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武士はどこから来たのか? なぜ生まれたのか? 日本は軍事が嫌いだから生まれたかも。

武士 画像

ご覧のページは 3 / 6 です。先頭ページはこちら。

平氏・源氏の誕生

あとで出てくる武士にとってもうひとつ、重要な変化が平安時代にありました。

それは、平氏源氏が出てきたこと。

古代・奈良時代になると藤原氏が皇族の皇親政治に代わって台頭し、平安時代になると藤原氏の摂関政治が始まります。

しかし、平安時代になってもいきなり藤原氏が独占したわけじゃありません。平安初期はむしろ律令政治と摂関政治のブレンド。

律令政治のメンバーチェンジ

律令政治(皇親政治)にも変化が起きました。

皇族の代わりに、民間人になった天皇の息子・孫たちが律令政治を担う。

これは大きな変化です。奈良時代の末期には皇子のメンツが足りなくて皇親政治は無くなりかけてました。

藤原氏がそれをカバーした。)

(みなもと)は、天皇の息子たちを民間人にするのによく使われた代表的な姓です。

(平安時代では3代目・第52代 嵯峨天皇から第62代 村上天皇まで源氏の大量生産期。)

天皇が源氏を作るのがスタンダードだったくらい。結局、源氏は21もの流れができました。

源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)

天皇の子孫の氏族の源氏には21の系統がある。その総称。

天皇の息子・孫を臣籍降下して民間人にするのに源(みなもと)姓は多く使われ、第52代 嵯峨天皇の息子から始まる。

平安時代の初期から中期にかけて、天皇は源氏を作るのが常識なほど一番多く作られた。

ペースは徐々に落ちていくが、戦国時代の第106代 正親町天皇の系統が江戸時代初期に作られたのが最後。

1第52代 嵯峨天皇嵯峨源氏
(さが)
最初は、左大臣・右大臣など、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。
徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなる。

渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など知る人ぞ知る武士に残った程度。
2第54代 仁明天皇仁明源氏
(にんみょう)
嵯峨源氏と同じく、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。

仁明源氏の中から平氏に枝分かれしたのもいる。
仁明平氏

徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。
3第54代 文徳天皇文徳源氏
(もんとく)
前例と同じく藤原氏と並ぶ政治家一門だった。
徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。
4第56代 清和天皇清和源氏
(せいわ)
政治家としてはパッとしない。
国司や軍事専門の地方役人などに多くの人を輩出する。

それらが武士となり、日本最高の武家一門に成長する。
源頼朝、足利高氏など有力武将は数知れず。

貴族としては公卿にギリギリ滑り込んだ程度。
唯一残っていた竹内家がつづき明治に華族になった。

21の源氏の中でもっとも有名になった家。

村上源氏以外でただひとり、足利義満が太政大臣になった。
5代57代 陽成天皇陽成源氏
(ようぜい)
多くの公卿を輩出する政治家一門だったが、これまでの源氏と比べ見劣りする。
その後も目立った貴族、武士などはいない。
6代58代 光孝天皇光孝源氏
(こうこう)
最初は、中納言を輩出するなど政治家一門だったがフェードアウト。

その中でひとり、康尚(こうしょう)が仏師になり日本仏教彫刻の最大勢力、慶派(けいは)を作っていく。
鎌倉時代の有名な彫刻家、運慶湛慶(うんけい・たんけい)もその子孫。

その他、数々の天才彫刻家は数知れず。
慶派は幕末の動乱まで仏師の主流だった。
(日本の彫刻界の中心だったと言ってもいい。)
7第59代 宇多天皇宇多源氏
(うだ)
最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。

鎌倉時代には綾小路家・大原家など公卿の中堅に多くを出した。
明治になると多くが華族になる。

佐々木氏など有力武士も多いが天下取りを争うほどではない。
8第60 醍醐天皇醍醐源氏
(だいご)
最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。
その後、貴族ではあったが地下家(じげけ)で上流貴族になれていない。

地方に散らばり武士になった人も多いがメジャーではない。
9第62代 村上天皇村上源氏
(むらかみ)
多くの源氏が朝廷でフェードアウトする中、最後まで上流貴族を保った。
(天皇の子孫の意地を見せた。)

藤原氏にかくれているが、貴族の源氏と言えば村上源氏というくらいの勢力。

源氏で最大の3人の太政大臣を出す。

明治維新の岩倉具視(いわくら ともみ)を出した。
武士では北畠氏(きたばたけ)を出した。
10第63代 冷泉天皇冷泉源氏
(れいぜい)
作られた当初から存在感がない。
本当にあったのか? と思うほど。
11第65代 花山天皇花山源氏
(かざん)
ギリギリ上流貴族の半家に白川伯王家(しらかわはくおう)が残っただけ。
1家で頑張ってきたが昭和になって断絶した。
12第67代 三条天皇三条源氏
(さんじょう)
貴族では最初からパッとしない。
僧侶や天皇の妻などになり目立たない。
13第71代 後三条天皇後三条源氏
(ごさんじょう)
ひとりだけ源氏になった源有仁(みなもと の ありひと)は左大臣までなったが後継者がいなくて断絶。

武士の中には後三条源氏を名乗るものがいたが自称の可能性が高い。
14第77代 後白河天皇後白河源氏
(ごしらかわ)
反平家の挙兵をした以仁王(もちひとおう)ひとりだけ。

皇籍を剥奪され懲罰で源氏になった。
討伐軍に追われて戦死。
15第84代 順徳天皇順徳源氏
(じゅんとく)
ひとり左大臣を出した。
室町幕府 第3代 将軍・足利義満(あしかが よしみつ)のときに最後の一人が出家してしまい断絶。
16第88代 後嵯峨天皇後嵯峨源氏
(ごさが)
源惟康(みなもと の これやす)ひとりだけ。
鎌倉幕府 第7代 征夷大将軍になる。

親王のままの将軍は都合が悪いから源氏になった可能性が高い。
17第89代 後深草天皇後深草源氏
(ごふかくさ)
鎌倉幕府 第8代 将軍・久明親王(ひさあきら)の孫が源氏になる。

大納言にまでなったがあとが続いていない。
18代90代 亀山天皇亀山源氏
(かめやま)
特筆する人はない。
19第84代 後二条天皇後二条源氏
(ごにじょう)
特筆する人はいない。
20第96代 後醍醐天皇後醍醐源氏
(ごだいご)
後醍醐天皇の孫が源氏になったと言われるが、詳細がない。
(信憑性はないかも?)

武家の大橋氏、神社を代々守る社家の氷室氏など末裔を名乗る氏族はいる。
21第106代 正親町天皇正親町源氏
(おおぎまち)
正親町天皇は織田信長・豊臣秀吉のころの天皇だが、江戸時代にその子孫が源氏になる。
広幡家(ひろはた)

摂関家に次ぐ清華家になるなど格別の待遇を受けた。
明治になると華族になる。

源氏として活躍したのは平安中期までに作られた源氏で、村上源氏で勢いは止まる。

その後は活躍する人が出ていない。鎌倉時代は幕府の将軍が大きく関係している。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。

貴族の家格(かかく)

平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。

(主に藤原氏と天皇の子孫の源氏

鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。

1摂関家
(せっかんけ)
摂政関白太政大臣になる。
五摂家。
すべて藤原北家の流れ。
2清華家
(せいがけ)
摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。

江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。
(江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。)

三条(さんじょう)
西園寺(さいおんじ)
徳大寺(とくだいじ)
久我(こが)
花山院(かざんいん)
大炊御門(おおいのみかど)
菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ)
の7家。

久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。
村上源氏

ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。

江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。
広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏
醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。
3大臣家
(だいじんけ)
清華家の分家。
摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。
大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。
(まれに右大臣になる人もいた。)

太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。

正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが)
-> 三条家の分家。藤原氏。

三条西(さんじょうにし)
-> 正親町三条の分家。藤原氏。

中院(なかのいん)
-> 久我の分家。村上源氏。

の3家。
4羽林家
(うりんけ)
近衛少将・中将になる。
参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。

軍事を担当する。
江戸時代には大名家に与えられた。

藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家)
藤原南家: 4家
村上源氏: 8家(久我の分家)
宇多源氏: 3家

数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。
4名家
(めいけ / めいか)
序列は羽林家と同じ。
最高位も同じで大納言
(例外で左大臣になる人もいた。)

天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。
羽林家は武門に対して名家は文官。

藤原北家: 25家
桓武平氏: 3家

平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。
5半家
(はんけ)
大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。
(上流貴族でも政権中枢に入れない)

特殊技能を使って朝廷の仕事をした。

藤原北家: 2家
清和源氏: 1家
宇多源氏: 2家
花山源氏: 1家
桓武平氏: 2家
菅原氏(すがわら): 6家
清原氏(きよはら): 3家
大中臣氏(おおなかとみ): 1家
卜部氏(うらべ): 4家
安倍氏(あべ): 2家
丹波氏(たんば): 1家
大江氏(おおえ): 1家

いろいろな氏族が入っている。
菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。

清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。

大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。
古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。

卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。

安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。
(神話の話で信憑性も薄い。)

安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。
陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。

丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。
坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。
医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。

大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。
土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。
(ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。)

上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。
堂上家

表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。

堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。

堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。

また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。

これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。

正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位
堂上家無条件に清涼殿への出入りが許される。
政権中枢の人しかいない。

今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
殿上人本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。
実態は堂上家が認め天皇が追認。

この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。

今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。

正六位上
以下
地下家清涼殿への出入りが許されない。
位階と家柄

朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。

位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

くわしくは『摂関政治とは何か?』で。

五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。

1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。

もうひとつの名門・平氏も同じですが、4つの流れしか作っていません。

(時期は源氏の大量生産期と重なる。)

源氏は唯一、藤原氏と対等に渡り合った氏族。政権トップの左大臣にまでなった人は数知れず。

律令政治と摂関政治のブレンドは、源氏と藤原氏のブレンド政権と言ってもいいくらい。

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