歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -
第54代 仁明天皇(にんみょう)は、18年も天皇だったのに存在感がありません。
しょうがないです。藤原一強になるきっかけ『承和の変』が起きるなど、まわりの権力闘争が目立つので。
父の嵯峨上皇が凄すぎてやることがなく、『何をしたか?』よりも『何が起きたか?』がポイントになる天皇。
古代・中世 平安時代 - 初期 -
- 皇居
平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 810年?月?日 ~ 850年3月21日
弘仁元 ~ 嘉祥3
41才
- 在位
- 833年3月6日 ~ 850年3月21日
天長10 ~ 嘉祥3
18年
- 名前
- 正良
(まさら)
- 別名
深草帝
(ふかくさてい)
- 父
第52代 嵯峨天皇
(さが)
- 母
橘嘉智子
(たちばな の かちこ)檀林皇后
(だんりん)橘清友の娘
(たちばな の きよとも)
- 女御
藤原順子
(ふじわら じゅんし / のぶこ)藤原冬嗣の娘
(ふじわら ふゆつぐ)
- 女御
藤原沢子
(ふじわら たくし)藤原総継の娘
(ふじわら ふさつぐ)
- 妻
その他
嵯峨上皇の威光がつづく
正良親王(まさら。のちの仁明天皇)は、先代・淳和天皇の皇太子でした。淳和天皇の息子ではなく甥っ子。
父は嵯峨上皇で淳和天皇の兄です。淳和天皇は嵯峨上皇に気を使って正良を皇太子にしたとも言われます。
嵯峨上皇は平安時代の基礎を作ったと言われるほどの人で、淳和天皇の時代でも健在でした。
833年、淳和天皇が退位して上皇になり正良親王が即位します。仁明天皇です。
仁明天皇の皇太子は、淳和上皇の息子・恒貞親王(つねさだ)。これを決めたのも嵯峨上皇でした。
仁明天皇にはすでに皇子が生まれていたのに。少なくともふたりは。嵯峨上皇の淳和上皇に対するお返しにも見えます。
嵯峨上皇は気持ちで皇太子を決めたのか?
仁明天皇のふたりの皇子は、のちに天皇になります。
ただ、二人の母は藤原氏。恒貞親王は淳和天皇の子どもで母方では嵯峨天皇の孫。
嵯峨上皇は『自分の孫を』という気持ちもあったでしょうが、恒貞親王の血統の良さで決めたというのが自然でしょう。
弟・淳和上皇の気持ちも救われるし。
仁明天皇には皇后がいない
仁明天皇には皇后がいません。女御は何人もいます。
女御(にょうご)
位の高い朝廷の女官。天皇の側室候補でもあったので、天皇の側室という意味もある。
代表的なのは、藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)の娘・順子(じゅんし)と藤原総継(ふじわら ふさつぐ)の娘・沢子(たくし)。
このふたりは仁明天皇が即位しても皇后になれませんでした。このとき藤原氏は天皇からの信頼が落ちていたからです。
仁明天皇の父・嵯峨天皇は、兄嫁の藤原薬子(ふじわら くすこ)のやりたい放題に苦労しました。
おかげで兄・平城上皇ともう少しで戦争というところまで行ってしまいます。
(結果、兄を平城京で隠居させる。平城太上天皇の変。)
このとき、天皇の妻としての藤原氏の信頼は最悪になりました。じっさい、仁明天皇の前の2代の天皇の皇后は橘氏と皇族。
藤原氏の皇后が出てくるのは第60代 醍醐天皇です。60年も先のこと。
藤原北家の台頭
仁明天皇のお祖父ちゃん、第50代 桓武天皇、その次の第51代 平城天皇の時代は、藤原氏の中でも式家が絶好調のときでした。
皇后・それに次ぐ皇妃(こうひ)も式家出身。それなのに『平城太上天皇の変』で信頼を失いました。
それでも政治家の藤原氏は天皇に信頼されていました。さらに、次の第52代 嵯峨天皇の『平安時代の基礎を作った』と言われる政策のほとんどは、藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)が行いました。
冬嗣は藤原北家の出身で式家ではありません。北家はもともと藤原氏筆頭の家系で、左大臣・右大臣、大納言などを歴任していましたが、式家が絶好調のときは臭い飯を食わされていました。
式家が調子こいて勝手にコケて復活したかたちです。
第50代 桓武天皇 | 藤原式家が皇后 |
第51代 平城天皇 | 藤原式家が皇妃 |
平城太上天皇の変勃発 | |
第52代 嵯峨天皇 | 非藤原氏が皇后 (母は藤原式家) |
第53代 淳和天皇 | 非藤原氏が皇后 (母は藤原式家) |
第54代 仁明天皇 | 皇后・后妃なし。 藤原北家の女御。 |
・ ・ ・ | 皇后・后妃は、なしか皇族の時代がつづく。 藤原北家は女御を出しつづける。 (藤原氏で北家以外は没落。) |
第60代 醍醐天皇 | やっと藤原氏(北家)の皇后が復活。 |
藤原北家の天下。藤原良房の天下。
冬嗣は嵯峨天皇に信頼されてどんどん出世、冬嗣が亡くなると息子の藤原良房(ふじわら よしふさ)があとを継いで出世しました。
この親子は、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばな の かちこ)にも信頼されていたのがかなり大きく、良房のハイスピード出世が止まりません。
仁明天皇のとき藤原氏のトップは良房になっていました。
藤原北家の野望に怯える皇太子たち
仁明天皇の皇太子・恒貞親王(つねさだ)はビビっていました。命の危険すら感じていて指名した嵯峨上皇に皇太子を辞めたいと何度か言っていたほど。
(上皇は拒否。)
皇太子を殺しそうな黒幕は藤原良房(ふじわら よしふさ)。
良房は仁明天皇と自分の妹の間の子、道康親王(みちやす)を天皇にしようと考えてからです。
それでも嵯峨上皇がいるときは問題ありませんでした。嵯峨上皇は藤原氏の嫁に警戒しているし、当時、天皇よりも圧倒的な力をもっていたので。
上皇が死んですぐは露骨でないかい?
840年に淳和上皇、842年に嵯峨上皇が亡くなります。上皇が立てつづけに亡くなると、すぐに皇太子をクビにして藤原良房の甥っ子・道康親王が皇太子になる事件が起きました。
承和の変(しょうわのへん)
嵯峨上皇が亡くなる直前、皇太子の側近たちは皇太子を守るため東国に逃がす作戦をたてました。
しかし仁明天皇・良房にバレたうえ嵯峨上皇が亡くなると、逃亡計画の首謀者、伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(たちばな のはやなり)が逮捕されます。
皇太子は無実で許されましたが、1週間後に良房は兵を率いて皇太子の側近たちを次々に逮捕していきました。
天皇も逮捕者を謀反人に断定し、恒貞親王は皇太子をクビ、新たに道康親王が皇太子になります。
仁明天皇は信頼していた藤原良房の言葉を信じて謀反人にしましたが、全員無実でした。
反逆どころか、いつ殺されるかビビって逃げようとしただけなのに。
『承和の変』関係者のその後
伴健岑と橘逸勢は官位と姓の剥奪、非人まで落とされたうえ島流し。逸勢は移送の途中、病気で亡くなります。
(橘氏は没落。)
非人(ひにん)
身分階層の中で最下層の人たち。
『人に非ず(あらず)』のとおり、人間扱いすらしないということ。
罪人としてペナルティを受けた人、特定の職能の人(死者を扱う人、芸人など)、ホームレスなどがこの階層に当てられた。のちに被差別部落になっていく。
罪人のペナルティーとして非人に落とされたことが文献に出てくるのは、842年の『承和の変』で天皇からもらった姓を剥奪され、非人の姓にされたうえ島流しになった、伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(たちばな の はやなり)が最初と言われる。
恒貞親王は出家して大覚寺の初代・住職になりました。大覚寺は真言宗大覚寺派の大本山で、歴代の住職は、出家した上皇(法皇)、天皇の息子がつとめる由緒ある寺になっていきます。
承和の変では藤原氏でも失脚させられた人がいました。大納言・中納言ですら島流しの刑です。
藤原良房は北家の流れですが、藤原の他家、北家内でも邪魔なやつはおかまいなし。
(藤原北家以外の藤原氏は没落。)
こうして邪魔なやつを消しまくった良房は、第56代 清和天皇の外祖父になり史上初の人臣摂政にまでなって大出世します。
時代はずっと下って、室町時代の南北朝のきっかけにもなった、天皇の分裂した皇統のひとつに大覚寺統がある。
これは、第88代 後嵯峨天皇、第91代 後宇多天皇が法皇になって住職になったのが大覚寺だったところからきている。
何の因果か、皇太子クビの先輩に弟子入り
恒貞親王より少し前に皇太子をクビになった人がいます。平城天皇の皇子で恒貞親王のいとこ、高岳親王(たかおか)。
高岳親王は嵯峨天皇の皇太子でしたが、『平城太上天皇の変』で父・平城上皇の隠居に巻き込まれ皇太子をクビになりました。
そして真言宗の開祖・空海の弟子になりました。真如(しんにょ)と名乗り十大弟子のひとりに数えられるほどの高僧になります。
そこに、皇太子クビの後輩・恒貞親王が弟子入りします。
(だから大覚寺は真言宗。)
直系優先が暗黙のルールに
藤原良房の個人的な気持ちで皇太子を交代させたことが、嵯峨・淳和天皇の兄弟間の、交互の皇位継承を終わらせました。
ここから皇位の継承は直系優先(そのときの天皇の子が優先)が暗黙のルールになります。
藤原氏にとっても都合がいいものでした。自分の子孫で天皇がつづいていくので。
このあと平安時代には、だれでも聞いたことがある太政大臣、摂政、関白の役職が出てきますが、ぜんぶ、藤原北家(藤原良房の流れ)で天皇の嫁を出しつづけるためのもの。
イコール、天皇を直系優先で継承していくためのものです。
史上初の皇族外の太政大臣 | 藤原良房 |
史上初の皇族外の摂政 (人臣摂政) | 藤原良房 |
初代・関白 | 藤原基経 (ふじわら もとつね) 良房の養子で藤原北家の後継者。 2代目・人臣摂政、関白 |
天皇は目立たないけど歴史では貴重
仁明天皇はどんな政治をしたのかよく分かりません。嵯峨上皇が『平安時代の基礎』を作ったので安定していたのでしょう。
(平和すぎてやることがなかった?)
歴史では仁明天皇が『何をしたか』よりも『何が起きたか』がポイントになっています。
平安時代でよく見られる、天皇とそれを支える人たちのスタンダードですが、明治維新のあとも昭和天皇までつづきました。
それが終わったのは、今の上皇后陛下・美智子さまが皇室に入られてからです。
『千年以上もつづく伝統』が始まりました。
仁明天皇の時代は、藤原北家、藤原良房(ふじわら よしふさ)の天下取り物語の最中。