日本では、君主と民の関係は昔から独特でした。欧米のように契約関係もなく、絶対的な主従関係もありません。
それなのに、天皇と民の間には暗黙の信頼関係があります。
普通は結びつかないのに結ばれているところに『君臣の別』という考えがあります。皇位継承問題でも必要な考え方です。
天皇と国民の間の絶対に超えられないライン
天皇と国民(近代より前は民)には、はっきりとした区分があります。
皇族同士の皇位継承の争いや臣下が皇位を奪わないように、長い歴史の中でつくられました。
天皇のいるところが『聖域』、そのほかの人がいるところは『俗(ぞく)』です。
聖域は、天皇、天皇になれる人、皇統につながる人だけがいることができます。いまなら皇室の方々ですね?
聖域には天皇と皇太子だけが許されて、皇后・妃でさえも立ち入れないところもあります。俗にいる人は絶対に入れません。
『一君万民』という言葉もある
もうひとつ、
一君万民(いっくんばんみん)
という言葉もあります。
強大な権力者も、金持ちも、貧乏人も、どこで生まれても、天皇以外のすべての人は平等で身分に差別はないという考え。
吉田松陰(よしだ しょういん)などが提唱していました。
たしか最初に言いはじめたのは江戸時代の国学者だった記憶がありますが、名前を忘れてしまいました。調べて分かったら内容を更新します。
この一君万民も君臣の別の考えからきている平等思想です。
よく、『天皇制は差別の元凶』という人がいますが、それはまちがいだということが分かるでしょう。『天皇の下の平等』ですから。
むしろ、人権を無視された一家が日本の中に唯一存在するという意味で、逆に日本国民が皇室を差別していると言えるかもしれません。
日本に差別はない!
とは言いません。日本には身分制度もあったし、今でも差別がある。
身分制度という点で天皇を見れば『差別の元凶』になるでしょうが、一方で『一君万民』という考えもあるので、いちがいに『元凶』と断定はできない。
日本人が知らない君臣の別という日本人の思想
- 権力者が国民を馬鹿にしている
- 金持ちが貧乏人を馬鹿にしている
- 特定の地域出身の人を馬鹿にしている
- 勉強ができる人ができない人を馬鹿にしている
- どこの学校を出ているか ”だけ” で扱いが変わる
- 上司が部下を馬鹿にしている
- 正社員が非正規社員を馬鹿にしている
- 経営者が被雇用者を馬鹿にしている
世の中が不安定だからなのか、最近こういう人増えてますよね? マウンティングする人。
昔からありましたが、それを正す人もたくさんいました。
自分より劣るものをもった人を必死で探して、ひたすら攻撃する。
こんな人がほんとうに多いです。『攻撃は最大の防御』をくり出す人。『自称・誇り高き日本人』はその典型です。
こういう人は、一君万民とはほど遠い思想の持ち主です。誇り高いと言いながら自分の国の歴史や思想すら知りません。エセ日本人でしょう。
キリスト教・イスラム教でも、こんなことしていいとは言ってないですが。
この矛盾に酔ってゲロ吐きそうです。
血筋だけでは安定的な皇位継承を担保できない
と思わないでください。ちゃんと君臣の別につながりますから。
天皇の皇位継承は血筋も大事ですが、それだけでは安定的な継承はつづきません。
日本国民の中には、先祖をたどれば126代の天皇のだれかにつながる人々が数えきれないほどいます。
第25代 嵯峨天皇が815年につくらせた『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)には、初代 神武天皇から嵯峨天皇までの、どこかの天皇から枝分かれした子孫たちがすでに、335氏もあるとされています。
2019年のいま、どれくらい広がっているか? 日本人のほとんどが神武天皇の子孫かもしれません。
(半分冗談です。)
源氏・平氏もそうです。歴代の幕府の将軍は、徳川を除いて天皇の子孫たちでつづきました。
血筋だけが正統な皇位継承の条件なら、日本人のだれでも天皇になれます。
日本は『天皇の子孫の国』といわれている
日本は皇胤国家(こういんこっか)
(皇胤 = 天皇の血統をもった人)
といわれるくらい、一般国民に天皇の子孫たちがいます。これでは天皇の権威が保てません。だから『君臣の別』があります。
血筋でつながっても、天皇の臣下になった人は皇位継承の対象になりません。奈良時代には、懲罰で皇籍をはなれ臣下になった親王もいます。
(反省したら戻れたみたいですが...)
天皇の子供でも弟でも臣下になれば、平等の中のひとりになります。
最近、『旧宮家』『〇〇天皇の玄孫』の肩書でTVに出る人がいますが、彼も日本国民の一人です。
彼の主張に賛同するのは自由ですが、肩書で賛同するのは大きなまちがい。こういう人が宮様詐欺に引っかかります。君臣の別を知ることは自己防衛にもなります。
そもそも君臣の別を分かっているはずの人が、ここまで肩書に天皇を利用する意味がぼくには理解できませんが...
血筋以外で勝負してほしいものです。
君臣の別と女性宮家、女系天皇は関係ない
今重大な局面を迎えている皇位継承問題で、女性天皇、女系天皇を否定する根拠に君臣の別を持ち出す意見を聞きます。
彼らは、民間人(臣下)の男性が皇族女性の夫になって皇室に入ることは君臣の別を破壊するという。
しかし、この主張はかなりおかしい。民間人の女性が皇室に入ることはOKで、男性はNGという主張と君臣の別は関係ありません。
君臣の別に男女の区別はありません。彼らは男尊女卑の思想を正当化するために日本人が否定できない君臣の別を利用しています。
さっきも言ったように、皇室の中でも天皇になれる人となれない人の間には明確な線が引かれています。内親王の夫が婿入りしたとして、今の皇后や后のように、夫であっても口出しできない聖域があるのを守ればいいだけ。
民間人の女性が入ってできることを男が入ってできない理由はありません。
もちろん、内親王と民間人の夫の間の子についても同じ。
その子が天皇になれるとして、いくら父でも口出しできない領域があるのを守ればいい。
これも今、皇后・妃がやってること。
民間人が皇室に入ること ≠ 君臣の別
この主張のトリックは巧妙です。
『民間人の男性(臣下)が皇室に入ることは君臣の別に反する』が、一見するとまちがいではないから。
彼らの巧妙さは肝心なことを言わないところです。君臣の別の線引きは、
天皇になる人が臣下であってはならない。
彼らはこれを、
男性皇族は臣下であってはならない。
にすり替えています。これがややこしいですね? でもかんたんです。
皇族には天皇になれない人がいる
から。古代から近代に入るまで、皇室に入った臣下はたくさんいました。政治権力に近い家の女性たちが天皇の后として入内しています。
彼らの主張に照らせば、これも君臣の別に反すると言えるでしょう。
しかしいま、これが君臣の別をこわしているという人はいません。それは、皇室に入った臣下の女性が天皇になっていないからです。
君臣の別は時代の常識が影響する
いま上皇后陛下であられる美智子さまが、皇太子の妃として皇室に入られたとき、ものすごいバッシングをされました。
粉屋の娘ごときが!
と言った人もいます。
美智子さまが皇室に入られたのは歴史上はじめてのことでした。
美智子さまは日清製粉という民間会社の創業家の出身です。政治権力とは無関係の、皇室とはいっさい関係のない商人の家。
『粉屋の娘ごとき』には、はじめてのことに対する拒否反応がありました。これは、いまの女性宮家、女系天皇を否定する人たちと同じです。
彼らは『粉屋の娘ごとき』をずっと言いつづけています。美智子上皇后、雅子皇后、紀子皇嗣妃が皇室にいるのが本音では許せないのでしょう。
ただこれを言ってしまうと、因習にとらわれた前近代の人間として軽蔑されるから必死でかくしてますが。
(このあたりを突っ込まれるとムキになる。)
皇室に入った民間人女性は昔からいた。でも彼女たちは身分が低いまま。
皇后になるような人は、皇族か、身分の高い人しかなれなかった。
粉屋の娘が皇后になってたまるか!
って言ってたんですね?
君臣の別 = 因習になってはいけない
民間人の女性が皇后になるのを許してしまったと思う人は、民間人の男性が皇室に入るのを阻止したいんでしょうね? 最後の砦だと思っているのでしょう。
彼らは、歴史にくわしいところがあります。しかし、その背景や関連性を伝えようとしません。
また、歴史・伝統と、時代の変化に対応するためのすり合わせをしようともしません。おそらく考えたこともないのでしょう。
歴史のクイズ王みたいなものです。
歴史のクイズ王の変化を恐れることと、伝統を守ることはちがいます。
伝統は変化することで継承されます。守るものと変えるもののすり合わせを注意深く慎重に行う姿勢が大切です。
当たり前の感覚から見れば、女性宮家・女系天皇は、『天皇になる人が臣下であってはならない』には反しません。
最後にもう一つ、男尊女卑の思想は日本古来の伝統ではないということもつけ加えておきます。
君臣の別エピソード その1 道鏡事件
第48代 称徳天皇が孝謙上皇のときに出会った高僧に弓削道鏡(ゆげの どうきょう)がいます。
道鏡は孝謙上皇の厚い信任を得て、政治的・宗教的に絶大な力をもちはじめました。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
孝謙上皇が称徳天皇としてふたたび天皇になったとき(769年)、事件が起きます。
道鏡の絶大な権力に媚びた人がウソをつきます。
これには、称徳天皇も道鏡も喜んだみたいで、確認のためなのか、和気清麻呂(わけの きよまろ)を宇佐八幡宮に派遣して神託を聞くように命じました。
その神託が、
わが国ははじまってからずっと、君臣の秩序は定まっている。
臣下を君主にしたことは今までに一度もない。
皇位にはかならず皇統の人をたてなさい。
これに激怒した道鏡は、清麻呂の官職を奪います。称徳天皇も激怒し、大隅国(おおすみ。鹿児島)に島流ししました。
反対の意見を言った清麻呂を罪人扱いにしてしまいました。
しかし称徳天皇は、最後まで道鏡を重用しましたが、皇位につけることはしませんでした。
君臣の別エピソード その2 二・二六事件
昭和11年11月26日の二・二六事件には昭和天皇の弟・秩父宮(ちちぶのみや)が関わっていたといわれます。
後年、本人はそれについて発言していないので、事実確認はむずかしいですが、まわりの人の回顧録などの証言があります。
秩父宮は陸軍大学校に進学して陸軍軍人になるのですが、二・二六事件の首謀者と関係、交流がありました。
西田 税 (にしだ みつぎ) | 2.26事件の首謀者として死刑。 陸軍大学校の同期。 |
安藤 輝三 (あんどう てるぞう) | 2.26事件の首謀者として死刑。 陸軍士官。 秩父宮は交流があり、彼らの思想に影響を受けたと いわれる。 |
村中 孝次 (むらなか たかじ) | 2.26事件の首謀者として死刑。 陸軍士官。 秩父宮は、いっしょに北一輝の家に訪問していた。 |
北 一輝 (きた いっき) | 2.26事件の首謀者として死刑。 思想家。 陸軍皇道派の思想的支柱。師匠みたいなもの。 秩父宮はたびたび訪問していた。 |
また昭和7年ごろには、兄の昭和天皇に天皇親政の必要性を説き、憲法を停止するぐらいの意見を上申して、激論になりました。
当時これは大問題になっていて、政府関係者の中枢の間でも意見交換をしたくらいです。
二・二六事件発生の翌日には、昭和天皇に拝謁して怒られました。
昭和天皇は、二・二六事件を起こした人たちの思想を最初から受け入れなかった。
それなのに、弟・秩父宮があまりにも同じような意見を言うので、叱ったということ。
まだまだある。秩父宮のアグレッシブさ
また秩父宮は、二・二六事件が発生する前、昭和天皇を説得するために母親の貞明皇太后(ていめい)に相談したという話があります。
母を説得できれば、そこから息子の昭和天皇も説得できるのではないかと考えたのでしょう。
結果は逆でした。貞明皇太后が言ったことは、
陛下と秩父宮は兄と弟だが、秩父宮は一人の陸軍参謀にすぎない。一陸軍参謀の意見を陛下に上申することは許されない。陛下も聞くはずもない。
という内容でした。
これこそ君臣の別です。
秩父宮は、陸軍軍人であると同時に皇位継承権をもったれっきとした皇族です。
また、昭和天皇とは1才ちがいで大正天皇の第2皇子。昭和天皇に何かあったときは次に天皇になるような人です。
そのような人でも、君と臣下の間には入ってはいけないラインがあるということです。血筋よりも君臣の別のほうが大事だったというエピソードです。
天皇になるような人は、ずっと聖域にいるわけでなく聖域と俗を行き来しています。
(このへんがややこしい。)
もちろん秩父宮も聖域に入れた人です。ただ、このときは『俗』にいたので『聖域の人の意見』をするのが許されませんでした。
(聖域に入れる人でも、俗にいるうちは聖域に踏み込めない。)