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平氏ってなんだ?どこから来たの?なんで有名な武士になれたの?

武士 画像

ご覧のページは 4 / 7 です。先頭ページはこちら。

スーパースターはポンコツから生まれる

もうひとつ残った平氏は高望流です。こっちは高棟流とちがって、キャラクターの濃い人たちが多く歴史に登場します。

新皇を名乗って反乱した平将門(まさかど)や平清盛(きよもり)もこの系統。また、この流派からいろいろな平氏が派生しました。

元祖・武士と言っていいです。

戦国武将では、北条早雲(ほうじょう そううん)や織田信長(おだ のぶなが)もこの系統。

坂東平氏(ばんどうへいし)や伊勢平氏(いせへいし)は聞いたことがあるでしょう。

これも高望流です。

高望流のスタートは国司のナンバー2

平高望(たかもち)の役職は上総介(かずさ の すけ)です。国司のトップじゃないところに期待されてないことが分かる。

(トップは上総守(かずさ の かみ)。)

いまでいうと千葉県副知事。戦国時代にはあの織田信長が名乗っていた役職でした。

(オレは高望流だぜ~って言いたかったか?)

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

スタートからしてこんな感じなので、高望流は出世してもせいぜい国司や検非違使など中央政府の下っ端役人。

これが『武士の平氏』のベースになります。

征夷大将軍と検非違使(せいいたいしょうぐん・けびいし)

検非違使は、平安時代の最初の天皇・第50代 桓武天皇が軍事の地方分権化で手薄になったので作られた首都警護の役職。

最初は所轄官庁がなく天皇直属の警備隊だった。

第53代 淳和天皇のとき所轄官庁の検非違使庁ができる。今でいう警視庁のようなもの。

また桓武天皇は、軍事力を地方の所轄官庁・国司に丸投げして国軍をもつことを止めた。

そこで、国司軍団をまとめるため征夷大将軍を作った。

征夷大将軍はいざ戦争が起きると任命される臨時職で、常にいるようになるのは、幕府の将軍(征夷大将軍)が国の統治をするようになった鎌倉時代から。

くわしくはこちらで。

上総国は親王任国で長官の守は天皇の子(孫)が代々務める特殊な国。

だから信長も上総守を使わなかった。

第50代 桓武天皇の子どもから任官が始まっているので、平高望はその補佐を任された可能性もある。

『親戚のおじさんを助けるつもりで行ってくれよ。』ということ。

ただ良いこともあった。親王任国は守が赴任せず介が現地のトップだったから。

高望は京都ではうだつが上がらなくても現地では無双。

国司は軍の司令官

桓武平氏の祖先・桓武天皇は、国軍をもたず軍の地方分権を行った天皇です。

軍を全国に散らばった国司にもたせ、手薄になった都には検非違使(けびいし)を置き、国軍の総司令官が必要なときだけ任命する征夷大将軍を作りました。

当時の日本には国軍はなく、必要なときだけ必要な国司が集められる国司連合軍で、征夷大将軍がそれをまとめていた。

戦争が起きる近隣の国司が集められ戦闘に参加した。全国の国司が総動員されたことは一度もない。

桓武平氏が生まれたころ、一番軍事力を持っていたのは国司です。平高望は上総国(かずさ。千葉)の軍事力を動かせたということ。

息子たちの時代になると、東国でとくに関東を中心に一番軍事力をもった勢力に拡大します。

息子たちについて触れられる時、『平安時代初期の武将』や『武士の前身。武士の始まり』と表現されるのは、強い武力をもった国司の子孫から有名な武士が出てきたから。

また、ポンコツ平氏なのになぜ強くなれたかといえば、ポンコツがゆえに派遣された地方で自動的に軍事力が手に入ったことと、当時、軍事担当の貴族は下に見られていたので、見方を変えれば自由に動けたから。

『国司になる = 左遷。二度と中央政府には戻れない』

くらいの感覚だったので、『この地で拠点を作ってトップを張ろう』と思う人が多かった。

国司は、システム的にも、赴任した貴族の気持ち的にも武士になりやすい環境だった。

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