歴代天皇 - (律令)国家・日本を作った天皇たち -
第49代 光仁天皇(こうにん)は、王から飛び級で天皇になりました。王たちの殺し合いありのなか、必殺の酔拳で生き延びて天皇にまでなります。
元々、天皇になるはずはなく政治家をしていたほどで、60才を過ぎて即位した『天皇は長老でなければならない』の最後の人であり古代の最後の天皇です。
古代 奈良時代
- 皇居
平城宮
(へいじょうきゅう)
- 生没年
- 709年10月13日 ~ 781年12月23日
和銅2 ~ 天応元
73才
- 在位
- 770年10月1日 ~ 781年4月3日
宝亀元 ~ 天応元
12年
- 名前
- 白壁
(しらかべ)
- 別名
天宗高紹天皇
(あめむねたかつぎ の すめらみこと)
- 父
施基皇子
(しき)第38代 天智天皇の皇子
(てんじ)春日宮天皇
(かすが の みや の すめらみこと)
- 母
紀橡姫
(きの とちひめ)紀諸人の娘
(きの もろひと)
- 皇后
井上内親王
(いのえ)第45代 聖武天皇の皇女
(しょうむ)
- 皇妃
高野新笠
(たかの の にいがさ)和乙継の娘
(やまと の おとつぐ)
- 妻
その他
中納言・大納言をつとめた政治家
先代・称徳天皇は後継者を指名せずに亡くなりました。そこで臣下たちから担ぎだされたのが、白壁王(しらかべ の おおきみ / しらかべおう)、のちの光仁天皇です。
白壁はなんと、10代も前の天智天皇の孫で先代・称徳天皇からするとお祖父ちゃんと同世代。
天皇の孫ですが皇統は天武天皇の子・孫...でつづけてきたので、天皇になるはずはありませんでした。
ほかの王たちと同じように官僚・政治家になります。先々代・淳仁天皇のとき中納言、称徳天皇のときに大納言まで出世しました。
淳仁天皇も官僚を経験した珍しい天皇でしたが、ここまで下から出世して政権中枢に入ったあと天皇になってはいません。
それだけ天皇になるはずはありませんでした。
(だから白壁王。)
白壁王を天皇にしたのは同僚たち
称徳天皇は皇太子すら置いてなかったので、まずは皇太子を決めなければなりませんでした。
そこで政権中枢の人たちで皇太子を決めます。しかし、話し合いは二つに割れました。
役職 (偉い順) | 人物 | 誰推し? |
---|---|---|
左大臣 | 藤原永手 (ふじわら ながて) 藤原北家。 | 白壁王 |
右大臣 | 吉備真備 (きび の まきび) 遣唐使で留学した学者。 | 文室浄三(ふんや の きよみ)。 ダメなら弟・大市(おおち)。 長皇子(なが の みこ)の子で天武天皇の孫。 |
参議 | 藤原宿奈麻呂 (ふじわら すくなまろ) のちの藤原良継 (ふじわら よしつぐ) 藤原式家。 | 白壁王 |
参議 | 藤原縄麻呂 (ふじわら ただまろ) 藤原南家。 | 白壁王 |
参議 | 石上宅嗣 (いそのかみ の やかつぐ) | 白壁王 |
近衛大将 | 藤原蔵下麻呂 (ふじわら くらじまろ) 藤原式家。良継の弟。 監視役? 暗殺役? | ??? |
反・白壁派は本当にひとりだけ?
表にまとめると分かりますが、白壁王を推していないのは吉備真備(きび の まきび)だけ。
そして、政権の中核、中納言・大納言の人が会議に参加していません。ほかにも欠席した人がいたようです。
この会議では、藤原百川(ふじわら ももかわ)の裏工作があったと言われます。
(百川は良継の弟。)
ボクの個人的な想像ですが、『白壁王を推さないなら殺すぞ!』ぐらい言ってたんじゃないかと思います。
それにビビった人が欠席。
会議にはひとりだけ、政権外の軍司令官・蔵下麻呂がいます。
(蔵下麻呂は良継・百川の弟。)
蔵下麻呂は監視役で、白壁王を推さない人は暗殺するつもりだったのかも知れません。
藤原式家の復讐
藤原良継・百川・蔵下麻呂の3兄弟と吉備真備には30年前の因縁があります。
3兄弟には藤原広嗣(ふじわら ひろつぐ)という兄がいました。藤原式家を継いでいく人でしたが、吉備真備の更迭を聖武天皇に要求して挙兵、そして斬首されました。
(藤原広嗣の乱)
兄の仇を討つ最後のチャンスだと思ったのでしょう。真備はすでに75才を超えていたので。
(真備は1年後に引退、5年後に81才で亡くなる。)
吉備真備だけ筋を通した?
ボクの想像のつづきです。さすがに吉備真備だけは脅しに屈しなかったようです。
真備は聖武天皇の時代に抜擢された学者で、その後、藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)に左遷されて太宰府など地方を転々、また2回の遣唐使・中国留学など、中央政界に長い間いなかった苦労人です。
そんな真備は、藤原式家の若造の脅しは屁とも思わなかったのでしょう。長老の威厳というやつです。
ただ、たった1人になってはどうにも出来ませんでした。唯一の上司・左大臣にも反対されたし。
藤原良継・百川の陰謀、吉備真備との闘争はフィクションだとも言われる。
国史・日本書紀の続編・続日本紀(しょくにほんぎ)には全く出てこないらしい。
(続日本紀を読んでないので確認できてないが。)
吉備真備は称徳天皇の時代から、何度か『もう引退したい』と言っていたが止められていた。
藤原良継・百川との闘争のときすでに戦闘力ゼロ。1年後に辞任を申し出て引退している。
白壁王の立場
白壁王は18年前に井上内親王(いのえ)と結婚しています。井上は先代・称徳天皇の姉で結婚するまで斎王でした。
白壁王は天武系統ではありませんが天皇の義理の兄。系図では分かりませんが称徳天皇とは身内の中の身内です。
斎王(さいおう)
伊勢神宮の祭主。
第11代 垂仁天皇が娘・倭姫命(やまとひめ の みこと)にアマテラスを祀る場所を探させ、そこに伊勢神宮を創建した。
そしてそのまま倭姫が斎王になったところから始まる。
そこから代々、女性皇族が祭主を務めた。
第33代 推古天皇のころから明治維新まで代々・中臣氏が祭主を務めるようになるが、中臣氏の祭主とは別に内親王が斎王になった。
(この間、内親王の斎王が途切れずに引き継いでいたかは分からない。)
昭和22年以降、内親王(天皇の娘や女性子孫)が祭主を務めるように復活。
普通、神社のトップは宮司(ぐうじ)だが、伊勢神宮だけは唯一、大宮司(だいぐうじ)という。
これが今でも続く。今は天皇陛下の妹・黒田清子さま。
今の神宮は、大宮司とのツートップ体制で、斎王は『伊勢神宮祭主』という。
また平安時代以降には斎宮(さいぐう)とも呼ばれた。斎王・斎宮はどちらも『いつきのみこ』とも読む。
女性が務めるので巫女(みこ)のトップという意味。
称徳天皇が孝謙天皇だったときの752年がターニングポイント。
吉備真備が推した文室浄三・大市はこの年に臣籍降下して民間人になり、白壁王は井上内親王と結婚して天皇の義理の兄になった。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
酔拳を使ってのらりくらり
白壁王と同世代の王たちは、天武系統の親王のメンツが足りなくなり、王でも天皇になれるかもしれないと希望をもっていました。
じっさい、藤原氏などの権力闘争といっしょになって殺し・左遷・島流し、何でもありのカオスです。
そんななか白壁王は、酔拳を駆使して激しい闘争のあいだをくぐり抜けてきました。
たんに、酒を浴びるように飲んでは行方不明になり、戻ってはまた、酒を飲んで行方不明、をくり返してただけなんですが。
(と言われている。)
そんな人が中納言・大納言をしていたことがスゴイ。
白壁王は、
『俺は呑んだくれだよ。』
『天皇になるような人じゃないよ。』
『仕事だってすぐ投げ出すし。』
のフリして皇位継承争いを避けてた。らしい。
白壁王も含め当時の王たちは親王宣下を受けてなかったので天皇になれないはずだった。
(親王が足りてれば。)
親王宣下(しんのうせんげ)
天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。
正式に天皇の皇位継承権をもつことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗る。
男性が親王。女性が内親王。
天皇の子ども・孫など直系子孫が宣下を受けた。
天皇の子孫でも宣下を受けてない人は王になる。民間人になると王の称号もなくなる。
はじめて親王宣下をしたのは奈良時代の第47代 淳仁天皇。
親王宣下のないころ、飛鳥・奈良時代の皇族は、天皇の子どもが親王(内親王)、孫から王(女王)だった。
大宝律令の中で制度化したと思われる。
(正確な決まりはない。)
親王宣下は皇族の生まれた立ち位置で自然に決まっていた制度を指名制に変えた。
宮家(世襲親王家)は、本来なら王や民間人になるような人だったが、宣下を受けて親王を名乗った。
明治以降、皇室典範で親王宣下のルールは決められている。
天皇の孫までは親王(内親王)、それ以上血統が離れると王(女王)。
範囲が子から孫へ広がったのは、昔は天皇の子どもが多かったのと、奈良時代は皇族が政権の役職・官僚のトップを務める皇親政治で、そのランクにも使われたので、範囲が広すぎると権力闘争で安定しないから。
最初の仕事は道鏡の追い出し
同僚たちに推されて皇太子になった白壁王は、まずはじめに、先代・称徳天皇から異様に特別あつかいを受けていた弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)を追い出します。
下野薬師寺(しもつけやくしじ。栃木)に左遷。道鏡に引っ張られて出世してい息子たちは島流しの刑。
道鏡は罪人にはなっていないようですが、亡くなったとき庶民あつかいだったそうです。官位剥奪されていたのでしょう。
当時の地位のある人からすると、庶民に落とされるのは奴隷になるのと同じくらいの屈辱。
庶民には一般民衆の意味があるが、当時の格差社会では庶民 = 奴隷の感覚があった。
地位が高ければ高いほど。
最後の長老天皇
同僚たちに推されて皇太子になった白壁王はすぐに即位しました。光仁天皇です。このとき61才。
歴代天皇は、古ければ古いほどお爺ちゃん・お婆ちゃん天皇ですが、光仁天皇が最後です。というか、死んでてもおかしくない年で即位したのは稀。
光仁天皇は歴代の中でも最高齢の即位です。
(ほかにもいるが、古すぎて年齢が怪しい。)
だいたいこういうときは天皇のなり手がいないときです。継体天皇のときもそうでした。
そして光仁天皇から皇統が天武系から天智系に変わりました。皇后になった井上内親王がいたので天武系は女性が引きついだとも言えます。
光仁天皇のあと『天皇は長老でないといけない』という常識で即位した天皇は出てきません。
じっさい、すぐあとにやってくる平安時代は、天皇の早期退位、若い・幼い天皇の即位がスタンダードです。
100年つづいた天武朝が終わる。
皇后をクビ、皇太子をクビ。天武系の完全消滅
光仁天皇が即位すると、皇后は井上内親王が、皇太子は皇后の息子・他戸親王(おさべ)がなっていました。
が、皇后が光仁天皇に呪いをかけて他戸親王を天皇にしようとしているとして、皇后と皇太子はクビにされ庶民に落とされます。
(官僚・政治家にもなれない。もちろん皇族ではない。)
次に皇太子になったのは、山部親王(やまべ。のちの桓武天皇)。これには、山部親王を推す藤原百川たち式家兄弟の陰謀があったと言われます。
皇后・他戸親王が本当に光仁天皇を辞めさせようとしていたのかは分かりません。天武系をつづけるのが正義で、天智系はダメだと思っていても不思議はないですが。
ただこの事件で天武系の皇統は完全に消滅しました。山部親王の母は渡来系氏族の末裔で、皇族とまったく関係ありません。
井上内親王が怨霊になる
『お前らに与える位と仕事はない。自分たちで食ってけ!』と言われてしまった井上内親王と他戸親王の不幸は終わりませんでした。
光仁天皇の姉・難波内親王(なにわ)が亡くなったのは、井上内親王と他戸親王が呪い殺したからだと言われてしまいます。
その罪で幽閉されてしまい、そのまま急死しました。ふたり同時に。
(当時、呪い殺しの罪があったらしい。)
あまりにも不自然なので藤原百川が暗殺させたとも言われます。そして、井上内親王は怨霊になりました。
この祟りは強烈です。なにせ平安京を作るきっかけになったくらいですから。
『井上内親王の祟りじゃ~』
『皇后・皇太子クビ事件』のすぐあと、藤原百川の弟・藤原蔵下麻呂(ふじわら くらじまろ)が急死します。これがきっかけで『井上内親王が怨霊になったんじゃないか?』と言われはじめました。
やっぱり蔵下麻呂は、藤原式家のアサシン(暗殺者)なんじゃないかと思います。そうじゃないと井上内親王の祟りなんて言われないはずだし。
これだけじゃありません。光仁天皇の時代は天変地異の連発で、光仁天皇が病気になりました。皇太子の山部親王は死にかけるほどの病気になってしまいます。
そして同じ年には、雨がふらず川や井戸の水がなくなって干からびるほどだったと言われ、ぜんぶ井上内親王の祟りだと思われていました。
光仁天皇は井上内親王の遺骨を回収して、きちんとした墓を作ることにします。
他戸親王(おさべ)はどうなった?
井上内親王は怨霊になって祟りまくりますが、いっしょに亡くなった他戸親王は怨霊になったとは言われません。
やっぱり、井上内親王が斎王を務めていたというのが大きいと思います。もしかするとその流れで、天皇の皇祖神・アマテラスの怒りを買ったと思われたのかも。
先代・称徳天皇のお姉ちゃんだし、もともと怖がられてた存在だったかも知れません。
にしても、他戸親王が怨霊にならなかった理由は分かりません。
力尽きて退位
光仁天皇は70才を過ぎてもがんばっていましたが、長女の能登内親王(のと)が亡くなってから気力体力が限界になってしまいました。
皇太子・山部親王に皇位をゆずって退位します。そして1年もたたないうちに亡くなりました。
60才すぎて即位したお爺ちゃんだし、天変地異は起きるし、嫁には祟られるし。いいことが何もない天皇でした。
死んでも悪いことは終わらない
光仁天皇が亡くなって直後、氷上川継(ひがみ の かわつぐ)のクーデター未遂事件が起きます。
川継は天武天皇のひ孫で藤原仲麻呂の乱で戦死した塩焼王(しおやきおう / しおやき の おおきみ)の息子。塩焼王は一時、左大臣・藤原永手が次期天皇に推したこともあった人でした。
そして母は井上内親王の妹・不破内親王(ふわ)。このクーデターも井上内親王の祟りだと思われたのかも知れません。
というかこのときは、何でもかんでも悪いことは井上内親王の祟りだと思うくらいビビっていたようです。
政権トップをクビ
このクーデターには左大臣・藤原魚名(ふじわら うおな)も加わっていたと言われ、魚名は左遷されて太宰府へ行かされました。そして急死。魚名の息子たちもまとめて左遷されました。
光仁天皇の時代は最後の最後までドタバタです。
政権トップを占めつづけた藤原北家の追い落としのための、藤原百川ら藤原式家の陰謀にも見えます。
藤原永手は亡くなり、弟の魚名が左大臣になっていた。
(藤原北家トップの交代。)
古代が終わる
光仁天皇は日本の歴史のターニングポイントです。それは『古代の終わり』。
息子の桓武天皇は平安京遷都、そしてなんと言っても『平安時代をはじめた人』として歴代天皇の中でも有名なほうでしょう。
でも、古代の終わりの光仁天皇はまったくの無名です。嫁に祟られてしまった、もともと呑んだくれだったなんて締まりが悪いからでしょうか?
日本には『終わりよければすべて良し』『有終の美』という言葉があるくらいなので、日本人はケツの穴も含めて締まりがないのが嫌いなんでしょうね?
(下品すぎるか?)
ちなみに光仁天皇は、12年もがんばったのに有名な肖像画がありません。
(どんだけ無視されてんだ?)
個人的には、ケツの穴がゆるくても面白ければ注目したいと思うほうです。
(ゴメンナサイ。下品に下品を重ねて。)
真面目に言うと、光仁天皇が無名なのは巨大な怨霊を生み出したから。
日本人は縁起の悪いものは見て見ぬふりする。肖像画なんて巨大な怨霊が復活するかもしれないですからね?
こういうのを怨霊信仰という。
古代の終わりが天変地異、祟りの地獄絵図だったから平安時代が始まった。