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令外官
律令は今でいうと憲法・法律なんですが、今と違って改正しませんでした。
不都合が起きたらそれは放置して新しくルールを追加していく手法です。
(以前の条文の上書き。齟齬が出たら後で追加したものが優先される。)
官職も同じ。あとで追加していきました。それを令外官といいます。
太政大臣は最初からあったけど令外官
太政大臣はすべての官職のトップです。これ以上の役職はありません。だから一位。
ですが、太政大臣は令外官です。
太政大臣はあとから追加されたものではなく、大宝律令ができる前からありました。
令外官になっている理由は、あまりにも格がちがいすぎて常設ではなかったから。よっぽどの人がいなければ空位もあたり前のものです。
太政大臣になった人は歴史上でもそうはいません。平清盛(たいら の きよもり)、足利義満(あしかが よしみつ)、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)など。
あまりにもすごすぎるので、亡くなった後の追贈にも使われました。
(二位の左右大臣が亡くなると昇進した。むしろこっちのほうが多いくらい。)
彼らは慣例として太政大臣になるようになっていた。
また、鎌倉幕府の将軍や執権からは太政大臣は出ていない。
というか鎌倉の執権は国司。太政大臣になれる身分じゃなく、相模守(さがみ。神奈川)が多い。
平清盛や豊臣秀吉みたいに、国司よりももっと低いところから駆け上がった人がいるが、それは歴史上でもこの二人くらいしかいない。
だから関西圏では今でも太閤秀吉として尊敬されている。サクセスストーリーの権化みたいな人だから。
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
公卿は半分が令外官
公卿は律令制の中枢で政権幹部なのに令外官が多いです。常設は左大臣・右大臣・大納言の3つだけ。
内大臣は天皇の最側近の相談役みたいなもの。中納言は、最初はあったんですが、途中で廃止されてその後に令外官として復活しました。
参議は公卿じゃないけど会議に参加させたい四位以上の人がなります。内閣の新人閣僚みたいなもの。また、三位以上なのにそれに見合う官職に就いてない人にも使われました。
この参議、律令制が完全廃止された明治新政府でも、憲法の制定、内閣の設置が行われるまで使われました。
西郷隆盛(さいごう たかもり)
大久保利通(おおくぼ としみち)
板垣退助(いたがき たいすけ)
大隈重信(おおくま しげのぶ)
伊藤博文(いとう ひろぶみ)
など、明治の偉人たちがドラマや映画で『参議』として出てくる。
ちなみに、維新後の新政府の政権中枢の役所名も太政官です。
ただし、律令制は『だいじょうかん』、新政府は『だじょうかん』と読み方を変えて区別します。
ややこしい。
摂政・関白は官職ではない? 令外官?
天皇の代わりを務める摂政は官職(令外官も含む)ではありません。官職にすると出世したらだれでもなれちゃうから。
また、平安時代から天皇を補佐する関白もできましたが、これも正確には官職ではありません。
ただし関白は運用上、官職扱い、令外官になってました。関白に就任すると連動して太政大臣になるのが通例だったから。
平安時代以降、摂政は二位、場合によっては三位の人がなり、関白は二位以上でないとなれませんでした。
(関白は左大臣・右大臣とさらに狭き門。)
摂政や関白は公私共に天皇の最側近なので内大臣と仕事がかぶる。このへんがややこしい。
これ以上深く突っ込むと、人間関係や権力闘争でごちゃごちゃして意味が分からなくなるので、このへんでやめときます。
平安時代には関白と内大臣に似ている内覧(ないらん)という役職もできる。
ほんと、ややこしい。
内覧は関白のもってる権限そのものを言うこともあるほど関白と似ている。
内覧になった人は将来の関白が約束される。(と周りは見ていた。)
天皇の最側近の立場を守りたい一部の人(藤原氏)が、官職からはなれた特殊な役職を令外官として必要としたのだろう。