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院政とは何だったのか?どうして『いんせい』というのか?なぜ上皇が出てきたのか?

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院政は『いんせい』と読みます。

(上皇)の治』という意味で、藤原氏一強の摂関政治から天皇中心の政治システムに戻す流れの中で生まれました。

(天皇では心細いので必然と上皇がリーダーになる。)

実は、院政がなければ武家社会も生まれませんでした。どのようなものでしょうか?

なぜ、『いんせい』というのか?

院政は『院の政治』です。

院政は未熟な天皇を上皇が後見することで政治の実権をにぎりました。

太上天皇(だいじょうてんのう)

退位した天皇のこと。

上皇(じょうこう)

太上天皇の短縮した言い方。

太上法皇(だいじょうほうおう)

出家した上皇のこと。たんに法皇という。

(いん)

上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。

くわしくは『太上天皇とは何か?』

院政はなぜ始まったのか?

古代の日本は、天皇が直接政治を行う中央集権国家を目指しました。これは当時の世界標準のシステムで、世界と対等に渡り合うためです。

日本にとっての世界は、当時の最強・最先進国の中国。中国と対等の政治システムを作ることが最大の目標でした。そして、それは達成されました。

中央集権国家(ちゅうおうしゅうけんこっか)

権力が、都など中心になる場所に集まった国家。

日本は東京に権力が集中しているのでこれに当てはまる。

平安時代になると、中央集権国家の建設に貢献した藤原鎌足(ふじわらの かまたり)の子孫たちが政治権力を独占します。そこで生まれたのが摂政関白を中心とした摂関政治

しかし、藤原氏の摂関政治は藤原氏のための政治になっていきます。 日本全国の土地をどんどん藤原氏の私有地にしました(荘園)。

違法荘園まで登場し、藤原氏の横暴が国家の経済基盤を圧迫します。国家の利益を損なうほど藤原氏の行いはマイナスに働いていました。

それを改革する天皇があらわれます。 第71代 後三条天皇です。

大きな寺社勢力も荘園をもっていました。荘園の2大勢力です。

あとの院政期には上皇も荘園経営に乗り出すので、荘園は3大勢力で分け合うことになります。

荘園(しょうえん)

743年に私有地を持てる法律ができたことから始まる、上皇・貴族・寺社勢力・豪族の私有地のこと。

農園と言われることがあるが鉄の生産など工業も行われた。

室町時代くらいから武士などの地方の有力者に奪われ失われていく。

豊臣秀吉の太閤検地などの土地制度改革で、私有地はいったん国に返すことになったので消滅する。

後三条天皇が摂関政治の腐敗を改革する

後三条天皇は政治改革を行ないます。その中心は、藤原氏・寺社勢力の経済基盤だった荘園の整理を行うことでした。

後三条天皇は在位期間が4年半と短いですが、藤原氏の力を抑え込む法律を制定することに成功します。そして、改革の続きを息子の第72代 白河天皇へ託しました。

白河天皇は院政を確立させた天皇です。

やりすぎた藤原道長の反動

藤原氏といえば?』

必ず出てくる名前は藤原道長(ふじわら みちなが)でしょう。藤原氏最強の男と言っていい。

3代つづけて天皇の皇后に娘を出し、『天下は自分のために回っている』とまで謳っていたほど。

イキってる以外なにがあるでしょうか?

そんな道長も絶頂期から10年くらいで亡くなってしまいます。そして道長はやりすぎました。

反動はすぐにやってきます。息子の藤原頼通(よりみち)は道長ほどの力をもてませんでした。

とくに天皇の皇后を出すという点で。

院政は摂関家から皇后を立てるのにこだわらない

後三条天皇以降、『天皇の皇后は摂関家』にこだわらなくなります。近衛天皇にいたっては、二人の皇后を摂関家の養女にしてから嫁がせて体裁を整える始末。

院政が出てくるまで、藤原氏のトップの家から皇后を出し、そこから生まれた皇子が天皇になることで摂関政治は最強でした。

皇后の実家の長が摂政関白

天皇の母の実家が摂政・関白

天皇が摂政・関白の孫

この最強の布陣がくずれていくのと院政が確立されていくのは見事に反比例でリンクしています。

『政治は摂関にまかせるけど、嫁は自由に選ぶよ?』になったことで、上皇が自由になりました。

この自由度が政治の世界にまで進出した結果が院政です。

(天皇と摂関家を離すことで上皇が主導権を握った。)

院政では主導権だけが上皇にあって基本的に政治は摂関家にまかせていました。院政期で摂政・関白が完全に消えなかったのはそのため。

上皇が摂関家から距離を取るために、あえて別のところから天皇の皇后を立てたとも言える。

そこで白羽の矢が立ったのが、藤原氏閑院流(かんいん)。

藤原氏本流の北家だが、当時の主流派・藤原道長の子孫とは遠からず近からずの親戚。

(道長の叔父さんの流れ。)

院政期に入ると、閑院流は藤原氏の大きな流派のひとつに成長し、それは明治維新までつづいた。

三条家(さんじょう)・西園寺家(さいおんじ)・徳大寺家(とくだいじ)が有名。)

ちなみに、藤原道長の子孫の系統を御堂流(みどう)と言う。これが五摂家へとつながる。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

くわしくは『摂関政治とは何か?』で。

五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。

1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。

上皇は真っ向から御堂流と対立したわけではない。

『道長の叔父さんの系統だからいいでしょ?』と絶妙なラインを選んでいる。道長ほど力がなかった摂関家は抵抗できなかった。

院政はいつ始まったのか?

後三条天皇からあとを継いだ白河天皇は、藤原氏中心の政治から天皇中心の政治へ戻そうとします。

摂関政治では天皇の周辺が摂関家だらけだったので、それを排除して摂関家以外の人間を天皇の周辺に集める必要があります。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

くわしくは『摂関政治とは何か?』で。

五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。

1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。

白河天皇自身は早々と退位し太上天皇(上皇)になることで、自ら天皇の後見人になりました。

摂関政治では、天皇の周りは摂関家の一部の人だけが集まっていたので、自然に天皇は、摂関家の一部の人の意見だけを聞くようになります。摂関家の人々はやりたい放題。

天皇が上皇になるとそれを防ぐことができます。

上皇になるとなぜ摂関家を抑えられるのか?

ちょっと分かりにくいですね? もう少し細かく見ましょう。

天皇が上皇になる。

上皇は元・天皇なので、たくさんの人をまわりに置く。

天皇・上皇と接する人の数が増えた。

摂関家の人だけでは足りない。

いままで天皇・上皇に近づけなかった人たちが動員される。

天皇・上皇がいろいろな人の意見を聞くようになる。

摂関家の人が勝手なことをしづらくなる。

天皇は幼い(若い)いので、自然と政治の実権は上皇になる。

摂関政治が弱くなって上皇の院政が強くなる。

というしくみ。

白河上皇は白河院と呼ばれました。治の中心になって『院政』がはじまります。

また上皇は政治の実権だけでなく、天皇の即位・退位にまで主導権をもったため、

治天の君(ちてんのきみ)

と言われました。『天下を治(おさ)める者』という意味。

院政には武士の力が不可欠だった

白河上皇は勢力拡大のため新興勢力を取り込みます。武士です。このころ武士は貴族たちのボディーガードみたいなものでした。

地方に行けば、自警団を作ってその土地で力をもち始めた武士集団はいましたが、政治勢力としてはいない状態でした。

白河上皇は武士の軍事力を政治に利用しました。その後も武士を重用しつづけます。

少し後になりますが、武家政権を樹立する平清盛(たいらの きよもり)はこれがなかったら政治家になれなかったんですね?

上皇は武家社会の生みの親です。院政は結果として成長しすぎた武士に潰されてしまいます。親が子供に裏切られたかたち。

院政のポイントは上皇の長生き

院政期は、ひとりの上皇が政治の実権をにぎっているあいだに複数の天皇が即位しています。

白河院
(42年)
堀河天皇
鳥羽天皇
崇徳天皇
鳥羽院
(34年)
崇徳天皇
近衞天皇
後白河天皇
後白河院
(34年)
二条天皇
六条天皇
高倉天皇
安徳天皇
後鳥羽天皇
後鳥羽院
(25年)
土御門天皇
順徳天皇
仲恭天皇

院政の代表的な上皇です。それぞれ複数の天皇が即位し、そして長期間。長い間上皇として政治の中心にいることが院政をつづけるには必要でした。

カッコ内の年数は上皇になってからの年数です。天皇時代の年数は含まれません。天皇時代を含めるとさらに長くなります。

この時代は、政治の中心にいた上皇がすぐに天皇を交代させたので、同時に複数の上皇がいました。

摂関政治が衰えたので、院政内部で壮絶な権力闘争が起きたのも特長。じっさいにそれが原因で大乱も起きています。(保元の乱平治の乱

院政内部の権力闘争には摂関家の内部対立がからんでいました。

摂関家の人がそれぞれの勢力に分散されたので、これが摂関政治を衰えさせた原因のひとつかもしれません。

院政を潰したのは政治家として成長した武士

皮肉にも政治システムの院政を潰したのは、院政で政治家として成長した武士たちでした。

院政は130年ほどつづきましたが、その半分は成長した武士と上皇の権力闘争の時代です。その中に、平清盛平家政権があり、源義経武蔵坊弁慶の物語があり、源頼朝による鎌倉幕府の成立がありました。

平清盛や源頼朝など、強いキャラクターが多いため武士の時代だと思うかもしれませんが、このときは院政期です。

そして、大乱(承久の乱)にまで発展した朝廷と鎌倉幕府(北条氏)の対立がありました。それに負けて院政が終わり本格的な武士の時代になります。

院政は歴史の中心だった

歴史の教科書や、映画、ドラマなどで院政は注目されません。

この時代は、平清盛、源頼朝・義経など、武士が活躍した時代でもあるので、彼らを中心に描くことが多いからです。しかしこのとき政治の中心は院政です。

平家政権は後白河上皇の院政のとき生まれ、上皇と政治闘争をし、後白河院政中に倒れました。

そんな平家政権も、清盛からあとを継いだ平重盛(たいらの しげもり)は、後白河上皇の院政との並立体制を模索します。

源頼朝は鎌倉で体制を固めますが、1192年になるまで武家の棟梁・征夷大将軍の地位を朝廷からもらえませんでした。

後白河上皇が、頼朝に大きな力をもたせることを強硬に拒否したためです。このときも後白河上皇の院政時代。

院政が歴史から完全になくなったのは1121年の承久の乱でしょう。3人の上皇が島流しにされ天皇が交代させられます。これで完全に院政は終わりました。

政治システムとしては終わりますが、形としては残ります。

天皇が自分から退位して譲位するのが当たり前になって、崩御して次に代が変わるのが珍しいくらいになっていたから。

譲位(じょうい)

天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。

第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。

はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。

大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇

持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。

(制度化されてから2/3が譲位)

なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。

それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。

譲位の理由はいろいろ。

次世代が育つ。
そのときの権力者の都合。
自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。
(権力闘争に利用される)
病気。
仏教徒になりたい。
幕府に抗議するため。
天皇の意思。
理由なし。
あたりまえだと思っていた。
崩御(ほうぎょ)

死亡の最高の敬語。

日本では天皇・皇后、その経験者が亡くなると使われる。

院政期と鎌倉時代はかぶっている

1192年から1121年まで、鎌倉幕府と院政が並立していました。幕府の勢力は京都を中心とした西日本、四国、北部九州は管轄外でした。これらは院政下にありました。

鎌倉幕府の成立期については別記事に任せますが、1192年は後白河上皇が亡くなった年です。そのすきを突いて、公家の九条兼実(くじょう かねざね)が、勝手に源頼朝を征夷大将軍に就任させました。

いまの歴史の見方は鎌倉幕府の成立ばかり見て上皇の存在を軽んじています。

たしかに今のぼくたちは、武士が政治の中心となることを分かっています。しかし当時は、武士が政治の中心になると当事者の武士たち以外は考えてもいないでしょう。

武士が政治の中心になることを知っているぼくたちが、そのままあの時代を見てしまうと大事な存在を見落としてしまいます。

やはりこの時代は、上皇の存在は圧倒的に大きいと言わざるを得ません。

(あばれる君 風。)

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天皇・皇室の本

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