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武士はどこから来たのか? なぜ生まれたのか? 日本は軍事が嫌いだから生まれたかも。

武士 画像

ご覧のページは 4 / 6 です。先頭ページはこちら。

武士の誕生

ここまでは前フリ。長かったですか?

このフリに武士の誕生のスパイスが凝縮されてます。だから長くなりました。

軍事力をもっているのは国司。

平氏源氏の誕生。

国軍をもっていない。

この3つが武士が生まれるきっかけです。というか武士を作った材料はこれだけと言っていいほど。

『武士は平安の中ごろに出てきた。』

と歴史で教わった人は多いのではないでしょうか?

なんで平安の中ごろなのか?

もう分かりますね?

3つの材料がそろって、いい頃合いになったのが平安中期です。

平氏と源氏の軍事化

平氏は4つの流れしか作れなかったように、姓を与えられた元皇族の劣等生でした。作ったはいいけれど、政権中枢は藤原氏源氏の2トップで占められて入るスキがありません。

そうなると、あふれた平氏は地方の役人になります。もちろん国司になるのもいました。

ここに軍事力をもった平氏の誕生。武家の平氏の登場です。

もうひとつの源氏はたくさん作られましたが、天皇の家族、天皇の子孫になっていく藤原氏に中央政界から追いやられていきます。150年くらいかけて。

そうなると行き着く先は平氏と同じ。多くの源氏が地方の役人・国司になっていきました。

ここに軍事力をもった源氏の誕生。武家の源氏の登場です。

中央政界にポストがない貴族が地方役人になって軍事力をもった。

平氏、源氏はその代表格。

国軍なしではまとめられない!

平氏源氏の多くが地方に散らばったころ、国司を軍の司令官にしたことが仇になります。

軍事力を一番もった国司が、赴任地であたかも自分の領地のように振る舞いはじめました。中央政府なんか知ったこっちゃないという態度で。

中央から追い出された平氏や源氏の恨みつらみもあったでしょう。

国司だけではありません。元々それぞれの土地で力をもっていた豪族たちも我先に独立してやるという勢いで戦争し始めます。

国司 vs 国司

国司 vs 国司の部下(郡司など)

国司 vs 豪族

国司の部下 vs 豪族

豪族 vs 豪族

(古代の豪族とは意味がちがう。後で説明。)

地方でだれが強いか? のバトルロワイヤル。このバトルを制した人たちが武士です。

一言で武士と言ってもどこから出たのかはそれぞれ。平安中期の強いやつが武士になりました。

藤原氏や古代からの有力豪族の末裔など、バトルに参加した氏族はもっと多い。

中央政界から追い出されたのは平氏・源氏だけじゃないから。藤原氏でも地方に追いやられた人は多い。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

やっぱり名門がリーダーになりやすい?

出身なんか関係ねー、のバトルロワイヤルでしたが、勝者になったのは名門氏族ばかりです。

氏族どこ出身?
源氏
平氏
本家
足利氏源氏
新田氏源氏
畠山氏平氏
源氏
武田氏源氏
上杉氏藤原氏
細川氏源氏
三好氏源氏
六角氏源氏
浅井氏平氏
源氏
藤原氏
朝倉氏日下部氏(くさかべ)
織田氏平氏
藤原氏
北条氏平氏
徳川氏源氏
毛利氏土師氏(はじ)
伊達氏藤原氏

(日下部氏、土師氏は古代に天皇から別れた古い元皇族の氏。)

鎌倉・室町・戦国で思い当たる有名な武士の氏族を挙げてみましたが、元をたどれば特定の氏族しかありません。

バトルロワイヤルと言っても、名門氏族が地方で力をもっていたのでアドバンテージがあったのでしょう。

(とくに国司はもってる軍事力がちがう。)

国司などの地方役人には口だけ番長で偉そうにしている人もいた。都に住んで自分の赴任地に一度も行かなかった人もいるほど。

そういう人は、部下や豪族から下剋上をくらう。さながら戦国時代のよう。

平将門と藤原純友の反乱(承平天慶の乱)

このバトルロワイヤルの象徴が平将門(たいら の まさかど)と藤原純友(ふじわら すみとも)です。

平将門は関東で同じ平家一門の叔父さんたちとの争いに勝ち、平定するために国司も倒して、最後は『新皇』を名乗って反乱を起こしました。

藤原純友は瀬戸内海の海賊討伐の司令官として戦地に向かったのに、最後は海賊のボスになって反乱を起こしました。

このほぼ同時に起きた2つの大きな反乱を『承平天慶の乱』(じょうへいてんぎょうのらん)と言い、はじめての武士の反乱と言われます。

このころの平家や源氏藤原氏など名門氏族は地方で軍事力を相当もっていて、さっきの3つの条件がちょうどブレンドされて熟成されていた時期。

起きるべくして起きた反乱でした。

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