歴代天皇 - 江戸幕府に押さえつけられたけど負けなかった天皇たち -
後桜町天皇(ごさくらまち)は、明正天皇から119年ぶりに誕生した女帝です。いまのところ『最後の女帝』。
宮家から復帰させて即位させた光格天皇の教育係をするほどの人で、中継ぎ以上の働きをします。
そして、上皇を『院』と呼ぶ、千年近くもつづいた習慣はこの人を最後にやめました。
近世 江戸時代
- 皇居
平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1740年8月3日 ~ 1813年11月2日(閏年)
元文5 ~ 文化10
74才
- 在位
- 1762年7月27日 ~ 1770年4月28日
暦12 ~ 明和7
9年
- 名前
- 智子
(としこ / さとこ)
- 別名
緋宮
(あけのみや)
- 父
第115代 桜町天皇
(さくらまち)
- 母
二条舎子
(にじょう いえこ)青綺門院
(せいきもんいん)
先代の急死で中継ぎとして即位
先代・桃園天皇が22才の若さで亡くなったため、1才ちがいの異母姉の智子内親王が即位します。後桜町天皇です。23才でした。
即位した年齢を見ると当時としてはとても遅いです。本来なら、どこかに嫁に行くとか、文化人になるとか、天皇になる人生ではありませんでした。
桃園天皇には、皇子の英仁親王がいましたが、まだ幼すぎた(5才)ので、親王が成長するまでの中継ぎとして後桜町天皇は即位します。
中継ぎでも天皇の仕事はきっちりこなす
後桜町天皇は何もしない無能な人ではありませんでした。
まず後桜町天皇には上皇がいません。父の先々代(第115代)桜町天皇もすでに亡くなっています。
たんにサボれる環境ではありませんでした。そして、後桜町天皇は天皇の仕事をきっちりこなします。
桜町天皇は、とても頭のいい人だったようです。
上皇になってもフル稼働
後桜町天皇は在位9年で英仁親王に譲位して上皇になりました。でも10年後、後桃園天皇が亡くなってしまいます。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
後桃園天皇には、亡くなった年に娘が生まれていましたが皇子がいませんでした。
そこで急遽、閑院宮家(かんいんのみやけ)の2代目当主・典仁親王の第6皇子を後桃園天皇の養子に迎えて天皇に即位させます。光格天皇です。9才でした。
後桜町上皇は、よそから連れてきた光格天皇をかわいがり教育係を引き受けました。自分の子供のように思ったのかもしれません。
尊号事件で光格天皇をいさめる
光格天皇の父・典仁親王は天皇の孫で宮家の当主ではありましたが、左大臣・右大臣などの官職よりも下の地位でした。
光格天皇はこれが不満で、父に太上天皇(上皇)の称号を贈ろうとします。でもこれは、幕府の老中・松平定信(まつだいら さだのぶ)に拒否されました。
これを尊号事件(そんごうじけん)と言います。このときの光格天皇は納得できず、意地でも父を上皇にしようとしていました。
それを後桜町上皇が、
御代長久が第一の孝行
(あなたが長く天皇をつづけることが一番の親孝行)
と言っていさめます。
けっきょく、この問題が完全におさまるのに6年もかかってしまいました。それだけ光格天皇がしつこかったようです。
最後の女帝にして最後の院
後桜町天皇は文才があってたくさんの作品を残しています。そして74才で亡くなりました。
後桜町天皇は、日本の歴史上『最後の女帝』です。そして、『最後の院』でもあります。
光格天皇から亡くなったときの追号に『天皇』を使う決まりになったので、『院』は使わなくなった。
なぜその前の後桃園天皇には追号されなかったのか、よく分からない。
皇位の系統が変わったので、内部抗争が起きるのを恐れたのか?
光格天皇が、自分の父を上皇にするのにこだわって忘れてしまったのか?
いろいろあったのだろう。