歴代天皇 - 女帝中心の時代 -
舒明天皇(じょめい)は、朝鮮半島と戦争状態の時代の中、唯一ぜんぶの朝鮮半島の国と友好関係を作った天皇です。
嫁は歴代天皇の史上初3冠を達成した皇極(斉明)天皇。歴史の教科書に出てくる中大兄皇子の父です。
平和外交の温厚な政権で混乱もなく良くも悪くも目立たないため、妻や息子ほど有名ではありません。
古代 飛鳥時代
- 皇居
飛鳥岡本宮
(あすかのおかもとのみや)
- 生没年
- 593年 ~ 641年10月9日
推古天皇元 ~ 舒明天皇13
49才
- 在位
- 629年1月4日 ~ 641年10月9日
舒明天皇元 ~ 舒明天皇13
13年
- 名前
- 田村
(たむら)
- 別名
息長足日広額尊
(おきながたらしひひろぬか の みこと)
- 父
押坂彦人大兄皇子
(おしさか の ひこひと の おおえ の みこ)
- 母
糠手姫皇女
(ぬかでひめ の みこ)第30代 敏達天皇の皇女
(びだつ)
- 皇后
宝皇女
(たから の ひめみこ)第35代 皇極天皇
(こうぎょく)第37代 斉明天皇
(さいめい)
すったもんだの即位
先代の推古天皇には二人の皇子がいました。竹田皇子(たけだ の みこ)と尾張皇子(おわり の みこ)。
竹田皇子は天皇候補の最有力のひとりだったみたいですが、推古天皇が亡くなるときには歴史から消えています。
(すでに亡くなっていたというのが通説)
もうひとりの尾張皇子は聖徳太子の妻の父親という以外なにもありません。おそらく、皇位継承から外れていただろうと言われます。
このように、推古天皇の実の息子には天皇になれるような人がいませんでした。そこで二人の有力な皇子を死の間際に呼びあとを託します。
山背大兄皇子(やましろ の おおえ の みこ)と田村皇子(たむら の みこ。舒明天皇)です。
ひとりに絞らないから皇位継承レースは大混乱
山背大兄皇子は聖徳太子の息子で後継者です。推古天皇の皇太子の息子なので次期天皇にいちばん近い人でした。
大兄(おおえ)
『いちばん上の兄ちゃん。将来のいちばん偉い人』の意味。名前に大兄がつく人は将来の天皇候補ナンバーワンになる。
身近な人のあいだでは『○○のアニキ』といったところ。
『兄』は目上の尊敬する人に使う『様』みたいなもので『大兄』の威力は絶大。
歴史の教科書に出てくる中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)は皇太子で天智天皇になった。
ちなみに、中大兄は名前ではなく『真ん中のアニキ』『2番目のアニキ』のこと。
田村皇子は、推古天皇の夫(敏達天皇)の長男(押坂彦人大兄皇子)の息子で『義理の孫』です。
押坂彦人大兄は名前に大兄がついているように、天皇になるべき人だったが天皇にならなかったナゾの人。
長男なのに。
田村皇子は天皇になるべきだった人の息子で敏達・推古天皇とも距離が近いので、これも次期天皇候補ナンバーワンでした。
聖徳太子は用明天皇の息子です。この二人の継承争いは、
敏達天皇の孫 vs 用明天皇の孫
どちらも推古天皇の兄の孫。(敏達天皇は夫でもある。)
どっちが優位とかありません。
推古天皇は二人にあとを託しましたが、だれが天皇になるかまでは言いませんでした。優劣がつけられないので言えなかったのでしょう。
結局、次の天皇を指名しないで亡くなります。これにまわりの臣下たちはザワつきました。
もちろん、
になってしまいました。カオスです。
最後は大臣の蘇我蝦夷(そが の えみし。馬子の子)が山背大兄を説得して辞退させ田村が即位します。舒明天皇です。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
蘇我馬子は推古天皇より2年早く亡くなっていて蘇我氏は代替わりしていた。
蘇我馬子 -> 蘇我蝦夷
なぜ山背大兄皇子は天皇になれなかったのか?
山背大兄皇子は、あの天才政治家・聖徳太子の息子です。そして『大兄』。
山背大兄は、両親のどちらをたどっても蘇我氏のながれで蘇我馬子は母の父、お祖父ちゃんです。純粋な蘇我系皇子。
(系図がぐちゃぐちゃになるので書いてませんが。)
蘇我氏からすれば孫が天皇になったほうがいいはずなのに、馬子から引き継いだ蝦夷は甥っ子の山背大兄を天皇にしませんでした。
蝦夷は甥っ子の皇子を天皇にしなかったのではなく天皇に『できなかった』のではないかと思います。
山背大兄のバックは絶大
3代前の敏達天皇が亡くなったあと、用明・崇峻・推古とつづくのですが、3人とも馬子の甥っ子・姪っ子です。
さっき天皇にならなかったナゾの皇子といいましたが、押坂彦人大兄皇子は『非蘇我系』。
非蘇我系皇子が天皇になるはずなのにならなくて、蘇我系皇子・皇女が3代つづけて天皇になる。
これが歴史の結果です。蘇我馬子の影響力の大きさが分かります。
この3代の蘇我系天皇の時代に馬子は、気に入らない皇子を攻め殺し(穴穂部皇子)、現役の天皇でさえ暗殺しています(崇峻天皇)。
タイミングが合わなかった不運の山背大兄
その絶大な力をふるった馬子は推古天皇より2年早く亡くなりました。あとをついだばかりの蝦夷に強引なことはできません。
このとき山背大兄を天皇にしたら、蘇我氏以外の臣下はどう思うでしょうか? 『またかよ!』になります。
強引にいけなかった蝦夷がまわりとのバランスを考えても不思議ではありません。
そしてもうひとつ政治の体制がそれを許しませんでした。推古・聖徳太子の時代に、中国の律令政治にならって法律で国を治めるように変えはじめたばかりだったから。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
この体制のなかでは蝦夷も『一臣下』。また蝦夷は一番責任のある立場でもあったので、自分からそのルールを破れません。
だから、本当は天皇になるはずだった押坂彦人大兄皇子の直系、田村皇子が即位したのではないでしょうか。
山背大兄からすると不満爆発。これまでの流れを見てきて『次はオレだ!』と思っていたはず。それなのに祖父さんにはしごを外された。
じっさい山背大兄は、蘇我氏と対立して15年後に殺されてしまう。
このとき一族皆殺しだったので、聖徳太子の子孫は存在しない。
舒明天皇の功績は平和外交
当時のヤマトと朝鮮半島は、『何かあったらすぐ戦争』という状態でした。ヤマトから何度も兵を朝鮮半島に送り出しています。
舒明天皇はこれとは180度ちがう外交を行い、中国の唐、朝鮮の高句麗・新羅・百済のぜんぶと友好関係を結んで交流を盛んにします。
歴史の授業で習う遣唐使は630年(舒明2年)、舒明天皇の時代にはじまりました。
あとの時代はやっぱり朝鮮半島に兵を送ることになるので、つかの間の平和でしたが。
舒明天皇が遣唐使をはじめる
最恐の嫁・宝皇女
舒明天皇の皇后は宝皇女(たから の ひめみこ)です。母が吉備姫王で推古天皇の同母の弟・桜井皇子(さくらい の みこ)の娘。
宝皇女は推古天皇の姪っ子の娘。
父は夫・舒明天皇の兄なので、舒明天皇は姪っ子と結婚したことになります。
この結婚は、本流から傍系、そして本流に戻った敏達系と、傍系から直系になっていた先代の推古系を統合した。
このころ、敏達・推古夫婦の系統が一番強い。
皇統では、先代の天皇の子孫が直系になりその直系が最重要視される。
記憶に新しい元・直系の敏達といえど、現・直系の推古との関係強化が必要だった。
蘇我馬子はかろうじて蘇我系を天皇の嫁に送り込んだ。ただ、今までのように影響力を発揮できてない。
皇后は現・直系の宝皇女(のちの皇極天皇)だから。
(蘇我氏の娘は舒明天皇の側室。)
この嫁は最恐です。舒明天皇が49才で亡くなると、皇太子だった中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)をさしおいて即位します(皇極天皇)。
そして、いったん弟に天皇を譲ったあと、その弟を孤独にさせて退位させ、また天皇に即位します(斉明天皇)。
宝皇女は史上初の譲位をした天皇で、史上初の重祚をした天皇。
譲位(じょうい)
天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。
第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。
はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。
大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇。
持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。
(制度化されてから2/3が譲位)
なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。
それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。
譲位の理由はいろいろ。
次世代が育つ。 |
そのときの権力者の都合。 自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。 (権力闘争に利用される) |
病気。 |
仏教徒になりたい。 |
幕府に抗議するため。 |
天皇の意思。 |
理由なし。 あたりまえだと思っていた。 |
重祚(ちょうそ)
一度退位した天皇が再び天皇になること。二度目のときの名前は新しくつけられる。
男性天皇は1人も重祚していない。女帝だけ。