第74代 鳥羽天皇 コンプレックスを院政にぶつけた男

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鳥羽天皇肖像画

歴代天皇 - 内外と権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政の時代) -

ミスター院政 白河上皇の孫の鳥羽天皇(とば)は、白河上皇に対するコンプレックスから、自分の息子を嫌い排除して”天下分け目”の大乱を招いた天皇です。

祖父の白河上皇には複雑な感情を持ちながら、政治的には白河上皇と同じような強烈な院政を行った天皇でもあります。

中世 平安時代 - 末期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあんのみや)
  • 生没年
  • 1103年1月16日 ~ 1156年7月2日
    康和5 ~ 保元元
    54才
  • 在位
  • 1107年7月19日 ~ 1123年1月28日
    嘉承2 ~ 保安4
    17年
  • 名前
  • 宗仁
    (むねひと)
  • 別名
  • 空覚
  • 藤原苡子
    (ふじわら いし)

    藤原実季の娘
    (ふじわら さねすえ)

 最初は院政により白河上皇の陰に隠れていた

生まれてすぐ母親が亡くなったため、祖父の白河上皇に引き取られて育ちました。5才の時に父親も他界したので天皇に即位します。

あまりにも幼少だったため、政治の実権は祖父の白河上皇にありました。さらに白河上皇の院政が強固なものになります。

お祖父さん(白河上皇)の彼女を押し付けられる

15才の時、白河法皇の意向によって、権大納言 藤原公実の娘の璋子(しょうし)を女御として入内させ、翌年中宮になります。

入内(じゅだい)

『内裏(だいり)に入る』から、天皇の妻として認められることをいう。天皇と結婚すること。内裏は天皇の住むところ。


女御(にょうご)

位の高い女官。天皇の側室候補でもあったので、天皇の側室という意味もある。


中宮(ちゅうぐう)

天皇の正室の住んでいるところ。そこから天皇の正室のことを意味する。

皇后も同じ意味だが中宮との違いはあまりない。使われ始めた時代が違うと考えてよいでしょう。

この璋子には、一大スキャンダルがあります。幼いころに白河法皇に預けられ法皇の養女になるのですが、養女のころからすでに法皇とデキていて、鳥羽天皇と結婚後もその関係は続いていたというのです。

本当のところは当事者の2人にしか分からないことですが、もう一人の当事者(被害者?)の鳥羽天皇はそう思っていました。

鳥羽天皇の息子は本当は叔父さん?

この皇后との間に次の崇徳天皇(すとく)が生まれますが、鳥羽天皇はこの息子に冷たく当たります。自分の息子のことを ”叔父子(おじご)” と呼んでいました。

叔父子とは、叔父さんであり子供であるという意味です。つまり、”お前は俺の子じゃないだろう、本当は叔父さんだろう”という意味を込めた皮肉です。

しかも21才の時、白河法皇の強引な意向で、天皇の地位をその叔父子に譲るように迫られます。白河法皇がひ孫(本当は自分の子?)をどうしても天皇にしたかったのでしょうか?
鳥羽天皇はこれに対抗することができず、次の崇徳天皇が即位します。

鳥羽天皇が上皇になっても、異様な三角関係は続いていたと言われています。

こんな環境は頭がおかしくなる

鳥羽上皇の置かれた状況は誰でも精神を壊すような環境です。

  • 爺さんに彼女を押し付けられる
  • 自分の子供は本当は叔父さんの可能性大
  • 結婚生活の間はずっと異様な三角関係が続いている
  • 仕事ではおじいさんに何も言えない
  • おじいさんに無理やり仕事の地位を奪われた
  • 自分がいた地位に就いたのがもっとも憎んでいる人間

家庭でも仕事でも、何もかも自分の意志で何かをするということができませんでした。実際、鳥羽天皇の行動には常識を逸脱した行動が目立ちます。

目の上のたんこぶの白河法皇が1129年に亡くなってからはそれは強烈にエスカレートしていきます。皮肉にもその行動は白河法皇とそっくりです。

皇后を3人も持つ

鳥羽天皇は、白河法皇の目を盗んで自分の意思を表示することもありました。

18才の時、白河法皇が熊野に参詣している間に、摂政関白を務めた藤原忠実(ふじわら ただざね)の娘の泰子(たいし)を女御として入内させます。

これが白河法皇を激怒させ、藤原忠実は関白の職を停止させられます。この泰子は、白河法皇の死後1134年に皇后に昇格させました。

また、白河法皇の彼女である璋子を遠ざけるようになり、権中納言 藤原長実(ふじわら ながざね)の娘の得子(とくし)を女御として入内させ後に皇后に昇格させます。

鳥羽上皇はこの得子を一番寵愛するようになります。これで3人の皇后を持つことになりました。

妻を複数人もつことは当時でも珍しいことではありません。むしろそれが常識でしょう。鳥羽上皇が異常なのは、妻である妃(側室)の地位を皇后にまで昇格させるところにあります。

これは皇位継承を不安定にさせます。皇后を1人に制限するということは、皇位継承の順番をはっきりさせ安定させるからです。
同じ立場の人間が3人もいると争いが起きないほうがおかしいというものです。

このような複雑な環境が後の皇位継承を複雑・不安定にさせ、上皇同士、親子同士の大戦につながっていきます。

仕事でも家庭でも、鳥羽上皇は、コンプレックスという鎖で白河法皇にかなりの部分で縛られています。

白河法皇の死後、急激に政治の表舞台に登場し始める

白河法皇がいたときはほとんど存在感のなかった鳥羽上皇ですが、白河法皇が亡くなったあと急激に存在感を表しはじめます。その存在感、立ち振る舞いは白河法皇にそっくりでした。白河法皇に対するコンプレックスからそうさせたのでしょう。

藤原忠実を呼び戻す

鳥羽上皇の皇后 泰子の父親で、白河法皇から干されていた藤原忠実を呼び戻します。そして、忠実の息子 頼長(よりなが)を重用します。

無理やり天皇を退位させる

鳥羽上皇が一番寵愛した得子が生んだ親王(後の近衛天皇)を天皇にするために、無理やり崇徳天皇に譲位を迫ります。

これで、23才の崇徳天皇は上皇になり、3才の近衛天皇が即位しました。

息子を恨むあまり崇徳上皇を完全に干した

近衛天皇は即位して15年後亡くなります。崇徳上皇は、自分が重祚するか自分の息子が天皇になることを望みます。

重祚(ちょうそ)

一度退位した天皇が再び天皇になること。

二度目のときの名前は新しく付けられる。

男性天皇は1人も重祚していない。

このとき崇徳上皇は37才です。政治家としてはまだまだやれるという思いはあったのでしょう。しかし鳥羽上皇は認めませんでした。

鳥羽上皇の意向で同母で8才年下の弟が天皇に即位します。

ちなみにこの弟に対しては鳥羽上皇は自分の子供だという確信があったようです。
(後白河天皇が生まれたとき白河法皇は75才。この高齢が理由か?)

このとき後白河天皇29才。この時点で崇徳上皇の政治家としての生命は完全に終わりました。

まず、弟は幼くありません。後白河天皇は政治家としての意思を発揮できる成年に達しています。しかもこの後白河天皇は、のちに稀代の大政治家になる人物です。
(後白河という名前にも表れている)

親子でもない、年は8才違いで、弟を思うようにコントロールできるほどの差はありません。まず、自分の将来は終わりました。

そして、弟が即位すると同時に弟の息子が皇太子になりました。白河 - 堀河 - 鳥羽 - 後白河 - ...というラインが出来上がるということです。

これは、崇徳上皇本人だけでなくその息子たちの将来も閉ざされることを意味しました。このようにして鳥羽上皇は、最初から嫌いだった崇徳上皇を完全に排除します。

すでに存在感が増していた武士を巻き込んでの壮大な親子喧嘩

崇徳上皇の不満は爆発し、クーデターの計画を立てます。これに、存在感が増していた武士が崇徳上皇派と鳥羽上皇・後白河天皇派に別れます。

さらに、貴族の摂関家の内紛が加わって、それぞれ崇徳上皇派と鳥羽上皇・後白河天皇派に別れました。上皇・天皇、貴族、武士、当時の政治勢力全てが二分された天下分け目の大げんかに発展することになります。

これが ”保元の乱” です。よく ”天下分け目の関ケ原” と言いますが、これよりも対立の構図は壮大です。保元の乱は本当に天下が二分されています。これが本当の”天下分け目”でしょう。

鳥羽上皇は大乱になるのを予期していた

崇徳上皇がクーデターを計画する前から、鳥羽上皇はそれを予想していたみたいです。平氏、源氏など有力武士で結成された北面の武士に戦に備えるよう命じています。

しかし保元の乱勃発の前夜、大乱のきっかけを作った張本人の鳥羽上皇は亡くなります。最後の最後に大きな遺産を残した天皇でした。

天皇の在位は17年ですが、上皇になってから34年もの長い間院政を敷いた長期政権が終わりました。

本当は崇徳上皇を愛したかった?

ここまで見ると、崇徳上皇をいじめてばっかりのように見えるのでエピソードを1つ。

1143年に疱瘡(ほうそう)が流行り、崇徳上皇も疱瘡を患ってしまいました。そのとき、鳥羽上皇は崇徳上皇の見舞いに行ったという話があります。

疱瘡は天然痘です。科学的には分かっていないでしょうが、伝染することは当時の人でもなんとなく感じていたはずです。

それでも見舞いに行ったというのです。本当は、鳥羽上皇は崇徳上皇を自分の息子と思いたかったのではないでしょうか?
ここに鳥羽上皇の複雑な心境がうかがえます。

 

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