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八幡宮ってどういう神社?なぜ全国にあって、だれが広めたのか?

宇佐神宮

八幡宮は大小ちがえど、どこに行ってもある神社です。でも八幡さまはもともと、マイナーな神さまで『知る人ぞ知るカミ』でした。

それを全国に広めたのが武士の源氏です。

鎌倉幕府が朝廷に代わり日本統治に乗り出したので、八幡宮を氏神にしていた武士たちが全国に広がりました。そこで八幡信仰が広がります。

八幡さまは天皇

八幡宮は大分の宇佐神宮が始まりで、そこから宇佐神宮が八幡宮の総本社になっています。

八幡宮には5柱の神さまが祀られ、俗に『八幡さま』と呼ばれる神さまはあの天皇。

八幡さまの正体。戦いのカミ・武神

『八幡さま』は『八幡大神』(はちまんおおかみ)のことで第15代 応神天皇です。

応神天皇の本名は『誉田別尊』(ほむた わけ の みこと)。『鞆(ほむた)』は弓矢を射つときに上半身を守る防具のこと。

弓道部がつけてる北斗の拳のキャラクターに見える防具をイメージすると分かりやすい。

母の神功皇后が応神天皇を産んだとき、防具をつけて武装したように見えるほど皇子の腕がモリモリだったところから来ています。

また神功皇后は、日本初の対外戦争、三韓征伐(さんかんせいばつ)をした人です。自ら総司令官になって遠征していた九州北部で皇子を産みました。

このように、応神天皇は戦いに縁のある天皇です。そこから八幡大神は戦いの神さま・武神として崇められるようになりました。

宇佐神宮の一之御殿に祀られていることからも分かるように、八幡宮に祀られている神々の代表者、主祭神です。

応神天皇が生まれたのが九州北部だから大分の宇佐から始まっている。

八幡大神より先にいた宗像三女神

応神天皇がカミになって宇佐(うさ。大分)の地に降り立ったのは571年、第29代 欽明天皇のころ。

それよりも前に宇佐には強烈な神さまの信仰がありました。宗像三女神(むなかたさんじょしん)といわれる3姉妹です。

天皇の祖先をたどって行くと最初になる天照大神(あまてらす おおみかみ)とその弟・素戔嗚命(すさのお の みこと)の誓約(うけひ)の勝負から生まれました。

(誓約は占いみたいなもの。)

宇佐では725年、第45代 聖武天皇の時代に、八幡大神を主人公にした宇佐神宮が創建され脇役になってしまい二之御殿に祀られています。

宇佐神宮は、神さまが降り立って信仰が始まってから神社が作られるまで150年のタイムラグがある。

(宗像三女神の信仰にいたってはいつ始まったのかすら分からない。)

信仰はあったけど神社がないから後で作ったパターン。こういう神社は意外と多い。

3姉妹が主人公の神社は宗像大社(むなかたたいしゃ)

ちなみに、主役を奪われた3姉妹は宗像大社の主祭神です。

宗像大社は『おおやしろ』ですが、ひとつの大きなものではなく、3姉妹をそれぞれ祀った3つの宮の総称で、それぞれの宮の中にいくつもの神社があります。

辺津宮
(へつぐう)
唯一本土にある。
(福岡県宗像市)
中津宮
(なかつぐう)
福岡県宗像市に面する玄界灘の陸地に
近い大島にある。
沖津宮
(おきつぐう)
宗像市と大島を結ぶ一直線上のさらに
沖合、玄界灘のど真ん中にある沖ノ島
にある。

沖ノ島は世界遺産になったことでも有名ですね? もうひとつ女人禁制の島としても。

宗像大社の創建は宇佐神宮よりも古く、一番古い記録では第21代 雄略天皇が勅使を派遣したとあります。(日本書紀より)

いつ創建されたのかすら分からないくらい古い神社のひとつ。

もともと九州北部には、始まりが分からないほど古い宗像三女神を祀る信仰があり、それは宇佐にもあって、そこに新たな主人公の八幡大神を祀ったのが八幡宮の由来。

宮は大きな神社、重要なカミを祀る神社のことをいうが、ひとつとは限らない。

たとえば伊勢神宮は、100以上の神社の総称で伊勢市の大部分が神宮のエリアになっているとも言われる。

観光客が参拝する有名なところはほんの一部でランドマーク(目印)にすぎない。

宮はグループ名になってるところも多い。

ちなみに、出雲大社も大きい社のまわりに小さな祠のような社がいくつもある。

大小の落差が激しくてひとつの神社に見えるだけ。

『大社』のつく神社はグループ名と思っていい。

八幡さまはマザコンか?

宇佐神宮にはもう1柱の神さまが三之御殿に祀られています。応神天皇の母・神功皇后です。

神さまを親子で祀るのは珍しくはありませんが、お父ちゃんを除いて母子だけが祀られるのは珍しい。

八幡宮は武神を祀る神社で勇ましい感じがしますが、中身はマザコンの匂いがプンプン。

お父ちゃんはどこへ?

お父ちゃんの第14代 仲哀天皇は福岡県東区の香椎宮に夫婦仲良く祀られています。

香椎は国宝・金印が出土した志賀島の近く。

香椎宮は仲哀天皇が亡くなった地で妻の神功皇后が祀ったのが始まりです(西暦200年)。宗像大社より新しいですが宇佐神宮よりはずっと古い。

個人的な話ですがボクは香椎に4年住んでました。ただ当時はこんなスゴい神社とは思わず一度も見に行ってません。

いつか、思い出に浸りながら見に行きたいな~。

香椎は、日本の最初の対外戦争、三韓征伐の本陣を置いたところでもある。

八幡宮と住吉神社の関係

日本全国に広がったメジャーの神社に住吉神社があります。くわしくはこちらにおまかせしますが、住吉神社は皇祖神・アマテラスの父・伊邪那岐(いざなぎ)がをした小川から生まれた3兄弟の水の神さまを祀っています。

この神さま、八幡さまと何かと縁のある神さま。

父・仲哀天皇を殺す

仲哀天皇は香椎(かしい。福岡)で亡くなってますが殺したのは住吉三神です。

仲哀天皇は熊襲(くまそ。南九州の強い豪族)退治のために九州遠征をしていたのですが、いっしょに行っていた妻・神功皇后に降りてきた住吉三神に

『海の向こうに渡って制圧してこい!』

と言われます。

ようはイタコになった神功皇后に降りた住吉三神の朝鮮制圧のお告げ。

仲哀天皇は『海の向こうに何も見えないんだけど?』と言って無視します。朝鮮遠征はしませんでした。

すると住吉三神は怒り仲哀天皇を殺してしまいます。

次期後継者に応神天皇を指名する

また住吉三神は、神功皇后に憑りついて

『今、腹の中にいる子が次のリーダーだ!』

と次期後継者も指名しました。

その腹の中にいた皇子が応神天皇。八幡さまです。応神天皇は母・神功皇后が遠征していた戦地で生まれました。

神功皇后は皇子を産むのを遅らせるためにお腹を石で押さえ、さらしのようなもので固定して戦争の指揮をとったというエピソードもあります。

臨月なのに仕事をするパラフルな女性。

住吉大社を創建したのは神功皇后

神功皇后の朝鮮出兵は夫に代わってやったリベンジです。夫を殺された神功皇后が海を渡りました。

そのとき、海上の安全を守ったのが住吉三神。そこから住吉三神は、

水のカミ。

海上交通安全のカミ。

交通安全のカミ。

として有名になります。

そのご加護に感謝をして神功皇后が創建したのが住吉大社。住吉神社には神功皇后も祀られています。住吉三神 + 神功皇后 = 住吉大神

八幡宮と住吉神社は、父の仇、母の恩人、指名してくれた恩人と、良いんだか悪いんだか、なんとも言えない縁のあるものです。

八幡神社と住吉神社の両方に祀られてる神功皇后は、日本の女神の中でも最強クラス。

もうひとつの総本社・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)

八幡宮の総本社が宇佐神宮と聞いて、ちがうものが浮かんだ人がいるんじゃないでしょうか?

京都にある石清水八幡宮です。

今では石清水八幡宮も八幡宮の総本社とされています。日本全国に広まった八幡神社は、石清水八幡宮から分祀され広がったから。

その石清水八幡宮は宇佐神宮から分祀されました。平安時代、第56代 清和天皇のとき九州から都近くに呼び込んだのが始まりです。

全国の八幡宮の祖先が石清水八幡宮で、石清水八幡宮の親が宇佐神宮。

仏教徒が神道の神社でお告げを聞く不思議

都近くに移した理由は、宇佐神宮で祈祷をしていた仏僧に『われが都近くの山に行って国の安定を守ってやろう』(国家鎮護)のお告げがあったのがきっかけです。

???

『仏教徒が神社で祈祷して神道のお告げってどういうこと?』と思うでしょうが、日本は神道と仏教は同じものとして見るほうが歴史は長い。

神仏習合(しんぶつしゅうごう)といいます。

さっき出てきた住吉三神も仏の最高ランク、如来(にょらい)の化身といわれます。

『仏の化身がカミ』は仏教から見た解釈で、神道では『姿が見えないカミを可視化したのが仏(像)』と解釈します。

石清水八幡宮の創建は天皇の権威の危機の現れ?

石清水八幡宮の創建は、祈祷だ、お告げだと神がかりな理由になってますが、ボクはもっと現実的に見ています。

清和天皇は政治システムの転換期で、摂関政治の始まり、最初の幼少天皇ということもあり、権力が初めて天皇以外に移りました。

おそらく、政治権力から離れていく天皇の権威が落ちていくのを止めるために『国家の安定を守っているのは天皇だったカミ』というストーリーを作ったのでしょう。

八幡宮をメジャーにしたのは武士の源氏

八幡さまは大分の宇佐にあって天皇にゆかりのあるものなので、天皇と近い人にしか知られていないマイナーな神さまでした。

石清水八幡宮を作った目的は国家鎮護で、スケールが大きすぎて権力者にしか分からない神社です。全国に広がるものではありませんでした。

それを全国区、庶民に身近なものにしたのは武士の源氏です。河内源氏国司として東国を一帯に広まったこと、鎌倉・室町・江戸の幕府の長が河内源氏で、武家社会になったことで一気に全国に広まりました。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

鎌倉の鶴岡八幡宮が有名ですね?

この鶴岡八幡宮を建てたのは、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもと の よりとも)ではありません。まだ武士という言葉がなかったころ、河内源氏が国司として東国に広まる最高潮のときの2代目棟梁・源頼義(よりよし)が建てました。

くわしくはこちらで。

日本三大八幡に鶴岡八幡宮は落選。入っているのは?

八幡宮といえば鎌倉の鶴岡八幡宮という人は多いですが、日本三大八幡といわれるビッグ3に入っていません。

宇佐神宮大分県宇佐市
石清水八幡宮京都府八幡市
筥崎宮
(はこざきぐう)
福岡県福岡市東区
日本三大八幡

筥崎宮って? どこ? と思うでしょう。さっき出てきた香椎宮から10kmと離れていない場所にあります。筑前国(福岡)の一宮なので別格の神社。

一宮(いちのみや)

特定の地域で一番ランクの高い神社。一之宮とも書く。

国ごと(武蔵国や筑前国など)に一宮を置いた。

あえて決めなかった国もあるし、権力者の意向によって変わることもあった。

潔さが気持ちいい筥崎宮

筥崎宮の何がスゴいって、本殿の上の看板みたいなものに書いてある言葉が『敵国降伏』。

第60代 醍醐天皇が書いた『敵国降伏』の書が代々受け継がれて大事に保管されているそう。

ど真ん中ストレートの剛速球。ここまで一直線に言い切った神社はありません。

筥崎宮は名だたる戦国武将が戦勝祈願をした神社です。

鎌倉武士蒙古襲来のとき。
足利高氏
(あしかが たかうじ)
九州に逃れていた時期があった。
大内義隆
(おおうち よしたか)
周防(すほう。山口)を拠点にし
た戦国大名。
小早川隆景
(こばやかわ たかかげ)
豊臣秀吉
(とよとみ ひでよし)
朝鮮出兵時に九州北部に集まった
戦国武将たち。

さすが、武神・戦いの神さま。

ただ最近は『やっぱり鶴岡八幡宮こそビッグ3でしょ?』という声が大きいらしい。個人的にはここまで潔く言い切っている筥崎宮こそ外さないでほしい。

筥崎宮は『敵国降伏』を書いた醍醐天皇のころに造られました。石清水八幡宮の少しあとで鶴岡八幡宮の少し前。

ビッグ3のポジションが危うくなっているのは、日本人の極端な軍事アレルギーのせいでしょう。

豪速球に慣れてないので『え?』と思うのかもしれません。

平和と戦勝祈願は対立するものではありません。筥崎宮だってやたらめったら戦争を推奨する神社ではありません。

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