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第12代 景行天皇。ヤマト王権ピンチ。反抗的な豪族を力でねじふせる

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歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -

景行天皇(けいこう)は、ヤマト王権3代目リーダーです。3代にもなると王権の力が弱くなります。反抗的な豪族がたくさん出てきました。

そこで景行天皇の息子で討伐軍の闘将・ヤマトタケル(日本武尊)が登場します。

景行天皇が遠征して九州征伐したともいわれます。

先史・古代 古墳時代

  • 皇居
  • 纏向日代宮
    (まきむくのひしろのみや)

  • 生没年
  • 紀元前13年?月?日 ~ 130年11月7日
    垂仁天皇17年 ~ 景行天皇60年
    137?, 106? 才
  • 在位
  • 71年7月11日 ~ 130年11月7日
    景行天皇元年 ~ 景行天皇60年
    60? 年
  • 名前
  • 太足彦忍代別尊
    (おおたらしひこおしろわけ の みこと)
  • 日葉酢媛命
    (ひばすひめ の みこと)

    丹波道主命のむすめ
    (たには の みちぬし の みこと)

  • 皇后
  • 播磨稲日大郎姫命
    (はりま の いなび の おおいらつめ の みこと)

    若建吉備日子の娘
    (わかたけきびつひこ)

  • 皇后
  • 八坂入媛
    (やさか の いりびめ)

    八坂入彦皇子の娘
    (やさか の いりびこ の みこ)

双子の皇子の父

景行天皇は、先代で父・垂仁天皇の第3皇子で父が亡くなると即位しました。

翌年(景行2年)、播磨稲日大郎姫命(はりま の いなび の おおいらつめ の みこと)を皇后に迎えて、双子の皇子が生まれます。

大碓皇子(おおうす の みこ)と子碓皇子(こうす の みこ)で、弟・子碓は、あの有名な日本武尊(やまとたける の みこと)。

景行天皇は、3世紀後半から4世紀前半に活躍したといわれ、都は纏向遺跡(まきむく)に残っています。

12代 景行天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

皇后の年齢がおかしい?

皇后・播磨稲日大郎姫命は、第7代 孝霊天皇の孫娘とされます。

そうなると世代がおかしい。孝霊天皇は、景行天皇から見ると200年以上前に生まれた人で、大郎姫でさえ100年以上はなれた世代の人です。

この時代の天皇やそのまわりの人には、年の計算や寿命がおかしい人ばっかりです。

天皇が100年以上生きている。

300年以上天皇を支えつづけた伝説の臣下がいる。(武内宿禰

武内宿禰(たけしうち の すくね)

第13代~16代の成務仲哀応神仁徳の4代の天皇に仕えた。

成務天皇と同じ日に生まれ、300才まで生きたという伝説の臣下。

最初の大臣になる。のちに大臣は政治の最高責任者になるが、それをつとめた豪族は宿禰の子孫だといわれる。

隆盛を誇った順に葛城氏(かずらき)、平群氏(へぐり)、蘇我氏(そが)。

大化の改新藤原氏が台頭するまでつづいた。

武内宿禰 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)

大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。

大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。

大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。

大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。

大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。

ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。

しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。

連も臣も氏姓制度で設けられた姓。

いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。

(個人的にはあるような気がする。)

おそらく、皇后の出身があまりよくないところだったのでしょう。

日本武尊の母で第14代 仲哀天皇のお祖母ちゃんなので、ステータスが高くないといけないになった可能性大です。

とんでもない皇子。大碓皇子

日本武尊は有名ですが、アニキの方はほとんど知られてません。この人、とんでもないことをやらかします。

美濃(岐阜)にいる第9代 開化天皇の孫・大根王(おおね の みこ)の二人の娘が美しいと評判でした。

景行天皇は二人とも妃に迎えることにします。

景行天皇
emperor keiko image
大碓。二人の姫を迎えに美濃へいきなさい。
大碓皇子
古墳時代の人
わかりました。

美濃へ行った大碓はやらかします。

大碓皇子
古墳時代の人
めっちゃキレイ。俺の嫁にしよ!
大碓皇子
古墳時代の人
えーっと。そこの君と君。いまから名前を兄媛(えひめ)と弟媛(おとひめ)にして、天皇のところへ行って。

『妃の替え玉事件』です。

大碓皇子
古墳時代の人
父上。連れてまいりました。
景行天皇
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???。キレイか? ちがうんじゃね?
景行天皇
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大碓め。横取りしたな。
景行天皇
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昔からそうゆうヤツだった。怒ってもしょうがないか。
景行天皇
emperor keiko image
わかった。ごくろうさま。

景行天皇は気づきましたが何も言いませんでした。

大碓皇子
古墳時代の人
やっべー。バレてるよ。しばらくオヤジと会うのやめよ。

大碓は気まずくなって食事のときも天皇と同じテーブルにつきません。

兄殺し?行きすぎた闘将・日本武尊

景行天皇は、日本武尊に大碓皇子の説得をまかせましたが、5日も姿を見せませんでした。

景行天皇
emperor keiko image
小碓。大碓はどうした?説得したのか?
日本武尊
古墳時代の人
説得しました。
景行天皇
emperor keiko image
どうやって説得したんだ?
日本武尊
古墳時代の人
夜明け前にトイレの前でまちぶせして、手足をひきちぎって敷物でつつんで投げ捨てました。

(コワいっす。説得じゃないっす。ただの惨殺。)

正義感が強すぎる日本武尊は、『説得』を『殺せ』と思ったらしく、アニキを殺してしまいました。

日本武尊は中学生くらいの年。

これで景行天皇は日本武尊を警戒しました。自分もいつか殺されるんじゃないかと。

日本武尊は幼いころから優秀だったので、よけいに思われたんでしょうね?

これは『古事記』の話です。

日本書紀ではちょっとちがう。

弟媛は景行天皇を嫌って兄媛をさしだす。兄媛は皇后になって第13代 成務天皇を産んだ。

大碓はべつの姉妹を横取りする。そのあと美濃に左遷された。日本武尊の兄殺しはない。

ここでも『妃横取り事件』はあるので、よっぽどクズだったんでしょうね?

古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)

第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。

それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。

国記と天皇記

第33代 推古天皇のとき、聖徳太子蘇我馬子(そが の うまこ)が編集長になって作ったと言われる。

国記
(こっき)
国家の歴史書
天皇記天皇の系譜

天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。

そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。

帝紀と旧辞

帝紀
(ていき)
天皇の系譜、功績をまとめたもの。
旧辞
(きゅうじ)
各氏族の系譜をまとめたもの。
氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。
日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。

帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。

当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。

帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。

古事記(こじき。ふことふみ)

帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。

712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。

20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。

(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)

日本書紀(にほんしょき)

完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。

中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。

天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。

古事記倭語を漢字にあてた。
『夜露死苦』(よろしく)みたいに。

国内向け。
国家統一に利用するためか?
日本書紀漢字で書かれた。
(中国人でも読める。)

国外向け。
世界に日本をアピールするために利用か?

景行天皇とヤマトタケルの関係

古事記と日本書紀では、景行天皇と日本武尊の親子関係はまったくちがいます。

古事記では日本武尊の兄殺しがあるため、景行天皇は日本武尊を恐れ遠ざけました。

15才の日本武尊に熊襲(くまそ。南九州の豪族)の討伐を命令し、終わってヤマトに帰ると、ねぎらいの言葉も休むヒマもなく、東国(東海から関東)の蝦夷(えみし)の討伐を命令します。

日本武尊は、ショックで悲しい気持ちのまま東国へ出発しました。

そして東国征伐が終わり、もう少しでヤマトに着くところで、伊吹山のカミにたたって死んでしまいます。

(戦での負傷で死んだのが現実的。)

日本武尊が悲運のヒーローと言われるところですね?

一方、日本書紀では、景行天皇と日本武尊はお互いに気を使いあう、いい親子です。

日本武尊の東国平定をねぎらい、房総半島まで天皇が行幸するくらい。

行幸(ぎょうこう。みゆき)

天皇のお出まし。お出かけ。

景行天皇も闘将?

古事記では、抵抗軍を討伐したのはすべて日本武尊です。日本書紀でもほとんどは日本武尊の手柄。最大のヒーローでしょう。

でも日本書紀では、景行天皇が九州遠征をしました。7年もかけて転戦し制圧します。

息子のヒーローっぷりに、かわいそうだから少し親父に華をもたせたのでしょうか?

景行天皇は、古事記では137才、日本書紀では106才で亡くなります。

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第11代 垂仁天皇。ヤマト王権・2代目リーダー奮闘記。伊勢神宮を建て出雲大社を改装する。
第13代 成務天皇。地方の統治機構を作ってヤマト王権のレベルを上げる
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天皇・皇室の本

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