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武士の源氏と八幡さま
『河内源氏のクライマックスは八幡太郎』と言ったので、源氏と八幡さまの関係を言わないといけないでしょう。
武士の源氏と八幡宮の関係は深く、源氏が日本全国に広まったから八幡さまがメジャーの神さまになったと言われるほど。
鎌倉幕府の本拠地には鶴岡八幡宮があります。八幡宮は源氏の氏神だから。
いまや八幡宮は神社のメジャーリーガーですが、もともとマニアックでそこまで知られていませんでした。
八幡さまは第15代 応神天皇のことで、戦いの神さま・武神です。戦闘を生業にする清和源氏にはもってこいの神さま。
八幡さまはいつ源氏の氏神になったのか?
八幡さまが源氏の氏神になった時期には諸説あります。
八幡太郎説
源義家(よしいえ)は八幡太郎を名乗ったこともあり、これが河内源氏の氏神になった理由に挙げられることも多いです。
が、鎌倉幕府を作った源頼朝(よりとも)が建てたと思われやすい鶴岡八幡宮は八幡太郎より前の人が建てたのでこの説はどうなんだろ?
八幡さまが源氏の氏神になった重要なポイントだとは思うけど。
八幡太郎の父・源頼義説
鎌倉の鶴岡八幡宮を建てたのは、八幡太郎の父・源頼義(よりよし)です。
頼義は石清水八幡宮への信仰がとても厚い人で、平定した東国で近くに八幡さまを置きたくて鶴岡八幡宮を建てました。
鶴岡八幡宮も『源氏の氏神として』建てたと説明しているので、けっこう信憑性は高い。
息子・義家を石清水八幡宮で元服させたのでスゴい信仰心です。義家が八幡太郎を名乗ったのも父の影響でしょう。
ただこの説にも疑問が。このとき源氏の氏神になっていたなら、八幡太郎の弟たちは賀茂次郎、新羅三郎じゃなくて『八幡次郎』『八幡三郎』になっていたはず。
弟たちも石清水八幡宮で元服させたでしょう。これもちょっとちがうのかな? 氏神になった最重要ポイントのひとつだとは思いますが。
ひとつの考え方として、長男とそれ以外の弟たちを区別することで八幡太郎を後継者に指名したという見方もあると思います。
頼義の息子は規則性のあるニックネームをもっている。
元服した寺社名 + 年上順に太郎、次郎、三郎。ベタ中のベタ。
河内源氏より前の清和源氏の氏神説
そして一番古いのが、そもそも清和源氏は武将になったときから八幡宮を氏神にしていたというもの。
清和源氏の生みの親・清和天皇のときに大分の宇佐神宮から首都に八幡さまを招くために石清水八幡宮を創建したことを理由に始まった説です。
武将になっても天皇の子孫というプライドから出てきた説でしょう。ただこの説は決定的な確証はありません。
決定的な証拠を探すの無意味?
ボクの個人的な感想ですが、いつ氏神になったのかはあまり意味がないと思います。
清和天皇が建てた石清水八幡宮を厚く信仰したのは清和源氏だけでなく、首都にやってきた最強の神へあやかった人はいただろうし。
鶴岡八幡宮を建てた源頼義が信仰心が厚くて、息子が八幡太郎で、という源氏と八幡宮の関係のいくつかのポイントが線でつながって、いつの間にか氏神として崇められるようになったのでしょう。
しいていえば、頼義・義家親子の合作になるのかな?
確実に言えるのは、鎌倉時代の源頼朝(よりとも)のときには氏神になっていたということ。
ちなみに鶴岡八幡宮はもともと、海の近くの百合ヶ浜にありました。今のところに移したのは頼朝です。
鎌倉幕府の3代将軍・源実朝(さねとも)は、鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)に暗殺される。
このとき公暁は鶴岡八幡宮の別当(べっとう。寺社の長官。)だった。
公暁は参拝に来た実朝が帰るところを襲撃して殺した。
- P1 もともと源氏は藤原氏と双璧をなす貴族
- P2 国司になって軍団を使えるようになる
- P3 最初は失敗の連続。ポンコツの清和源氏
- P4 ひと味ちがう。河内源氏の祖・源頼信(みなもと の よりのぶ)
- P5 河内源氏のクライマックス。八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)
- P6 なぜ河内源氏だけが大きくなれたのか?
- P7 武士の源氏と八幡さま
- P8 その後の河内源氏