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第61代 朱雀天皇 菅原道真の呪いで踏んだり蹴ったりの幼帝

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歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -

第61代 朱雀天皇(すざく)は8才で即位した幼帝です。

菅原道真(すがわら の みちざね)の怨霊に悩まされるだけで終わったババを引いた天皇。

中世 平安時代 - 中期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあん の みや)

  • 生没年
  • 923年7月24日 ~ 952年8月15日
    延長元 ~ 天暦6
    30才
  • 在位
  • 930年9月22日 ~ 946年4月13日
    延長8 ~ 天慶9
    17年
  • 名前
  • 寛明
    (ゆたあきら)
  • 別名
  • 仏陀寿

  • 藤原穏子
    (ふじわら おんし / やすこ)

    藤原基経の娘
    (ふじわら もとつね)

  • 女御
  • 藤原慶子
    (けいし / よしこ)

    藤原実頼の娘
    (ふじわら さねより)

朱雀天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

菅原道真の呪いで天皇になる

寛明親王(ゆたあきら。のちの朱雀天皇)は、第60代 醍醐天皇の11番目の皇子です。天皇になるはずはなく、自分は皇族でも息子たちは臣籍降下して官僚になるような立場でした。

(おそらく醍醐源氏の祖のひとりになっていた。)

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

しかし父・醍醐天皇は、ウソで左遷させ悔しい気持ちのまま死なせてしまった菅原道真(すがわら みちざね)の怨霊に呪われてしまいます。

呪いの恐怖で天皇になるはずのない寛明が皇太子になりました。

後継者が連続して死亡

父・醍醐天皇の皇太子は寛明親王の兄・保明親王(やすあきら)でした。それが21才の若さで亡くなります。

そのあと、皇太孫に保明親王の息子・慶頼王(よしよりおう)を立てました。しかし慶頼王が5才で亡くなってしまいます。

(皇太孫は皇太子の孫バージョン。次期天皇のこと。)

天皇家や政権中枢の貴族たちはビビります。追い出した菅原道真に呪われていると思いはじめました。

そんなとき、宮中に雷が落ちて政権ナンバー3の大納言が亡くなるなど大惨事が起きます。

いよいよ道真の呪いの信憑性が高まり、宮中はビビり倒していました。

ほかの親王は逃げた?

寛明親王は3才になるまで、何重にも立てらてた仕切りの中で怨霊に怯えた母・藤原穏子(ふじわら おんし)が育てたそう。

前の二人の後継者と同じように死んでしまうと思ったのでしょう。

そんなとき、父・醍醐天皇が病気になりいよいよ最後か? というころ、皇位を引き継ぎ7日後に父が亡くなりました。

(即位はその直後。8才。)

??? ちょっとおかしいです。寛明親王にはたくさんの兄がいました。太政官の省のトップ(いまでいう事務次官)になるくらいの人もいます。

この兄たちは逃げんたんじゃないだろうか? 次期天皇に指名されると死ぬんじゃないかと。

だから、まだ意見を言えない赤ん坊の寛明親王を皇太子にして押しつけたのでしょう。母の異常なビビり方に納得。

できる宰相・藤原忠平(ふじわら の ただひら)

朱雀天皇の2代前、お祖父ちゃんの宇多天皇から摂政関白太政大臣を置かない天皇親政をしていました。平安時代では珍しい政権です。

しかし、8才で即位した朱雀天皇ではさすがにできません。藤原北家の長者・藤原忠平(ふじわら ただひら)が摂政になりました。

(朱雀天皇が成長すると関白・太政大臣になる。)

朱雀天皇の政治のすべてを忠平が引き受けます。

藤原忠平は天皇のひ孫

藤原氏は天皇に嫁を出す家で天皇家の親戚というイメージがありますが、このこのろから藤原氏は天皇の子孫にもなります。

藤原氏の長者の家にもなると天皇の娘などを嫁にもらうようになりました。藤原忠平の母は第58代 光孝天皇の弟・人康親王(さねやす)の娘です。

忠平の妻も天皇の娘と孫。

源順子
(みなもと の じゅんし / のぶこ)
第59代 宇多天皇の皇女。
宇多源氏
源昭子
(みなもと の しょうし)
源能有(みなもと の よしあり)の娘。
能有は第55代 文徳天皇の皇子。
文徳源氏

文徳天皇の孫。
藤原忠平の妻

平安時代初期は、天皇の源氏大量生産期なので、源(みなもと)のつく左大臣・右大臣・大納言などの公卿(くぎょう)、〇〇の妻はすべて天皇の子孫です。

(しかも、嫁に出される人が天皇の娘・孫娘など天皇との距離が近い。)

藤原忠平は実力だけでなく、天皇の母・嫁の実家であり天皇家のお婿さんでもある天皇家の家族。

忠平はこれから藤原氏の隆盛を誇る摂関政治を完成させたとも言われます。

『天皇家の婿の藤原氏』を作ったのは藤原良房

天皇の娘や孫娘など、天皇と血統の近い人が藤原氏に嫁ぎはじめたのは、藤原忠平のお祖父ちゃん、藤原良房(ふじわら よしふさ)から。

良房は史上初の臣下の摂政(人臣摂政)、人臣の太政大臣になった超大物。摂関政治の走りです。

ただ、さすがに内親王が嫁ぐことはできなかったようです。臣籍降下した源氏の天皇の子孫や女王が嫁ぎました。

(天皇の娘は皇族のまま嫁ぐことができなかった。孫以降の女王はOKだったらしい。)

藤原良房
(ふじわら よしふさ)
源潔姫(みなもと の きよひめ)。
第52代 嵯峨天皇の皇女。
藤原基経
(ふじわら もとつね)
人康親王(さねやす)の娘。
第54代 仁明天皇の孫。

操子女王(そうし)。
忠良親王(ただよし)の娘。
第52代 嵯峨天皇の孫。
藤原時平
(ふじわら ときひら)
廉子女王(れんし / やすこ)。
本康親王(もとやす)の娘。
第54代 仁明天皇の孫。

源湛(みなもと の たたう)の娘。
第52代 嵯峨天皇のひ孫。
藤原忠平
(ふじわら ただひら)
源順子(みなもと の じゅんし / のぶこ)
第59代 宇多天皇の皇女。

源能有(みなもと の よしあり)の娘。
能有は第55代 文徳天皇の皇子。
文徳天皇の孫。
藤原長者の妻

良房以降の藤原氏長者、摂政関白太政大臣(時平以外)の嫁は天皇の子孫です。

この時代、天皇の子どもをたくさん源氏にしているのが効いているみたいですね?

道真の呪いが止まらない

朱雀天皇の時代は世の中が不幸つづきでした。地震や洪水などの天変地異は起きるし、937年には富士山が噴火しました。

これらも道真の祟りとして恐れられます。また、地方の反乱も起きました。

平将門の乱

当時の関東は国司の押さえが効かず、天皇の子孫の源氏・平氏、藤原氏の地方任官していた人たちが土着して豪族、武士のようになっていました。

(なんなら国司が豪族になっていたこともあった。)

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続いた。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

その豪族同士の争いを平定したのが平将門(たいら の まさかど)。

将門は父が鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)で、都で仕事をしたこともある軍事の才能がある貴族でした。

(実力者・藤原忠平にかわいがられていたほど。)

しかし、軍に関わる貴族は大納言・中納言などの公卿(くぎょう)より下に見られ、地方にいることも多い仕事です。

将門は関東で争いがはじまると都をはなれて敵を蹴散らし、都から呼び出しがかかると戻る生活をしていました。

そのあと関東を平定すると『新皇』を名乗ったので朝廷の反乱とみなされ、たった2ヶ月で鎮圧されます。

鎮守府は東北全般を統括する役所で、その将軍は最前線の激戦地の総司令官。

当時は東北がいちばん朝廷に対する反乱が起きると思われていた。

(過去の蝦夷討伐の名残り。)

そこから当時の軍人の最高の職が鎮守府将軍になっていた。鎌倉幕府の将軍ができてその地位は無くなる。

朝廷は将門のことを信じていた

平将門の主な敵は同じ桓武平氏一門の叔父さんたち。将門 vs 叔父たちで戦争をくり返しました。

(そのほかの国司・豪族同士の小競り合いもあって複雑。)

関白・藤原忠平も最初から将門を反乱軍と決めつけていません。

反乱の罪はお咎めなし

将門は関東で戦争をして都に戻ったとき、都の貴族たちから反乱の罪を問われます。

しかし、朱雀天皇の元服の恩赦でお咎めなしになりました。

関白・藤原忠平のお気に入りで主従関係も結んでいたので、関白のツルの一声でしょう。

将門の言い訳が採用される

武蔵国(東京)の国司代理だった源経基(みなもと の つねもと)が豪族と小競り合いになったとき、将門が仲介して和解させますが経基は敵に包囲されて都に逃げ帰ります。

経基は関白・藤原忠平に、

源経基
公家 image
将門にだまされた!
源経基
公家 image
将門が反乱を起こしている!

と訴えました。

しかし忠平は、くわしく調べると言って将門にも意見を聞きます。将門は、

『話の内容はあっています。しかし反乱ではありません。和平交渉の失敗です。』

と答えました。

(このやり取りは都と関東のあいだを文書でした。)

そのときの忠平は将門の言い分が正しいと判断して、逆に逃げ帰った経基に怒りの罰を与えました。

『新皇』を名乗って独立宣言するまでは、関東一の軍人になった将門にそれなりの役職を与えようとするくらい信じています。

平清盛の先祖も絡んでいた

平氏といえば平清盛(たいら の きよもり)ですが、清盛の祖先と平将門は同じ桓武平氏でも直接のつながりはありません。

このときの清盛の祖先は平貞盛(たいら の さだもり)で将門のいとこ。貞盛の父・平国香(たいら の くにか)は将門と対立していた叔父さんのひとりで将門に殺されていました。

貞盛は朝廷軍につきます。歴史で有名な二つの平氏は敵同士でした。

貞盛はその後、朝廷軍の事実上の総司令官になる。最終的に将門を倒したのも貞盛。

独立宣言はなりゆき?

将門は、関白・藤原忠平と主従関係があるくらい信頼関係ができてました。しかし関東の戦乱は複雑で、豪族の争いだけでなく国司も加わっていました。

(国司同士の戦争もあった。)

将門は戦乱を収めるために国司と戦争をすることになってしまい、結果、国司の軍(朝廷軍)を倒し反乱軍になってしまいます。

『新皇』を名乗ったのは関東をまとめるには仕方がなかった部分もあります。国司の勝手な行動を止められなかった朝廷も悪い。

それくらい当時の中央政府は地方を抑える力がなくなっていました。

150年前の第50代 桓武天皇のとき日本は国軍をもつことを辞めました。軍の地方分権を進めて国内の軍を動かすのは国司です。

その国司が中央政府からはなれて勝手な動きをしたので止めることが難くなっていました。

言い換えれば、150年間は中央政府に国司を抑える力があったということ。

(ふつうに考えれば、よく150年も抑えたなと思う。)

藤原純友の乱

藤原純友(ふじわら すみとも)は、お祖父ちゃんが摂政関白太政大臣だった藤原基経(ふじわら もとつね)の兄で、藤原氏の本流にいた人です。

(純友の大叔父が基経。)

しかし、藤原北家の主流、藤原良房(ふじわら よしふさ)の流れではなく、良房の兄・長良(ながら)のひ孫なので、藤原氏の本流・北家でも出世の波には乗れませんでした。

純友は瀬戸内海へ赴任します。そこで海賊を取り締まる仕事をしていましたが、海賊たちを制圧したあと自分が瀬戸内海全域の海賊のドンになりました。

その海軍の力を使って挙兵し畿内(きない。首都圏)に進出、瀬戸内海沿いの国府(こくふ)を制圧、大宰府(福岡)にまで進出しました。

(国府は国司のいる場所で県庁みたいなもの。)

歴史ではあまり語られませんが織田信長に匹敵する勢いです。それだけの勢力なので鎮圧されるのに2年もかかりました。

藤原純友は伊予(愛媛)に逃げたところを捕らえられて殺されたとも言われますが、どうなったのか分かっていません。

海賊の大船団を引き連れて、四国の海へ出たまま行方不明になったとも言われます。

承平天慶の乱って何?

ボクが学校の歴史で習ったころは、『平将門の乱』『藤原純友の乱』と別々に習った記憶があります。

それが今は、ふたつ合わせて『承平天慶の乱』(じょうへいてんぎょうのらん)というらしい。

平将門が関東で反乱を起こしたこと、瀬戸内海で藤原純友が挙兵したことが、ほぼ同時に朝廷に伝わったことので一つにまとめられたのか?

(都では東と西で同時に大規模な反乱が起きたので大騒ぎだった。)

朝廷に対する不満をもった軍事専門の人(武士にも見える)が歴史上はじめて挙兵した共通点があるからなのか?

ちなみに、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもと の よりとも)、室町幕府を開いた足利高氏(あしかが たかうじ)の祖先・清和源氏の祖・源経基(みなもと の つねもと)は両方の乱に参加しています。

平将門の乱武蔵国(東京、埼玉、神奈川など)の介(すけ。副知事みたいなもの。)だった。

関東の戦乱にも参戦し京都に逃げている。

一時、朝廷は将門の意見を聞き、経基に罰を与えたりもした。
その後、将門の反乱が分かって朝廷軍に参加する。
藤原純友の乱朝廷軍の副司令官。
(征夷大将軍の副官。)
源経基の仕事

源経基は第56代 清和天皇の孫。

各地の国司を歴任し、鎮守府将軍まで出世した。

平将門と藤原純友の反乱は律令政治の限界を象徴している、律令政治から摂関政治へ移る転換点になっている、と言われます。

だから『承平天慶の乱』でひとくくりにしているのか?

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

平将門も怨霊になる

この二つの反乱も菅原道真の怨霊の祟りだと見られてました。その怨霊に呪われている中、新たな怨霊が生まれます。

平将門の怨霊です。

菅原道真は日本三大怨霊のひとりで平将門もそのひとり。

将門は関東で殺されたあと首だけ都の運ばれてさらし首になりました。日本の歴史で確認されている一番古い、さらし首とも言われます。

また、都でさらされていた将門の首が勝手に宙に舞い、関東へ帰っていった有名な話があります。

同じように反乱した藤原純友は怨霊になっていない。これが純友が死んでいない証拠に挙げる理由になってる気もする。

(怨霊は死んだ人しかならない。)

歴史の転換点と運の悪さのダブルパンチ

朱雀天皇の時代はいいことがありませんでした。それを都では菅原道真の祟りだと思って怖がりました。

先輩たちが作り上げたものでやっているのに、なかなか上手く行かないので原因が分からず、道真の怨霊のせいにするしかありませんでした。

(天変地異は運が悪いとしか言えない。)

かといって律令政治は終わりません。次の村上天皇では関白太政大臣を置かない天皇親政(律令政治)です。

しかも、けっこう平和な世の中でした。歴史の転換点と言っても、いきなりドーンと変わることはないってことでしょう。

(朱雀天皇はやっぱり運が悪い。)

朱雀天皇は怨霊の祟りに疲れたのか24才で退位して、弟の成明親王(なりあきら。村上天皇)が即位します。6年後に亡くなりました。

朱雀天皇には息子がひとりもいませんが、『絶世の美女』と言われた昌子内親王(しょうし / まさこ)が生まれてます。

退位した朱雀天皇は仁和寺に入ります。

仁和寺は第58代 光孝天皇が造りはじめ第59代 宇多天皇のとき完成しました。

宇多天皇は歴史上初の法皇で、その拠点が仁和寺。仁和寺は以降、出家した親王が住職になる由緒ある寺になっていく。

(仁和寺は真言宗。第52代 嵯峨天皇からの『天皇の仏教は真言宗』の流れを継承した。)

『摂関政治を完成させた藤原忠平』に???

ボクはずっと『摂関政治を完成させた藤原忠平』に納得していませんでした。

藤原忠平の父・基経は史上初の摂政関白太政大臣をコンプリートした人なので、完成させたと言うなら基経の方でしょう。

また、天皇親政が間に入ることなく摂関政治がつづいていくのは、忠平の息子・藤原実頼(ふじわら さねより)からなので、完成させたと言うなら実頼だとも思ってました。

でも、律令政治から摂関政治の転換点というところから見れば納得しました。

藤原基経摂関政治を作った
しかし、政治の中心は天皇親政(律令政治)。
(天皇親政の中の摂関政治。)
藤原忠平天皇親政をしながら摂関政治を完成させた
藤原実頼完成した摂関政治を使いはじめた
律令政治がいらなくなる。
(律令政治が終わる。)

藤原忠平は朱雀天皇と仲がよく対立したことがなかったと言われます。立場は絶対権力者なのに性格も温厚でオラオラじゃなかったことも効いていたでしょう。

朱雀天皇には有名な肖像画がありません。

(だからこのページのトップ画像もテキトウな和柄。)

菅原道真の怨霊にやられた天皇として『触らぬ神にたたりなし』になっていたのでしょう。

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第60代 醍醐天皇 民間人から天皇になった男
第62代 村上天皇 律令政治の終わり
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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。


天皇の本10選

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