歴代天皇 - 内外の権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政) -
政治の実権は父の鳥羽上皇にあったため、近衛天皇(このえ)はほぼ表舞台に出ませんでした。政治の中心は藤原氏の内紛がメインになっていきます。
近衛天皇は自分の妻でさえ内紛のネタにされました。
この時代の天皇は存在感のある人が多いのに、15年も在位期間のある近衛天皇はほとんど見えません。
中世 平安時代 - 末期 -
- 皇居
平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1139年5月18日 ~ 1155年7月23日
保延5 ~ 久寿2
17才
- 在位
- 1142年12月7日 ~ 1155年7月23日
永治元 ~ 久寿2
15年
- 名前
- 体仁
(なりひと)
- 父
第74代 鳥羽天皇
(とば)
- 母
藤原得子
(ふじわら とくし)美福門院
(びふくもんいん)藤原長実の娘
(ふじわら ながざね)
- 皇后
藤原多子
(ふじわら たし)藤原公能の娘
(ふじわら きんよし)
- 皇后
藤原呈子
(ふじわら ていし)九条院
(くじょういん)藤原伊通の娘
(ふじわら これみち)
父の都合で生後3か月で後継者に指名される
近衛天皇は鳥羽上皇の第9皇子で、生後3か月で兄・崇徳天皇の皇太弟になります。崇徳天皇とは20才も、親子ほど年がはなれた兄弟でした。
これは鳥羽上皇が崇徳上皇を封じ込めるため、鳥羽上皇が崇徳天皇の後継者をコントロールするためでした。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
皇太弟(こうたいてい)
天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。
皇太子は、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。
父の都合で天皇になる
鳥羽上皇は崇徳天皇のことが大キライでした。この親子の仲の悪さは戦争になるくらい。
(保元の乱)
そんなとき鳥羽上皇が崇徳天皇を無理やり退位させ近衛天皇が3才で即位します。しかし近衛天皇は病を理由にほとんど表に出ませんでした。
政治家として何もしていません。そもそも鳥羽上皇がいるので何もできないですが。
結婚は藤原氏の内紛に巻き込まれる
近衛天皇には12才の正月に、左大臣・藤原頼長(ふじわら よりなが)の養女・多子(たし)が入内して皇后になります。
また3か月後の4月には、頼長の兄で関白の藤原忠通(ふじわらの ただみち)も養女・呈子(ていし)を入内させて中宮にしました。
中宮(ちゅうぐう)
天皇の正室の住んでいるところ。そこから天皇の正室のことを意味する。
皇后も同じ意味だがちがいはあまりない。使われはじめた時代がちがうと考えてよい。
どちらも将来、外祖父として権勢を自分のものにしようと考えてのこと。
忠通と頼長は異母兄弟で年が24才もはなれていましたが、政治では対立していました。3か月の間に皇后が2人になるのはどうみても不自然な結婚です。
近衛天皇は17才のとき眼病で亡くなります。15年の在位のあいだ、鳥羽上皇、藤原兄弟に振り回されるだけで終わってしまいました。
歴史に名を残したとすれば、17才という若さで子どもを残さず亡くなったことでしょう。
これが原因で皇位継承争いが勃発して保元の乱が起きたので。
(かなりムリがある。それぐらい何もしていない。)
藤原兄弟は保元の乱で敵味方に分かれる。
左大臣が近衛天皇を殺した?
早くに亡くなってしまった近衛天皇は左大臣の藤原頼長(ふじわら よりなが)が呪い殺したというウワサがありました。
頼長が推していた崇徳上皇が再び天皇になってしまうと、立場が悪くなってしまう関白・藤原忠通(ただみち)と近衛天皇の母・得子(とくし)に味方する人たちが流したデマだったようですが。