第72代 白河天皇 院政の創始者

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白河天皇肖像画

歴代天皇 - 内外と権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政の時代) -

白河(しらかわ)上皇はミスター院政ともいえる男です。天皇を退いてから力を発揮し、60年近く君臨した化け物のような人です。

息子、孫、ひ孫を順に天皇に即位させ、その庇護者となって政治の実権を握りました。これが院政の本格的な始まりです。

また、武士を政治勢力として台頭させたという意味で歴史的に大きなことをしたとも言えます。

中世 平安時代 - 末期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあんのみや)
  • 生没年
  • 1053年6月19日 ~ 1129年7月7日
    天喜元 ~ 大治4
    77才
  • 在位
  • 1073年12月8日 ~ 1087年11月26日
    延久4 ~ 応徳3
    15年
  • 名前
  • 貞仁
    (さだひと)
  • 別名
  • 六条帝
  • 藤原茂子
    (ふじわら もし / しげこ)

    藤原公成の娘
    (ふじわら きんなり)

 天皇になるときも辞める時も急だった

白河天皇は、父親の後三条天皇が関白 藤原頼通(ふじわら よりみち)にうとまれていたこともあって、幼いころは冷遇されていました。

政治の実権を藤原氏から奪取する狼煙を上げたのは父親の後三条天皇です。父親は藤原氏から実権を取り返すために様々な改革を断行します。

ただこの父親は、在位4年半で退位します。それを引き継いだのが20才の白河天皇でした。

その翌年には父親は亡くなってしまいます。改革半ばにして父親から大仕事を受け継いだことになりました。

その白河天皇も在位15年で退位します。退位の仕方はとても急でした。

自分の第2皇子 善仁(たるひと)親王を皇太子に立てたその日に譲位します。善仁親王は8歳でした。

なぜそのようなことをしたのでしょうか?それには誰が政治の実権を握るのかの権力闘争が関係しています。

当時の政治システム

当時の政治システムは、摂関政治(せっかんせいじ)という、摂政(せっしょう)関白(かんぱく)を中心にした政治システムでした。

摂政は天皇の政治権力執行の代理人です。有名なところでは聖徳太子(しょうとくたいし)がいます。

ただこの時代は皇族が摂政を務めることはありませんでした。そのかわり藤原氏が務めるようになっています。

関白は、天皇の政治を補佐する人です。行政を実際に実行する左大臣以下の人たちを管理するマネージャーみたいなものでしょうか?

あと、左大臣(さだいじん)右大臣(うだいじん)... etc と続いていきます。左大臣は今でいうと総理大臣みたいなものです。

摂政、関白は、総理大臣の上の位なので雲の上の存在でした。これらの役職は、天皇の周りに藤原氏を中心とした貴族がたくさんいて、藤原氏の人たちで持ち回り担当していました。

天皇の政治家としての仲間は藤原氏に頼る以外いない状態で、天皇は周りの貴族たちに担ぎ出されるだけの存在になっていました。

それまでの間、天皇は操り人形に成り下がっているだけだったのか?

天皇はこの状況を黙って見ているだけだったのでしょうか?

それまでの天皇の中にはなんとか自分の手で政治ができるようにチャレンジしている人もいます。天皇の息子を民間人にして、それらの人を左大臣、右大臣に任命することで天皇自ら政治を行おうとする人もいました。

ちなみに民間人になる時の姓は、源(みなもと)の人が多いです。あの源氏(げんじ)の源です。ただ、藤原氏を超えるだけの勢力を作ることはできませんでした。

院政は政治の実権を藤原氏から天皇へ戻すためのシステム

院政(いんせい)とは、天皇を早々と次の世代に引き継いで上皇となり、自由な立場で政治を行うことを言います。

太上天皇(だじょうてんのう)

退位した天皇のこと。

上皇(じょうこう)

太上天皇の短縮した言い方。

太上法皇(だじょうほうおう)

出家した上皇のこと。たんに法皇という。

院(いん)

上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。

詳しくは『太上天皇とは何か?』

なぜこのようなシステムを作ったのでしょうか?

前にも言ったように政治家としての天皇は仲間がいません。天皇1人では何もできないのですが、このころは藤原氏中心の摂関政治が腐敗していました。

そこで、天皇を中心とする親政に戻そうという流れができて、そのために院政が作られていきます。

後の武士の時代が作られたのは白河天皇のおかげ

この当時の武士は、貴族たちの防衛を担当する下部組織という存在にすぎませんでした。地方に行けば、自警団を組織してそれぞれの土地で力を持ち始めた武士集団は存在しました。しかし、政治勢力としての武士はいない状態でした。

力を誇示して地元で大手を振って歩くヤンキーぐらいの存在です。社会を動かすほどではありません。

そのヤンキーの地位を大きく引き上げた人が白河天皇です。上皇になっていた白河院は、自分の護衛のために本格的な護衛組織を作りました。

”北面の武士”です。白河院の御所の北側を拠点にしたのでそう呼ばれます。この北面の武士の中に、平清盛の父親や祖父などもいました。また、源頼朝の父親や祖父なども参加しています。

北面の武士は、後の武士の世を作る主人公たちが大集合した武士のスーパースター集団です。藤原氏に対抗するため新興勢力の武士を取り込んだ結果でした。

白河院は、武士の存在を社会的に引き上げたという意味で、武士の生みの親といって良いでしょう。この人がいなければ武士はただのヤンキーだったわけですから。

北面の武士は、武装した僧(僧兵)に対抗するため作られたというのがふつうです。当時は寺社仏閣の力が大きくまた武装していたので、よく反乱が起きていました。
しかし、それなら朝廷全体を防衛しなければならないはずですが、北面の武士は上皇の護衛です。ここでは、上皇の政治的な意図を大きな結成理由にしています。

院政を確立した最大の要因は白河院が長生きしたこと

旧勢力を完全に抑え込むためには、新しいシステムを構築するのに長い時間をかけることは必須条件です。

徳川政権が長く続いたのも、徳川家康が長生きして新しいシステムを構築する時間がたっぷりあったことが大きいでしょう。

白河院も長生きしています。白河院の院政時代に天皇だった人は3人います。

息子堀河天皇(在位22年)
鳥羽天皇(在位17年)
ひ孫崇徳天皇(在位19年のうち最初の6年間)

42年もの間、上皇として政治の中心であり続けました。天皇時代の15年を含めると、57年もの間日本のトップであり続けました。

これほど長い政治キャリアを持つ天皇は、昭和の時代になるまでありません。ちなみに昭和天皇は、20歳で摂政になってからトータルで69年トップであり続けました。

これだけの長い間時間をかけることで、摂政関白の政治権力としての力が失われていきます。

これ以降、摂政・関白は役職としては存在し続けますが、平安時代の絶頂期ほど圧倒的な実権を握ることはありませんでした。

本人は意図しなかった武家社会の下地を作った

この長い院政の中で、武士から平家一門が頭角を現します。

鎌倉時代の初期まで院政は続くのですが、今度は院政システムと平家の武家システムが対立するようになって、お互いに勢力争いを始めることになります。

天皇を中心とした親政を作るための院政が、結果的に武士の社会を作る下地になってしまったというところに歴史の皮肉を感じます。

女好きが院政の寿命を縮めた?

最後に下世話な話を1つ。

”英雄色を好む”と言いますが、白河院はこの言葉を地で行くような人でした。相当な女好きだったことは有名です。

平清盛は白河院の落胤といううわさ話は有名です。

落胤(らくいん)

正妻以外の女性に産ませた子供のこと。

また、ひ孫の崇徳天皇は、実は白河院の子供だという話もあります。

孫の鳥羽院は崇徳天皇のことを ”叔父子(おじご)”と呼んで冷たくあたっていました。叔父子とは、”お前は俺の子じゃないだろう、本当は叔父さんだろう”という意味です。

崇徳天皇の母親は藤原璋子(ふじわら しょうし)です。璋子は子供のころからずっと白河院の下で生活していたため、鳥羽院は爺さんの彼女を押し付けられたと思っていたようです。
(真偽は不明。当人にしかわからない。)

この親子関係のぎくしゃくが ”保元の乱” の原因になって、崇徳上皇は讃岐に配流され非業の死を遂げます。また、この戦で武士の力は一層強まって、徐々に武士が院政の最大のライバルへとなっていきます。

 

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