から移った後高倉院(守貞親王)の系統です。これも四条天皇で終わりました。

安徳天皇平家と一緒に都落ちして瀬戸内海に身を投げた不幸の天皇で、子どもはいません。(そもそも大人になってない。)

これを見ると、天皇になれる皇統がなくなっているのが分かります。

皇統断絶危機の原因は鎌倉幕府

後嵯峨天皇が即位する前、皇統が断絶しかけていました。大きな理由は、鎌倉幕府が後先考えずに、後継者がいちばん多かった本流の後鳥羽系をまとめて排除したから。

これで一気に状況が悪くなりました。そして幕府の誤算は、新しく連れてきた守貞親王の子ども・孫がつづけて早死にしたことでしょう。

ここで、後継者候補の闘争がはじまります。

幕府が天皇を決めてしまう

天皇になる人がいないため、朝廷は幕府に排除された後鳥羽系から新たに天皇候補を連れてきます。

四条天皇の外祖父で実力者・九条道家は、順徳天皇の皇子・忠成王(ただなりおう)を推しました。

第85代 仲恭天皇の弟で、もともと皇統の本流なので順当でしょう。

外祖父(がいそふ)

母方のおじいちゃん。

摂関政治では、藤原氏が天皇の后に自分の妹や娘を嫁がせて、天皇の外祖父になり絶大な権力をもっていた。

外祖父 image

でも幕府は『兵を出すぞ!』と脅して拒否します。

順徳天皇は北条氏を倒すため、戦争を指揮するため天皇を退位したので、幕府はその息子を天皇にするのが許せませんでした。

そこで幕府は、23才になるのに元服もせず、寺に入るわけでもない、放置されて中途半端だった、土御門天皇の皇子・邦仁王(くにひとおう)を即位させます。後嵯峨天皇です。

忠成王も邦仁王も『王』と呼ばれているところに注目。

天皇の皇子ですが、忠成王は5男、邦仁王は9男9女の兄弟がいるので、もともと後継者から外れていました。

だから、承久の乱で生き残ったのですが。

(どちらの父も承久の乱では幕府の敵方。)

なぜ幕府は忠成王を拒否ったのか?

幕府が忠成王の即位を拒否った理由はかんたんです。父の順徳上皇は島流しされた佐渡ヶ島でまだ生きていたから。

順徳上皇は配流先の佐渡ヶ島で21年間も生きている。

24才で流罪になったのでほぼ半分を佐渡で生きた。

忠成王が即位すると、その父の順徳上皇は後見人の第一候補になります。

(実権のある上皇に復帰。)

順徳上皇は、承久の乱で幕府と戦争をするために退位したほどの反幕府メンタリティーの持ち主。

だから佐渡ヶ島へ島流しされたんですが、そんな上皇の復権を幕府が許すわけがありません。

邦仁王は反幕府なのになぜ幕府から推されたのか?

一方、邦仁王も承久の乱で反幕府方だった土御門上皇の息子です。

しかし土御門天皇は、幕府に対してファイティングポーズを取らないので、父・後鳥羽上皇がイライラして弟・順徳天皇に皇位を譲らされた人。

承久の乱も直接参加はせず、幕府は島流しするつもりはなかったのに『自分も流罪にしてくれ』と頼んでしまった人。

幕府も配流先を土佐(とさ。高知)から阿波(あわ。徳島)に変えて、罪人ではありえない御所を造ったりなど、土御門上皇に恨みはありませんでした。

(都から近いところへ移すことは罪の軽減を意味する。)

これが邦仁王を推した理由です。10年前にすでに、土御門上皇は亡くなっていたことも功を奏したでしょう。

邦仁王は2才のとき父が京都を追放されたので、母方の大叔父の土御門定通(つちみかど さだみち)に預けれて育てられた。

定通の側室は北条氏だったこと、土御門家は没落して貧乏暮らしで復活の機会をうかがっていたなどが、後嵯峨天皇の即位に影響している。

後嵯峨天皇の即位はパニック!

後嵯峨天皇の即位はゴタゴタのオンパレードです。

いままで誰も相手にしてなかった、というか存在自体忘れていた邦仁王がいきなり出てきたこと。

(幕府が無理やりねじ込んだのでしょうがない。)

邦仁王はただのプータローだったので、大急ぎで元服させる必要があったこと。

プータローの即位に誰も納得するわけがないので、理由を作っていたこと。

幕府は最初から邦仁王に決めていたので、朝廷の説得工作が必要でした。

結局、このゴタゴタで空位期間(天皇がいない期間)が11日も空いてしまいました。

(この時代はすでに譲位が当たり前で、天皇の引継ぎは間を空けないのが常識になっていた。)

譲位(じょうい)

天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。

第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。

はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。

大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇

持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。

(制度化されてから2/3が譲位)

なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。

それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。

譲位の理由はいろいろ。

次世代が育つ。
そのときの権力者の都合。
自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。
(権力闘争に利用される)
病気。
仏教徒になりたい。
幕府に抗議するため。
天皇の意思。
理由なし。
あたりまえだと思っていた。

てきとうな皇位継承が150年の内部分裂を招く

後嵯峨天皇は、ゴタゴタ即位のわりには在位4年であっさり退位して、息子の後深草天皇に譲位します。

後嵯峨天皇は22才で即位。26才で退位。

息子・後深草天皇は4才で即位。

さらに14年後、次は後深草天皇に弟に譲位するように迫り、亀山天皇が即位します。

後嵯峨上皇は後深草・亀山の2人の天皇の26年の間、院政を行いました。

しかしこの交代で、室町時代の南北朝分裂にまで発展する内部分裂の原因を作ってしまいます。

亀山天皇が即位したとき亀山天皇の皇子が皇太子になりますが、兄・後深草上皇にも皇子が生まれました。

亀山天皇が即位したとき後深草上皇に息子がいたのかは不明。

微妙なところ。

第2皇子がのちの第92代 伏見天皇になる。

亀山天皇が即位したとき伏見天皇は生まれていない。

(亀山天皇の即位は1260年。伏見天皇は1265年生まれ。)

そして、後深草・亀山のどっちが治天の君になるかは鎌倉幕府が決めるという、いい加減な遺言を残します。

『治天の君』は、『天を治める人』という意味で、上皇のこと。

ここでは上皇が後深草・亀山の二人がいるので、どちらが天皇の後見人になるのかの判断を鎌倉幕府に丸投げした。

どっちが治天の君になるか? = どっちの息子が天皇になるか?

なので、息子たちの運命も変わる。

このいい加減な丸投げで、治天の君になれなかった後深草上皇と、亀山上皇の対立が生まれ、150年の内部分裂にまで発展します。

幕府の出した答えは、後深草と亀山の系統で交互に即位するという、これまた適当なものだったから。

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宮内庁HPより抜粋 色付きマークは筆者加工

大覚寺統(だいかくじとう)は、後嵯峨天皇、後宇多天皇が出家した後、大覚寺の門跡(住職)を務めたことに由来。(亀山系統)

持明院統(じみょういんとう)は平安京の一角に作られた寺院の持明院が、伏見上皇の邸宅になっていたことに由来。(後深草系統)

学校でも習う室町時代の南北朝は、その系譜の延長線上にある。

幕府が天皇の即位を決めるようになったもう一つの理由

後嵯峨天皇は幕府を頼るようになり、天皇の即位まで幕府に決めてもらうようになりますが、もうひとつ、幕府(武士)の朝廷・天皇に対する態度の変化もあります。

承久の乱は天皇・上皇と戦争をしましたが、武士の天皇・上皇に対する態度は雲の上の存在を見るようでした。

幕府軍の総大将・北条泰時(ほうじょう やすとき)と父・北条義時(ほうじょう よしとき)の会話です。

息子・北条泰時
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もし後鳥羽上皇が先頭に立って出陣してきたら、どうしますか?
父・北条義時
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そのときは武器を捨てて降参するしかない。

その後、後嵯峨天皇の即位のとき、幕府の執権になった泰時が、邦仁王を選んだことを京都に伝えるため安達義景を派遣します。

安達義景
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すでに忠成王(順徳上皇の皇子)が天皇に決まってたらどうしよう。ここはいったん戻って確認しよう。
安達義景
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もし、忠成王が天皇になっていたらどうしましょうか?
執権・北条泰時
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なんてことはない。それなら退位させればいい。

(当時は鎌倉と京都間の行き来は何日もかかるので、鎌倉の知らないところで即位している可能性があった。)

天皇が畏怖の存在から意のままに動かす存在に変わる瞬間

北条泰時にとって雲の上の存在だった天皇・上皇が、どうにでもなる存在に変わっています。

これが鎌倉幕府の姿勢になります。そしてそれは、室町・江戸幕府まで受け継がれました。

天皇・上皇が政治に関わらない、関われなくなった大きな原因です。これ以降、誰が天皇になるか選ぶ権利を幕府がもつようになります。

(といっても基本的には、朝廷の意見を幕府は尊重した。)

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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

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