歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -
飯豊女王(いいどよ の ひめみこ)は、第22代 清寧天皇のあと政務を引きついだ女性皇族です。
古事記では天皇のひとりとして見られ、日本書紀はそれを否定していません。しかし、歴代天皇に入っていないナゾの女性です。
理由は古事記と日本書紀で親がちがうから?
先史・古代 古墳時代
- 皇居
- 生没年
- 440年? ~ 484年11月?
允恭天皇29 ~ 清寧天皇5年
45? 才
- 在位
- 484年1月? ~ 484年11月?
清寧天皇5年 ~ 清寧天皇5年
10? か月
- 名前
- 飯豊女王
(いいどよ の ひめみこ)
- 別名
飯豊青尊
(いいどよ の あお の みこと)第17代 履中天皇の孫?
(りちゅう)
- 父
磐坂市辺押磐皇子?
(いわさか の いちのべ の おしは の みこ)
- 母
葛城荑媛?
(かずらき の はえひめ)葛城蟻臣の娘
(かずらき の ありのおみ)
清寧天皇のあと空位を埋めた飯豊女王
第22代 清寧天皇は、妻・子どもがいないまま亡くなりました。その前の雄略天皇がライバルの皇子たちを根こそぎ殺しまくったため、天皇になれる人がひとりもいません。
ここから日本書紀と古事記ではちがいが出てきます。でも、清寧天皇のあと飯豊女王(いいどよ の ひめみこ)が天皇の代わりを務めたのは同じ。
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
古事記の皇位継承
清寧天皇が亡くなり、後継者がいなくなったことに臣下たちは困りました。
雄略天皇に殺された磐坂市辺押磐皇子(いわさか の いちのべ の おしは の みこ)の妹・飯豊女王に政務をまかせます。
ある日、播磨国(はりま。兵庫)で市辺押磐の息子が見つかったという知らせがきます。
億計王(おけ の みこ。のちの仁賢天皇)と、弘計王(をけ の みこ。のちの顕宗天皇)です。
市辺押磐が殺されたとき、身の危険を感じたふたりは逃げた後、皇族の身をかくして播磨の豪族につかえて牛馬の世話係をしていました。
ヤマト王権の臣下がたまたま播磨の宴会に呼ばれたとき、弟の弘計王が勇気をふりしぼって身分を明かして発覚します。
(急いで帰る)
飯豊女王は甥っ子が見つかって喜びふたりを都に呼びよせます。兄弟は皇位をゆずりあった結果、弟の弘計王が即位しました。顕宗天皇です。
日本書紀の皇位継承
市辺押磐の息子ふたりは父が射殺されたとき、身の危険を感じて丹波(たんば。兵庫)に身をかくしました。
そして、身分をかくしたまま丹波の豪族につかえます。
清寧天皇が即位すると弟・弘計王は身分を明かします。それがヤマトの都まで伝わりました。
清寧天皇は喜んでふたりを都に呼びよせ、清寧4年、兄・億計王が皇太子になり弟・弘計王を皇子にしました。
清寧天皇が亡くなると、皇太子の兄は弟に皇位をゆずろうとします。弟は皇太子がそのまま即位すべきだと言います。
二人でゆずりあったまま、なかなか天皇が決まりませんでした。そのあいだ政務をとったのが、二人の姉・飯豊女王です。
飯豊女王が亡くなると、皇太子と臣下たちは弟・弘計王に即位するようにお願いしました。
弘計王もやっと受けいれて即位します。顕宗天皇です。
古事記と日本書紀のちがい
飯豊女王が天皇だった可能性
日本書紀、古事記を見ても飯豊女王が天皇だった可能性が高いです。日本書紀では飯豊女王が亡くなってから顕宗天皇が即位します。
(亡くなるまで兄弟はゴネつづけた。)
のラインができてますね? また古事記では、
仁徳から推古まで19天皇
とありますが、第16代 仁徳天皇から第33代 推古天皇まで18人しかいません。
古事記は歴代天皇に飯豊女王が入っているようです。いまでも『飯豊天皇』とも呼ばれます。
ただし、いまの歴代天皇には入っていません。おそらく、古事記と日本書紀で飯豊女王の親がちがうからでしょう。
古事記 | 顕宗天皇、仁賢天皇の叔母 |
日本書紀 | 顕宗天皇、仁賢天皇の姉 |
いつ生まれたのかも不明です。亡くなったのが清寧5年だろうということだけで。
(顕宗天皇が即位したのが清寧5年だから。)
皇統は〇〇から✕✕へつないできたというのが大事なので、だれの子かはっきりしないと天皇として認められないんでしょうね?