歴代天皇 - 内外の権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政) -
六条天皇(ろくじょう)は歴代天皇の中で史上最年少で即位(生後7か月)し、史上最年少で上皇(満3才3か月)になった人です。
あまりにも幼いため何もしていません。まわりの大人たちの都合で天皇になり上皇になりました。
というかこれ、しゃべれるようになる前に退位してないか? 絶対に本人は天皇だった自覚ない。
中世 平安時代 - 末期 -
- 皇居
- 平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1164年11月14日 ~ 1176年7月17日
長寛2 ~ 安元2
13才
- 在位
- 1165年6月25日 ~ 1168年2月19日
永万元 ~ 仁安3
4年
- 名前
- 順仁
(のぶひと / よりひと)
- 父
- 第78代 二条天皇
(にじょう)
- 母
伊岐兼盛
伊岐善盛の娘
(いきの かねもり)
(いきの よしもり)
即位式の途中で泣き出し乳をもらう
順仁親王(のぶひと。六条天皇)の母は家柄が良いわけではなく、母の父親は大蔵大輔(少輔)といわれ、位も高いわけではありませんでした。
この役職は財務省の事務次官みたいなもの。
(今では十分の役職だが。)
そのため、二条天皇の第二皇子なのに庶子あつかいでした。
庶子(しょし)
正妻以外の子。愛人の子。
母親の家柄が低いとあつかいが雑になることがある。
当時の書物では、母のことを『伊岐善盛女(いきのよしもり の むすめ)』と名前で書かれていないことも多く、天皇の妃として認められていないのが分かります。
順仁親王は恵まれない出生でしたが、父・二条天皇の皇后・妃に子どもがいなかったので、生まれてすぐに皇后・育子(いくし)にあずけられ、後継者として育てられました。
二条天皇が病で退位したあと、皇太子になったその日に生後7か月で即位します。
六条天皇は歴代天皇で史上最年少の即位で、即位式の途中で泣き出し、乳母が乳を与えたら泣き止んだといわれます。
六条天皇には4ヶ月先に生まれた腹ちがいの兄がいるが、第一皇子とされていた。
兄の母親の実家の身分がさらに下で、馬の世話をする役職だったから。
これが原因で天皇の後継者として認められなかった。兄は寺に入れられて僧侶になる。
二条天皇はかなりの女好きで、だれかれかまわず手を出していたよう。 身分の低い女性にばかり手を出すのはめずらしい。
上皇が承認したのには思惑がある
六条天皇が生まれるころ、父が天皇(二条天皇)でしたが、お祖父ちゃん・後白河上皇の院政下でした。
二条天皇と後白河上皇は戦争をしたほど仲がよくありません。
六条天皇が生まれる前、後白河上皇の女御・滋子(しげこ。平清盛の妻の妹)に皇子・憲仁親王(のりひと。高倉天皇)が生まれています。
女御(にょうご)
位の高い朝廷の女官。天皇の側室候補でもあったので、天皇の側室という意味もある。
六条天皇の即位は二条天皇があせってたんですね? このままだと自分の子どもに引き継げないと。
後白河上皇は六条天皇の即位を認めます。
後白河からすれば、対立して排除した二条天皇派の残党を怒らせるよりも、恩を売っておいたほうがいい、その間に自分の地盤を固めようと思ったのでしょう。
また、次の天皇にと考えていた憲仁親王は満3才でした。まだ早いと考えたのかも。
当時、上皇のライバルになりつつあった武士の実力者・平清盛(たいら の きよもり)も上皇と同じ考えでした。
満3才3か月で上皇になる
即位してから4年後、後白河上皇と平清盛が動きます。六条天皇を退位させて憲仁親王(高倉天皇)を即位させました。
六条天皇は5才(満3才3か月)で上皇になります。これも歴代天皇の中で史上最年少の上皇。六条上皇は病にかかって13才(満11才8ヶ月)で亡くなりました。
- 生後7ヶ月で天皇になる
- 3才3ヶ月で上皇になる
- 11才で亡くなる