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藤原氏ってなんだ? どうして日本の政治の中心にいつづけたのか?

藤原氏

ご覧のページは 6 / 10 です。先頭ページはこちら。

史上初。人臣摂政と人臣の太政大臣

第54代 仁明天皇には二人の上皇がついていました。(父・嵯峨上皇と叔父・淳和上皇

父は平安時代の基礎を作った絶対権力者。政権も安定していました。しかし、840年に淳和上皇が、842年に嵯峨上皇がつづけて亡くなると事件が起きます。

藤原氏長者になっていた冬嗣の子・藤原良房(ふじわら よしふさ)は、皇太子をクビにして自分の甥っ子を皇太子にしました。(承和の変

仁明天皇は圧倒的な親父から開放されて自分がリーダーシップを取りたかったらしく、良房の力を必要としました。この一件で藤原氏の力がさらに強くなります。

仁明天皇は自分の忠実な部下が欲しくて良房を大抜擢したんですね?

(叔父・淳和天皇は嵯峨上皇の傀儡政権。)

承和の変は、子が父に対して起こしたクーデター。

藤原氏のクーデターに見えなくもないが、実態は新旧天皇の間に起きたもの。

親父が死んでから起こすところがヘナチョコすぎてダサい。

それだけ嵯峨天皇の力は圧倒的だった。

一方、藤原氏はクーデターに乗っかるのが巧い。そういえば藤原氏が大躍進したのも乙巳の変でクーデターだった。

乙巳の変(いっしのへん)

645年、第35代 皇極天皇(こうぎょく)の目の前で、息子で皇太子の中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)が蘇我入鹿(そがの いるか)を殺害した事件。

これで蘇我氏は一気に衰退する。

これをきっかけに、天皇中心の国家建設を目指す政治運動が始まる。

大化の改新(たいかのかいしん)

薬子の変みたいに大失敗もあるけど。

仁明天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

次期天皇決定に口出しし始める藤原氏

クビになった皇太子は恒貞親王(つねさだ)で、嵯峨淳和上皇の色合いが強く、自分らしさを出したくなった仁明天皇は『自分の子を天皇に!』と思ったのでしょう。

その皇子が道康親王(みちやす)。藤原良房の妹の子。良房の甥っ子。

ここから藤原氏は次の天皇を決めるのに大きな影響力をもちはじめます。

藤原氏が天皇の信頼を失っている合間に源氏・平氏を作る

藤原氏が天皇の嫁の実家として信頼を失っていたころ、嵯峨上皇は自分の子どもたちを臣籍降下させて源氏を作ります。(嵯峨源氏

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。

平安時代になっても、桓武天皇や嵯峨天皇は律令政治(皇親政治)をするつもりでした。じっさい、嵯峨源氏の第一世代(嵯峨上皇の息子)は、左大臣など政権トップの役職を多く輩出します。

(平安時代の皇親政治は皇子の代わりに元・皇族の源氏を使おうとした。)

摂関政治が完成するまではむしろ、藤原氏と源氏は政権担当氏族の二大勢力でした。藤原氏にとっては最大のライバルです。

そして嵯峨天皇だけでなく、平安時代の初期から中期にかけての天皇は必ずと行っていいほど源氏を作ります。結果論ですが、藤原氏に対抗できる源氏生産は第62代 村上天皇までつづきました。

同じ時期、平氏も作られます。ただ源氏ほど作られず4人の天皇からしか生まれてません。

史上初。人臣初の太政大臣になる

第55代 文徳天皇のとき、源氏左大臣が亡くなると、右大臣だった藤原良房は、左大臣を飛び越えて太政大臣になります。

過去の太政大臣は、大友皇子(おおとも の みこ。弘文天皇)、高市皇子(たけち の みこ)だけで、皇族でなおかつ、政治家としてもピカイチの人がなるものでした。

古代の皇親政治では太政大臣に匹敵する人材がなく、知太政官事という代わりの役職まで作るほどです。

知太政官事(ちだいじょうかんじ)

第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官

律令政治の太政官を監督するマネージャー職。

左大臣よりも上。)

有力な皇族が務めた。

だれが?就任時期
忍壁皇子
(おさかべ の みこ)

天武天皇の子。
703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。

第42代 文武天皇
穂積皇子
(ほずみ の みこ)

天武天皇の子。
705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。

第42代 文武天皇
第43代 元明天皇
舎人皇子
(とねり の みこ)

天武天皇の子。
720年(養老4)~ 735年(天平7)。

第44代 元正天皇
第45代 聖武天皇
鈴鹿王
(すずか の おおきみ)

高市皇子の次男。
天武天皇の孫。
737年(天平9)~ 745年(天平17)。

第45代 聖武天皇

このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。

太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。

じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。

藤原氏の台頭で皇親政治が終わると同時に無くなった。

(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)

結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。

(最後の鈴鹿王だけ孫。)

本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。

(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)

令外官(りょうげのかん)

律令制度の令(行政法)にない官位のこと。特別職。臨時職。

にある(令にない)位』。摂政関白太政大臣内大臣など。

正式な官位じゃないので比較的自由な立場で仕事ができた。また、正式な官位と兼務ができた。

第50代 桓武天皇は軍政改革で、征夷大将軍検非違使を新たに作った。

律令制は法が現実に合わなくなってもそのままにして、新しい法を追加して臨機応変に変えていくので、それにならって令外官も都度追加された。

ただ、正式な官位よりも重要なものも多い。

そんな太政大臣に、良房は皇族じゃないのに就任しました。以降、太政大臣は非皇族がスタンダードになります。

平清盛(たいら の きよもり)や足利義満(あしかが よしみつ)、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、歴代の徳川将軍がなりました。その先鞭をつけたのが藤原良房。

史上初。人臣初の摂政になる。(人臣摂政)

太政大臣・藤原良房の時代から天皇即位の低年齢化がはじまります。第56代 清和天皇は史上初の幼少天皇でした。

清和天皇は良房の孫。藤原氏の長者が初めて天皇の外祖父になります。

(過去にもいたが孫が即位するときには死んでいた。)

外祖父(がいそふ)

母方のおじいちゃん。

摂関政治では、藤原氏が天皇の后に自分の妹や娘を嫁がせて、天皇の外祖父になり絶大な権力をもっていた。

外祖父 image

幼い天皇に政治ができるわけがありません。そこで太政大臣・良房が、今まで皇族しかなれなかった摂政になりました。

摂政も皇族以外の人がなるのがスタンダードになります。皇族がなるように戻ったのは、大正天皇の摂政だった裕仁親王(ひろひと。昭和天皇)まで時代が下らないと出てきません。

(今は皇族しか摂政になれないように法律で決まっている。)

良房の前に摂政だったのは推古天皇のときの厩戸皇子(うまやど の みこ。聖徳太子)、天武天皇のときの草壁皇子(くさかべ の みこ)の二人だけ。

まだ関白はありませんが、これが摂関政治の始まりです。

清和天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工
次は 摂関政治の完成。初代関白・藤原基経
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