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第51代 平城天皇。悪女のささやきで野心を出して失敗。そのまま平城京で隠居。

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歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -

第51代 平城天皇(へいぜい)は、平城太上天皇の変(薬子の変)で有名なのでダラシない、しょうもない天皇と思われがちです。

しかし、ちゃんと仕事もしています。だけにもったいない。

すぐあとに天皇になる弟が『平安時代の基礎を作った』と言われるほど凄すぎたために損してるところもある。

古代・中世 平安時代 - 初期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあん の みや)

  • 生没年
  • 774年8月15日 ~ 824年7月7日
    宝亀5 ~ 天長元
    51才
  • 在位
  • 806年3月17日 ~ 809年4月1日
    延暦25 ~ 大同4
    3年
  • 名前
  • 安殿
    (あて)
  • 別名
  • 日本根子天推国高彦尊
    (やまとねこ あめおしくに たかひこ の みこと)

    奈良帝
    (ならてい)

  • 藤原乙牟漏
    (ふじわら おとむろ)

    藤原良継の娘
    (ふじわら よしつぐ)

  • 皇妃
  • 藤原帯子
    (ふじわら たらしこ)

    藤原百川の娘
    (ふじわら ももかわ)

  • 皇妃
  • 藤原薬子
    (ふじわら くすこ)

    藤原種継の娘
    (ふじわら たねつぐ)

  • その他

平城天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

オレの薬子が~

平城天皇は皇太子のときから父・桓武天皇と仲が悪かったと言われます。その原因は藤原薬子(ふじわら くすこ)。

もともと薬子の娘が皇太子の女宮でした。女宮は朝廷につかえる人で、皇太子の身の回りのお世話係りの人はお妃候補になります。

薬子の娘は皇太子・安殿親王(あて。のちの平城天皇)の妻になったんですが、なぜか薬子は旦那さんがいるのに娘といっしょに女宮になっていました。

安殿親王は母の薬子のほうに惚れてしまって深い関係になり、桓武天皇はブチ切れ薬子を朝廷から追い出します。

そして今度は安殿親王がブチ切れました。皇太子は天皇の言うことを聞かないほどスネたようです。

薬子復活!

そんなトラブルを抱えたまま、父・桓武天皇は皇位をゆずることなく亡くなりました。そして安殿親王が即位します。平城天皇です。

平城天皇は即位すると、このときを待ってたかのようにすぐに薬子を呼び戻し、尚侍(ないしのかみ)にしました。

(尚侍は女宮のトップの役職。長官。)

ここから薬子は兄・藤原仲成(ふじわら なかなり)と二人でやりたい放題になります。まわりが引くくらい。

ちなみに薬子の夫は、薬子が戻ったときに太宰府の長官に移動させられ都から遠ざけられました。いわゆる左遷。

どうみても平城天皇の略奪愛にしか見えません。

(それが薬子の計算にも見える。)

伊予皇子の謀反

薬子と仲成のやりたい放題は度を越していきます。807年、平城天皇の弟・伊予親王(いよ)が謀反を企んでいるとして、川原寺(奈良・明日香村)に母といっしょに幽閉しました。

皇子はそこで毒を飲んで自殺。

しかし皇子は無実でした。それを仕組んだのが薬子と仲成。皇太子の弟でさえ死ぬまで追い詰めるほど二人は調子に乗っていました。

平城天皇退位、そして引っ越し

薬子のやりたい放題を見て見ぬふりをするだけでなく平城天皇のやりたい放題も止まりません。

平城天皇はたった4年で退位して、皇太弟・神野親王(かみの。嵯峨天皇)に皇位をゆずりました。そして、かつての都・平城京へ引っ越します。

皇太弟(こうたいてい)

天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。

皇太子は、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。

薬子と仲成の兄妹も上皇についていきました。というか朝廷で嫌われていたので、居場所がなくていっしょに行くしかなかったのですが。

早期退位のスタンダードを作る

平城天皇は退位したとき34才です。これまでの天皇ではありえませんでした。なんなら、このくらいの年から天皇になるのがふさわしいくらいです。

この早めの退位は平安時代のスタンダードになっていきます。その後、『早めの退位、長い上皇生活』が明治になるまでつづきました。

(かといって全員早期退位したわけではない。『それもありだよね?』になって退位のやり方のひとつになったということ。)

『平安時代 = 上皇がたくさんいた時代』のイメージを作った人と言ってもいいかもしれません。

古代が終わって平安時代になったんだな、というのを感じさせます。

若い上皇はやりきっていないのでエネルギッシュ。

上皇と天皇が戦争するかってところまで対立するのも平安時代以降の特長。

若い上皇の負の部分。

平城太上天皇の変・薬子の変

薬子のやりたい放題はずっと続いたわけではありません。都に居場所がなくなっていた薬子と仲成は焦っていたようです。上皇にもう1回天皇になるように説得しはじめました。

上皇も自分のやってきた改革をひっくり返そうとしていた弟・嵯峨天皇にイライラしていました。

そこで上皇は都の遷都を宣言します。平城京が都だと。直接的ではないですが上皇の自分が正当な実権をもっているという宣言です。

嵯峨天皇はこれを拒否。ここに二つの朝廷ができてしまいました。

このころは上皇につく役人が制度化されていなかったので、朝廷が割れたとは言わないという説もある。

譲位したとき太政官を含め正当な行政組織は嵯峨天皇にあった。

譲位(じょうい)

天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。

第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。

はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。

大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇

持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。

(制度化されてから2/3が譲位)

なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。

それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。

譲位の理由はいろいろ。

次世代が育つ。
そのときの権力者の都合。
自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。
(権力闘争に利用される)
病気。
仏教徒になりたい。
幕府に抗議するため。
天皇の意思。
理由なし。
あたりまえだと思っていた。

平城上皇あっさり降参

上皇の遷都を拒否した嵯峨天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)に兵を与えて守りを固めました。

上皇はビビりました。勝てね~と。

東国へ逃げようとしたところ仲成は逮捕されて射殺。薬子は官位剥奪。そして田村麻呂は大納言に昇進しました。

さすがに上皇もブチ切れて東国から挙兵しようとしましたが、天皇軍の守りの堅さにあきらめて、薬子といっしょに平城京に戻ります。

完全に戦闘力がゼロになってしまった上皇は髪を剃って隠居。薬子は毒を飲んで自殺しました。

藤原仲成は数少ない法律の死刑だったと言われる。そのあと死刑は350年くらい執行されていないとも。

350年後に死刑になったのは、保元の乱源為義(みなもと の ためよし)。為義は頼朝・義経(よりとも・よしつね)兄弟のお祖父さん。

平安時代は日本の歴史で死刑執行がなかったと言われるが、個人的には、左遷、島流しで自殺に追い込む、暗殺が多かったからじゃないか? と思う。

(個人的見解。確証はない。)

天皇経験者が剃髪して隠居するのは平城上皇がはじめて。

自分から出家する人はいたが、ペナルティで出家する最初の例。このころその習慣が出来たのかも。

いまは『薬子の変』じゃないらしい

この騒動、ボクが学校で習ったころは『薬子の変』(くすこのへん)と言っていました。

テストの穴埋め問題に必ず出るくらいに有名な事件です。しかし今は『平城太上天皇の変』(へいぜいだじょうてんのうのへん)と言うらしい。

太上天皇(だいじょうてんのう)

退位した天皇のこと。

上皇(じょうこう)

太上天皇の短縮した言い方。

太上法皇(だいじょうほうおう)

出家した上皇のこと。たんに法皇という。

(いん)

上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。

くわしくは『太上天皇とは何か?』

たしかに歴史で習ったころは、上皇自ら動いてたっていう記憶はないですね? 薬子が中心になっていた印象です。じっさいは上皇が率先して動いていたので変わったのでしょう。

2000年代はじめころに変わったそうです。すでに高校を卒業していたので全く知りませんでした。

『薬子の変』と答える人は、オッサン・オバハンの証拠です。

藤原式家の終焉

光仁桓武・平城天皇の3代は藤原式家がイケイケの時代でした。その中心が藤原良継(ふじわら よしつぐ)と藤原百川(ふじわら ももかわ)の兄弟。

光仁天皇を即位させたのはこの二人だし、桓武天皇、平城天皇のおもな妻は式家から出しています。

しかし、やりすぎ薬子のおかげで式家の信用は一気に下がりました。このあと藤原氏の中心は北家に戻り、その北家が平安時代のイケイケ藤原氏をつくっていきます。

その証拠に、次の嵯峨天皇淳和天皇の皇后は藤原式家から出していません。天皇の嫁としてもふさわしくないと思われていたようです。

(というか藤原氏から出していない。)

そうなると自然に式家の力は下がります。

地方統治の改革

このままだと、平城天皇が薬子にそそのかされたアホにしか見えないので、ちゃんとしたところも。

平城天皇は、父・桓武天皇がすすめた行政改革をさらに進化させます。今まで政権中枢にあった参議を廃止しました。

太政大臣政権トップ。
権力は絶大。
空席のことも多く、死後に贈られる名誉職にも使われた。
左大臣事実上の政権トップ。
総理大臣みたいなもの。
右大臣ナンバー2。
副総理みたいなもの。
大納言将来トップになる政治家がなる。
次期・左右大臣候補。
中納言将来トップになる政治家がなる。
次期・左右大臣候補。
参議政権中枢に入って最初になるもの。
将来トップになる可能性がある。
権力闘争の数合わせで能力がないものがなることも多い。
色付きは令外官
令外官(りょうげのかん)

律令制度の令(行政法)にない官位のこと。特別職。臨時職。

にある(令にない)位』。摂政関白太政大臣内大臣など。

正式な官位じゃないので比較的自由な立場で仕事ができた。また、正式な官位と兼務ができた。

第50代 桓武天皇は軍政改革で、征夷大将軍検非違使を新たに作った。

律令制は法が現実に合わなくなってもそのままにして、新しい法を追加して臨機応変に変えていくので、それにならって令外官も都度追加された。

ただ、正式な官位よりも重要なものも多い。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

参議は初入閣した大臣みたいなもので、偉いけどイマイチ何をしているのか分かりません。

平城天皇は参議の代わりに観察使(かんさつし)を置きました。これも令外官です。観察使は六道の国司・郡司を監視・監督する総務大臣みたいなもの。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

六道

東海道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道

五畿七道(ごきしちどう)

古代から平安時代にかけての日本の首都圏と、幹線道路とその周辺の地方ブロック。

首都圏を畿内(きない)と言い5つに分けた。

道路は7つに分けた。〇〇道は道路周辺の地方も指す。州みたいなもの。

五畿七道 画像
五畿七道
畿内首都圏。
おもに、奈良、滋賀、京都、大阪。
山陽道本州西部の瀬戸内海側。
おもに、兵庫南部、岡山、広島、山口。
山陰道本州西部の日本海側。
おもに、京都北部、兵庫北部、鳥取、島根。
南海道おもに、四国、淡路。
西海道九州全域。
東海道本州東部の太平洋側。
おもに、三重、愛知、静岡、関東圏。
東山道本州東部の山間部と東北全域。
山間部はおもに、滋賀、岐阜、長野、群馬、栃木。
北陸道本州東部の日本海側。
おもに、福井、石川、新潟。

北海道、沖縄は入っていない。当時の日本人に領土意識がないから。奄美を含む南西諸島、小笠原諸島は微妙。

今でも『北海道』にその名残がある。当時は七道に入ってなかったのに。

すでに先代・桓武天皇は、国軍を放棄し国司を軍の司令官にして地方に任せていました。平城天皇は反乱の芽をつぶすために政権中枢に監視役を置いたということ。

このほか、官制の整理、中下役人の待遇改善など行いました。

(公務員改革)。

しかしこの改革は貴族に嫌われたらしい。今も昔も公務員は変わるのが苦手なようです。

長い隠居生活のあと

クーデーターに失敗した平城上皇は、そのまま平城京で10年以上過ごし亡くなりました。

都の平安京から30km以上はなれているので、幽閉されていた、島流しされていたようにも見えます。

ただ本人は平城京が大好きで、そこにいたというだけかもしれません。

『ヘイゼイ』天皇と『ヘイジョウ』京、どちらも『平城』で同じ字ですよね?

平城天皇の諡(おくりな)はここから来ています。

平城上皇は政治の影響力はゼロになってしまいましたが、嵯峨天皇の次、淳和天皇の時代まで生きました。

弟の評価が高すぎて埋もれた?

弟で次の嵯峨天皇は子どものころから優秀で、父・桓武天皇も『天子の器』と言ってかわいがるほどでした。じっさい平安時代の基礎を作ったと言われます。

父に反発する平城天皇、父から最大級の評価を受けた嵯峨天皇。もしかすると平城天皇は、弟がハイスペックすぎるあまり過小評価された人かもしれません。

薬子という悪女に溺れただらしないやつのレッテルが強烈過ぎたかな?

それが原因で父と対立したのが決定的だった。政治能力は申し分なかったのに。

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第50代 桓武天皇。平安時代をスタートさせた改革者。中国が好きすぎて出で立ちが中国風。
第52代 嵯峨天皇。平安の基礎を作ったハイスペックな男。兄・平城上皇と大戦寸前の一触即発。
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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。

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