第75代 崇徳天皇 非業の死を遂げて大魔王になる

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崇徳天皇肖像画

歴代天皇 - 内外と権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政の時代) -

崇徳天皇(すとく)は出生にただならぬスキャンダルがあり、生まれた時から父親の鳥羽上皇に嫌われすべてを奪われる悲運の天皇です。

弟の後白河天皇と戦争をして負けて島流しまでされてしまい、最後は大魔王になって祟るようになります。

中世 平安時代 - 末期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあんのみや)
  • 生没年
  • 1119年5月29日 ~ 1164年8月26日
    元永2 ~ 長寛2
    46才
  • 在位
  • 1123年2月28日 ~ 1142年12月7日
    保安4 ~ 永治元
    19年
  • 名前
  • 顕仁
    (あきひと)
  • 別名
  • 讃岐院
  • 藤原璋子
    (ふじわら しょうし)

    待賢門院

崇徳天皇は生まれた時から人生が決まっていたのかもしれない

崇徳天皇は、出生の事情から波乱です。父親は第74代 鳥羽天皇なのですが、実はひい爺さんであるはずの白河法皇が本当の父親だというのです。これはいわば公然の秘密でした。

太上天皇(だじょうてんのう)

退位した天皇のこと。

上皇(じょうこう)

太上天皇の短縮した言い方。

太上法皇(だじょうほうおう)

出家した上皇のこと。たんに法皇という。

院(いん)

上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。

詳しくは『太上天皇とは何か?』

父親の鳥羽天皇もそのように思っていて、いつも崇徳天皇には冷たく当たります。また、鳥羽天皇は、白河法皇から無理やり退位させられて、次に即位したのが崇徳天皇だったため、崇徳天皇が鳥羽天皇の地位を奪った形になりました。

崇徳天皇は5才で即位します。白河法皇が生きているうちはよかったのですが、法皇が亡くなってからは状況が一変します。

鳥羽上皇の復讐劇が始まる

後ろ盾を失った崇徳天皇と鳥羽上皇は、10年くらいはお互いそれなりに平穏に過ごしていました。しかし、鳥羽上皇は反撃の狼煙を上げます。

その手始めに、自分の寵愛している美福門院 得子(とくし)が生んだばかりの息子を崇徳天皇の皇太弟にします。のちの近衛天皇なのですが、このときわずか生後3か月。

これで、崇徳天皇の後継者封じを実行しました。そして、崇徳天皇に退位を迫りました。鳥羽上皇としては、寵愛している美福門院が生んだ近衛天皇を天皇にするためです。

崇徳天皇は23才で退位して、親子ほども歳が離れた幼い弟に天皇を譲位し上皇になりました。近衛天皇は3才で即位します。

これで、崇徳上皇の立場はなくなりました。近衛天皇の後見人は父親である鳥羽上皇で、当然、院政の主人公は鳥羽上皇です。

崇徳上皇の出番はありません。崇徳上皇は、鳥羽上皇に政治の実権を奪い返される形になりました。

崇徳上皇に復活のチャンスが訪れる

このまま、鳥羽上皇 - 近衛天皇 政権が続けばおそらく平穏無事に進んでいたでしょう。崇徳上皇の出番は永遠になかったかもしれません。

しかし、ここで崇徳上皇に復活の兆しが見えてきます。近衛天皇が17才で亡くなります。しかも、近衛天皇には子供がいませんでした。

このとき崇徳上皇は37才で、隠居するにしては若すぎます。崇徳上皇もまだまだやる気を失ってはいませんでした。自分が再び重祚して天皇に返り咲くか、自分の息子を天皇にしようとします。

重祚(ちょうそ)

一度退位した天皇が再び天皇になること。

二度目のときの名前は新しく付けられる。

男性天皇は1人も重祚していない。

しかし、これは鳥羽法皇(近衛天皇が即位した年に出家)が許しませんでした。

崇徳上皇は復活の芽を完全に潰された

近衛天皇の死について近衛天皇の母親である美福門院が、『近衛の若死は崇徳が呪詛をかけたからだ』 といい始めます。

それを聞いた鳥羽法皇は、崇徳上皇と母親が同じで、8才年下の弟である雅仁(まさひと)親王(後白河天皇(ごしらかわ))を天皇にして、雅仁親王の息子を皇太子にしました。

嫌いな崇徳上皇と、寵愛している美福門院のどちらの意見を聞くかと言われれば当然そうなるでしょう。

それでも、崇徳上皇は決して無理な復活劇を望んでいるわけではありません。

まず雅仁親王は皇太子の経験がありません。雅仁親王は近衛天皇の12才年上の兄です。当時はすでに嫡流が皇位継承で優先される習慣がありました。一回りも年下の弟に皇位が移った時点で雅仁親王は後継争いから外されています。

また、雅仁親王の息子はすでに出家して寺に預けられていました。雅仁親王は本人だけでなく系統そのものが後継争いから外れていたことになります。

近衛天皇が亡くなり子供がいないとなると、天皇の経験もあり年齢もまだまだ若く、皇位継承のラインから外されたことのない崇徳上皇と、早々と皇位継承のラインから外されている雅仁親王を比べた時に、崇徳上皇の方が優位に感じても何もおかしくありません。

じつは、皇位継承のラインから外されている人を戻すことは余程のことがない限りあり得ません。余程のこととは、天皇のなり手がいないという場合です。

このときは、まだ37才という若さの崇徳上皇がいますし、その息子もいます。雅仁親王を皇位につけるというほうがむしろ、鳥羽上皇がむりやりねじ込んだという印象すらあります。

実際に鳥羽上皇の無理やりのねじ込みで後白河天皇が即位することになりました。このとき後白河天皇は29才。

これで、崇徳上皇の復活の芽は完全に断たれました。

崇徳上皇にとって、後白河天皇が即位したことはあまり不都合ではありません。同時に、後白河天皇の息子を皇太子にしたことの方が不都合でした。皇位継承のラインが崇徳から後白河に移ってしまったからです。

鳥羽法皇の目的は、この皇位継承の強引なライン変更にありました。崇徳上皇は、この強引な手法に対して強引な手で応戦しようとします。

クーデターを計画しついに挙兵

崇徳上皇は、強引な手で応戦しようとクーデターを画策します。鳥羽法皇が亡くなった翌日に、平忠正(たいらの ただまさ)や源為義(みなもとの ためよし)ら武士を率いて挙兵します。

平野忠正は平清盛の叔父さん、源為義は、頼朝・義経兄弟、木曽義仲のお祖父さんになります。これが ”保元の乱” です。

保元の乱は本当の ”天下分け目”

保元の乱は、日本の政治勢力のすべてが二分された戦です。
皇族は崇徳上皇派と後白河天皇派(鳥羽法皇派)に分かれ、これに貴族である藤原摂関家の内乱が加わり、それぞれ上皇派と天皇派に分かれました。

また、存在が大きくなりつつあった武士がそれぞれ上皇派と天皇派に分かれます。

よく”天下分け目の関ケ原”といいますが、関ケ原は武士同士の争いで、貴族、天皇は関係ありません。保元の乱が本当の”天下分け目”でしょう。

武士の分かれ方が面白い

このときの武士の分かれ方が面白いです。同じ一族はひとつにならずに、それぞれ上皇派、天皇派に分かれます。どちらにも平氏も源氏もいました。

しかも遠縁ではなくて、親、兄弟、いとこなどがそれぞれ分かれました。こういう複雑なところが、保元の乱の詳細があまり知られていない原因なのかなと思います。
本当は、関ケ原よりも保元の乱の方がスケールの大きい対立なのですが。

ちなみに、この戦に平清盛(たいらの きよもり)と源頼朝(みなもとの よりとも)の父親の源義朝(みなもとの よしとも)も参戦しています。どちらも後白河天皇派で参戦しました。このときは仲間だったんですね。

クーデターはあえなく失敗

鳥羽法皇はこの大乱を予想していたみたいです。自分の御所の警護をしていた源氏・平氏など有力武士に、自分が亡くなった後は後白河天皇を助けるように命じていました。

クーデターはあえなく失敗。待ち構えていた後白河天皇派の武士によって逆に奇襲攻撃を受けあえなく後退します。

崇徳上皇は讃岐(香川)へ配流されました。崇徳上皇を讃岐院(さぬきいん)と呼ぶ理由はここにあります。

失意の崇徳上皇は強大な怨念を持った大魔王になる

京を離れた讃岐院は、戦死者の供養と反省をするために仏教に帰依して熱心に写経を始めます。そして、この写経を寺に収めてほしいと朝廷に差し出します。

それに対し後白河天皇は、”呪詛が込められているのではないか” と疑って、写経を突き返します。怒り狂った讃岐院は、自分で舌を噛み切り、その血で ”大魔王になって日本国を転覆させてやる” と、突き返された写経に書いて海に捨ててしまいました。

それ以来讃岐院は、爪や髪を伸ばし続け悪魔のような姿に変貌します。そして46才で亡くなりました。火葬の煙は都に向かってなびいたと言います。

その後、”平治の乱” など、京都では不幸な出来事が相次ぎました。人々はそれを讃岐院の祟りだと噂します。

江戸時代後期に書かれた物語、『雨月物語』の「白峯」には、讃岐院が朝廷に呪いの言葉をはく様子が書かれています。江戸時代後期になっても語りたくなるほどインパクトがあった事件なのでしょう。

崇徳上皇の里帰りを実現したのは明治天皇

明治天皇は即位したとき、使者を讃岐に送り崇徳上皇の霊を京都に連れて帰らせ、白峯(しらみね)神宮を創建してそこに崇徳上皇を祀りました。

明治天皇も『雨月物語』を読んでいたのかもしれません。それを読んで自分の手で崇徳上皇の怒りを鎮めたいという思いに駆られたのでしょう。

こういうことを聞くと、大昔の話で日本昔話のようなエピソードでも、ぐっと現実の世界のような感覚になります。歴史の繋がりってすごいなぁと思います。

崇徳上皇は実は芸術の才能があった

崇徳上皇の詠った歌は百人一首に選ばれています。

「瀬をはやみ 岩にせかるるたき川の われてもすゑに あはんとぞおもう」
(川の流れが早いので、岩にせき止められた急流が、ふたつに分かれてもまたひとつになるように、私たちもきっと結ばれるでしょう)

という恋歌です。

大魔王のイメージとは正反対の優しい歌で、父親や弟に排除されなければ、もっと別の人生があったのかもしれません。父親の鳥羽法皇もそうですが、結局、白河法皇に翻弄された人生でした。

 

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