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正一位, 従三位ってなんだ? 位階とか官職とか官位の細かなちがい。

大極殿

ご覧のページは 2 / 5 です。先頭ページはこちら。

位階と朝廷の役職はセット。位階無くして官職なし。

位階はそれだけでは意味がありません。律令制では、位階に相当する役職が決まってます。

位階がステップアップしないとキャリアアップもできません。位階が上がらないと出世がそこで止まります。

この位階と官職はセットで考えられ、官位(かんい)といいます。そしてその制度を官位相当制(かんいそうとうせい)といいます。

官位はひとつの言葉の意味として使われがちですが、じつは位階と官職の2つを表しています。

読みどんな所?今で言うと?
太政官だいじょうかんすべての役所の中枢。内閣府
蔵人所くろうどどころ天皇直属の秘書

平安初期の天皇と上皇の内部闘争で、上皇
に情報が漏れることを恐れた天皇が設置し
た情報秘匿機関。
秘書課
宮内庁
公安
太宰府だざいふ古代から海外との交易が盛んで重要拠点だ
ったので設置された特別な地方。

地方の役所で『府』がつくのは大宰府(福
岡)と鎮守府(宮城・岩手)しかない。
京都府
大阪府
国司こくし各国に配置された地方の役人のトップ。
役所のことを国府(こくふ)という。
県知事・副県知事
地方裁判所判事
県警本部長
軍団長
左近衛府
右近衛府
さこのえふ
うこのえふ
軍の序列でトップの組織。
役人は軍の最高幹部。
六衛府のひとつ。
皇宮警察。
軍の将官クラス。
衛門府
左衛門府
右衛門府
えもんふ
さえもんふ
うえもんふ
近衛府下にある軍組織。
衛門府は五衛府のひとつ。
平安時代に左右に分かれ六衛府になった。
宮内庁のSP。
軍の佐官・尉官クラス。
左衛士府
右衛士府
さえじふ
うえじふ
近衛府下の軍組織。五衛府のひとつ。

平安時代に衛門府が左右に分かれたときに
統合され消滅。
宮内庁のSP。
軍の佐官・尉官クラス。
左兵衛府
右兵衛府
さひょうえふ
うひょうえふ
近衛府下の軍組織。
五衛府六衛府の両方に入ってる。
宮内庁のSP。
軍の佐官・尉官クラス。
検非違使けびいし平安時代に六衛府とは別に作った軍警察。

当初は衛門府の軍人が兼務し一体化してい
たが、重要度が増して独立し近衛府に次ぐ
組織に変貌。

位階の数字も近衛府下ではひとつ上で、名
実ともに軍のナンバー2の組織になる。
警視庁。
五衛府・六衛府(ごえふ・ろくえふ)

『衛(まもる)』がついた律令制度の役所の総称。

宮中や皇族の護衛を中心とした軍事組織。

今でいうと宮内庁のSP。

大宝律令・養老律令では5つの役所だった。

衛門府えもんふ。
宮中の門番。
左衛士府
右衛士府
さ(う)えじふ。
宮中、皇族のボディガード。

全国から衛士を集めて配置した。

身分によらない登用をしていた。
左兵衛府
右兵衛府
さ(う)ひょうえふ。
宮中、皇族のボディーガード。

全国から兵衛を集めて配置した。

主に郡司など、地方の有力者の子
弟が就いた。
五衛府
長官
(かみ)
次官
(すけ)
判官
(じょう)
主典
(さかん)
大尉
少尉
大志
医師
少志
五衛府の四等官
兵衛府衛門府
左衛士府
右衛士府
太政官
正一位
従一位
太政大臣
正二位
従二位
左大臣
右大臣
内大臣
正三位大納言
従三位中納言
正四位上
正四位下参議
従四位上
従四位下
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
正六位上
正六位下
従六位上
従六位下大尉
正七位上少尉
正七位下大尉
従七位上少尉
従七位下
正八位上
正八位下大志
従八位上大志少志
従八位下大志
五衛府の朝廷(律令制)の位階 ※ 太字は昇殿が許される。
(比較のため太政官も追記。)

その後、律令の制度改革により6つの役所になって819年以降定着し、律令制の廃止になる明治維新まで続く。

819年の元号は弘仁なので、平安の律令の三大改革に数えられる弘仁格式(こうにんきゃくしき)の一環だろう。

左近衛府
右近衛府
さ(う)このえふ。

宮中のボディガード。
六衛府の中で最も身分が高い。

大納言中納言が兼任した。
太政大臣左右大臣に次ぐナンバー3, 4の地位。)

身分が高いため、戦闘の陣頭指揮を取らなくなり、
高位の人のキャリアアップの通過点になっていく。

源頼朝や織田信長など、天下を取った武将も経験し
た。
左衛門府
右衛門府
さ(う)えもんふ。

衛門府と左右衛士府が統合されて、左右の2つに分か
れた。

平安末期以降、中央政府とのパイプ作りをしたい武
士の役職になる。
左兵衛府
右兵衛府
五衛府と同じ。

平安末期以降、中央政府とのパイプ作りをしたい武
士の役職になる。
六衛府
四等官長官
(かみ)
次官
(すけ)
判官
(じょう)
主典
(さかん)
左近衛府
右近衛府
大将中将
少将
将監将曹
左衛門府
右衛門府
左兵衛府
右兵衛府
大尉
少尉
大志
医師
少志
六衛府の四等官
兵衛府衛門府近衛府太政官
正一位
従一位
太政大臣
正二位
従二位
左大臣
右大臣
内大臣
正三位大納言
従三位大将中納言
正四位上
正四位下参議
従四位上
従四位下中将
正五位上
正五位下少将
従五位上
従五位下
正六位上将監
正六位下
従六位上
従六位下大尉
正七位上少尉
正七位下大尉将曹
従七位上少尉
従七位下
正八位上
正八位下大志
従八位上大志少志
従八位下大志
五衛府の朝廷(律令制)の位階 ※ 太字は昇殿が許される。
(比較のため太政官も追記。)
征夷大将軍と検非違使(せいいたいしょうぐん・けびいし)

検非違使は、平安時代の最初の天皇・第50代 桓武天皇が軍事の地方分権化で手薄になったので作られた首都警護の役職。

最初は所轄官庁がなく天皇直属の警備隊だった。

第53代 淳和天皇のとき所轄官庁の検非違使庁ができる。今でいう警視庁のようなもの。

また桓武天皇は、軍事力を地方の所轄官庁・国司に丸投げして国軍をもつことを止めた。

そこで、国司軍団をまとめるため征夷大将軍を作った。

征夷大将軍はいざ戦争が起きると任命される臨時職で、常にいるようになるのは、幕府の将軍(征夷大将軍)が国の統治をするようになった鎌倉時代から。

くわしくはこちらで。

表注
※1 公卿
※2 一部は殿上人
太政官蔵人所太宰府国司
(大国)
国司
(上国)
左近衛府
右近衛府
(左右)衛門府
左衛士府
右衛士府
左兵衛府
右兵衛府
検非違使
※1正一位
従一位
太政大臣
※1正二位
従二位
左大臣
右大臣
内大臣
別当
※1正三位大納言
※1従三位中納言大将
※2正四位上
正四位下
参議
※2従四位上参議


・左大弁
・右大弁
※2従四位下参議中将別当
※2正五位上
・左中弁
・右中弁
五位蔵人大弐
※2正五位下
・左少弁
・右少弁
五位蔵人少将
※2従五位上五位蔵人
※2従五位下少納言五位蔵人少弐
正六位上
・左大史
・右大史
六位蔵人将監
正六位下六位蔵人大監大尉
少尉
従六位上六位蔵人少監
従六位下六位蔵人大尉
正七位上
・左少史
・右少史

外記
・大外記
大典少尉
正七位下
・大掾
将曹大尉
従七位上外記
・少外記

・少掾
少尉
従七位下大志
少志
正八位上少典
正八位下大志
医師
従八位上
・大目
少尉大志
医師
従八位下
・少目
少尉
大初位上
大初位下
少初位上
少初位下
律令制の官位。
色付きは令外官
読みどんな仕事?

左大弁
右大弁
左中弁
右中弁
左少弁
右少弁
べん
さだいべん
うだいべん
さちゅうべん
うちゅうべん
さしょうべん
うしょうべん
役人の給与の管理。
8つの省を管理監督する太政官の中枢機
関でもある。

左右に分かれ、それぞれ大・中・少のラ
ンクがあった。

左大史
右大史
左少史
右少史

さだいし
うだいし
さしょうし
うしょうし
公文書の作成。
弁に代わって太政官の実務を担当。

左右に分かれ、それぞれ大・少のランク
があった。
外記
大外記
少外記
げき
だいげき
しょうげき
書記官。
太政官の日常業務の記録係。
太政官に上がってくる文書の校閲。

少納言の命令で太政官の実務も担当した
別当べっとう平安初期に追加された蔵人所と検非違使
の長官。
とう通常は『かみ』と呼んで四等官の長官の
ことだが、蔵人所は四等官に習わない特
殊な情報秘匿機関なので『とう』と呼ぶ
。四等官の次官に相当。
五位蔵人ごいくろうど位階が五位の蔵人
六位蔵人ろくいくろうど位階が五位の蔵人

大監
少監
大典
少典
そち / そつ
だいげん
しょうげん
だいさかん
しょうさかん
太宰府の幹部。
四等官の読みと合ったり合わなかったり
微妙。
とくに長官の帥は太宰府でしか使われて
ない。
かみ国司の長官。
幹部は四等官と漢字はちがうが読みは同
じ。
すけ国司の次官。

大掾
少掾
じょう
だいじょう
しょうじょう
国司のナンバー3(判官)。
大国の国司は大・少のランクがあった。

大目
少目
さかん
だいさかん
しょうさかん
国司のナンバー4(主典)。
大国の国司は大・少のランクがあった。
大将
中将
少将
将監
将曹
たいしょう
ちゅうじょう
しょうしょう
しょうかん
しょうそう
近衛府の幹部。
現代の軍隊の最高幹部でも使われる。



大尉
少尉
大志
少志
かみ
すけ
じょう
たいじょう
しょうじょう
だいさかん
しょうさかん
軍の組織で近衛府下にあるものの幹部。
読みは違うが漢字は現代の軍でも使われ
る。

四等官

律令制の官職の幹部は4つのクラスに分かれるルールになってます。四等官(しとうかん)といいます。

長官
(かみ)
次官
(すけ)
判官
(じょう)
主典
(さかん)
太政官左大臣
右大臣
内大臣
大納言
中納言
参議

少納言

外記
太宰府大弐
少弐
大監
少監
大典
少典
国司
左近衛府
右近衛府
大将中将
少将
将監将曹
(左右)衛門府
左衛士府
右衛士府
左兵衛府
右兵衛府
大尉
少尉
大志
少志
医師
検非違使別当大尉
少尉
大志
少志
四等官

太政官やいくつかの役所は読み方が変わりますが、基本的には役所によって当てられた漢字がちがうだけで『かみ・すけ・じょう・さかん』と読む。

国司なんてだれでも聞いたことあります。駿河守(するが の かみ)や上総介(かずさ の すけ)など。

蔵人所は特殊で四等官にあてはまらず、頭も『かみ』ではなく『とう』と読む。平安時代の第52代 嵯峨天皇が設置した新しい役所です。

嵯峨天皇は兄の平城上皇との大戦間近のバチバチをした人で、上皇側への情報漏洩の防御のために蔵人所を設置しました。

ピリピリした緊急事態だったので名よりも実を取ったみたい。『四にこだわるな!適材適所に配置しろ!』って。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

もともと大臣は希少なもの

今の人は大臣と聞いても、いっぱいいるしコロコロ変わるし、恐ろしく価値が低いものになってますが、元はとても希少なものです。

律令制下では太政大臣左大臣右大臣内大臣のトップ4しかいません。太政官の長官だけ。(どれも定員1名。)

『天皇が信頼して任命する事な下』が大臣だから。

海外では議院内閣制の閣僚は行政機関のトップの宰相から『相』を使いますが、日本ではそれに加え大臣も使います。

たとえば、

財務相(ざいむ しょう)

財務大臣(ざいむ だいじん)

議院内閣制になっても日本は律令制の名残りが多くあります。とくに軍人の幹部の呼び方とかモロそうだし。

にしても日本の大臣ってもう大臣って言うほどの価値がある人いないな~。海外みたいに『相』だけで良いと思う。

これだけ『名が体を表す』にならない人もスゴい。超ド級のバカか、人の目を気にしない天才なんだろう。

いやバカだね。言動と行動を見るかぎり。

五位以上がいわゆる高位・高官

三位以上の公卿は文句なしの高位高官ですが、四位・五位も高位高官に見られます。殿上人の存在があるから。

殿上人は四位・五位の人で、公卿しか参加できない会議に特別に出ることができ、天皇と面会・話ができます。

省の長官、六衛府や検非違使の軍関係の長官、太政官の四等官の幹部など、殿上人になれる可能性のある官職は多岐にわたります。

国司の長官の守も殿上人になれる可能性がありました。だから武士は、〇〇守・〇〇介を欲しがったり名乗ったんですね?

日本の江戸時代以前までの高位高官は公卿と殿上人のことを言います。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

権官(ごんかん)

権大納言とか聞いたことないでしょうか? 高位高官には『権』がつくことがあります。

官職には定員があり、それ以上の人が欲しいとき、人間関係や権力闘争でとりあえず高官にしたいときなどの理由で設けられていました。

権は『仮』の意味で、仮の大納言、ほんとはちがうけど大納言としましょうという意味。

権大納言権中納言、権守・権介、右近衛権大将・権中将・権少将などは有名な歴史上の人がなったのでよく聞きます。

読みには『の』が付くこともあります。権守(ごんのかみ)、権介(ごんのすけ)など。

ゴンスケと呼んではいけません。可愛がってる愛犬になっちゃうから。

また、左遷や仕事がない窓際族にも使われました。

鎌倉幕府を開く源頼朝(みなもと の よりとも)のように、官職が嫌であえて権大納言になる人もいたので、権が付いても無能で無力とはかぎりません。

武士の官職

日本の歴史では幕府と呼ぶ武家政権の時代が長いです。一般的に征夷大将軍がいたから権力をもっていたように言いますがそうじゃありません。

彼らはちゃっかり官職についています。

幕府リーダーの官職
鎌倉3代将軍までは正二位・左大臣になるなど官職
のトップでもあった。

しかし、鎌倉時代の大半は北条氏の執権が事実
上の権力者。
執権は五位の国司の守で相模守(さがみ。神奈
川)になるのが慣例になっていく。

五位の国司が上司の公卿や天皇を抑え込んだい
びつな関係。
室町将軍が正二位・左大臣、従一位・太政大臣にな
るなど、名実ともに権力者。

しかし、五位の左馬頭(さまのかみ)で出世が
止まる将軍がいたりして安定しない。

同じ五位には守護大名がいた(国司の守)ので
、将軍の権威は低く戦乱が耐えなかった。

これが戦国時代へとつながっていく。
江戸歴代将軍のすべてが二位以上。
太政大臣左大臣右大臣内大臣のいずれか
に必ずなっている。

最後の将軍・慶喜(よしのぶ)以外、死後も含
めて一位・太政大臣になった。

江戸幕府の長は最初から最後まで朝廷の長でも
あった。

幕府の武家政権は過去の政権をよく見ています。少しずつ朝廷の官職が上がっていく。

徳川幕府にもなると幕府の重鎮は公卿でもありました。朝廷の中枢は幕府だったと言っていいほど。

なぜ江戸時代が安定していたのか分かる。彼らは朝廷の中枢でもあったから。

ちなみに征夷大将軍は、もともと大規模戦争が起きたとき、必要になったときだけ任命される令外官です。

歴代の征夷大将軍はすべて五位以上なので高位高官ではありましたが、権力を掌握する権限はもっていません。

それからすると鎌倉時代のいびつさが目立ちます。国司の守って天下を取ったわけでもない各地の戦国武将と一緒ですからね?

征夷大将軍と検非違使(せいいたいしょうぐん・けびいし)

検非違使は、平安時代の最初の天皇・第50代 桓武天皇が軍事の地方分権化で手薄になったので作られた首都警護の役職。

最初は所轄官庁がなく天皇直属の警備隊だった。

第53代 淳和天皇のとき所轄官庁の検非違使庁ができる。今でいう警視庁のようなもの。

また桓武天皇は、軍事力を地方の所轄官庁・国司に丸投げして国軍をもつことを止めた。

そこで、国司軍団をまとめるため征夷大将軍を作った。

征夷大将軍はいざ戦争が起きると任命される臨時職で、常にいるようになるのは、幕府の将軍(征夷大将軍)が国の統治をするようになった鎌倉時代から。

くわしくはこちらで。

征夷大将軍は高位高官だったが、もともと三位~五位くらいが務めるもの。

本来、公卿は征夷大将軍を任命する側。

征夷大将軍に任命されると三位に昇進していたっぽい。(慣習?)

次は 令外官
前は ランカーは8位まであった。(じつは9位まであるが...)
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