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藤原氏ってなんだ? どうして日本の政治の中心にいつづけたのか?

藤原氏

ご覧のページは 2 / 10 です。先頭ページはこちら。

藤原氏の祖・藤原鎌足

中臣氏の祖はカミですが、藤原氏の祖は歴史上の人物です。中臣鎌足(なかとみ の かまたり)。

鎌足は、古代の政治改革・大化の改新のリーダーで、乙巳の変では実行犯の中心人物でした。

大化の改新(たいかのかいしん)

645年の乙巳の変からはじまった政治改革。

第36代 孝徳天皇の時代に、中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)と中臣鎌足(なかとみ の かまたり)を中心に行った。

その後、斉明天智天皇へと引きつがれ、天武持統文武天皇のとき律令国家として完成する。

乙巳の変(いっしのへん)

645年、第35代 皇極天皇(こうぎょく)の目の前で、息子で皇太子の中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)が蘇我入鹿(そがの いるか)を殺害した事件。

これで蘇我氏は一気に衰退する。

これをきっかけに、天皇中心の国家建設を目指す政治運動が始まる。

大化の改新(たいかのかいしん)

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

乙巳の変を起こした中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)が天智天皇になっても仕えて、律令国家建設の土台を作ります。

その功績で、亡くなる直前に大織冠を贈られるのと一緒に藤原姓をもらいました。

これが藤原氏の始まり。

鎌足のことを藤原鎌足と言いますが、鎌足が生きていたときは藤原姓ではありません。中臣鎌足というのが一般的です。

また、鎌足も改名されたもので、もとは鎌子(かまこ)。中臣鎌子でした。

(中臣鎌子は、聖徳太子のころからさらに100年前にもいたが同姓同名の別人。先祖にあたる。)

中臣氏は伊勢神宮の祭主になる

第33代 推古天皇のころに伊勢神宮の祭主に鎌足の父が就任してから、明治維新の近代化まで中臣氏が務めました。

歴代の祭主は中臣氏、大中臣氏、藤波氏と変わっていきますが、すべて中臣氏の系統。

あとで出てくる鎌足の息子、藤原不比等から政治は藤原氏、神事は中臣氏へと役割分担ができていきます。

ちなみに、明治以降は藤原氏や宮家の親王が祭主をつとめ、昭和22年以降は天皇の娘がつとめるようになるので、中臣氏は伊勢神宮の祭主でなくなります。

今の伊勢神宮は、女性皇族だった人がトップを務めているが、宮司は別にいる。

伊勢神宮は特殊で宮司のことを大宮司(だいぐうじ)と言い、祭主を支えるナンバー2の立場。

(一般的に神社のトップは宮司。)

もともと、伊勢神宮の創建には天皇の娘が大きく関わり、その娘がそのまま祭主になったので、女性皇族と伊勢神宮の関係は深い。

現代は初心に戻ったとも言える。

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