日本の歴史では、時代区分のタイプがいくつかあります。
- 先史、古代、中世、近世、近代、現代
- 飛鳥・奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治・大正・昭和・平成・令和
それから、土器や稲作の始まり、文化などの区分もあります。
これが結局よく分からないことになっているので、誰でもかんたんに分かる対応表・早見表をつくりました。
なんで何種類も区分があるのか?
まず、歴史は資料の積み重ねです。文書の記録があって初めて歴史になります。だから、日本の歴史は飛鳥・奈良時代から始まります。
たしかに、飛鳥時代の前にいくつかありますね?
- 旧石器時代
- 縄文時代
- 弥生時代
- 古墳時代
でも、飛鳥時代より前は歴史というより考古学です。歴史では資料がないので考古学から時代をもってきました。
第33代 推古天皇・聖徳太子の時代は、たくさんの歴史書や天皇の系譜の書物があったと言われる。
- 天皇記
- 国記
- etc...
しかしこれらは、乙巳の変で蘇我蝦夷が自決したとき焼失した、バラバラになってどこに行ったのか分からないなど、いまは残っていない。
第40代 天武天皇の時代には『帝紀』『旧辞』があったが現存していない。
(日本書紀・古事記の基本資料になったと言われる。)
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
当時の日本は文字で記録することがなかったりして、歴史をつくれませんでした。その足りない部分を考古学で補いました。
歴史の時代は、政治の中心地が時代の名前になっていますが、その前は石器・土器・遺跡が名前になっています。
どれも考古学で発掘されるものばかりですね? これからも性格がちょっとちがうことが分かります。
古代・中世…という区分は、もともとヨーロッパの歴史の区分です。
- 先史
- 古代
- 中世
- 近世
- 近代
- (現代)
日本がヨーロッパと深い交流をはじめた明治に、ヨーロッパの歴史とリンクさせるため、日本の歴史に導入しました。
でもこのリンクは無理やりやった感があるので、区分の境はマジメに考えるとワケが分からなくなります。
だから、学校で習う日本史では、そこまでていねいに教えないはずです。
時代区分の境は適当に見るのが1番良い
時代区分の境はマジメに見ないほうがいい。
これは、時代区分全体にあてはまります。
歴史は前の出来事のつながりでできているので、境をつくることは良くないと言う声も聞きます。だから、境は研究者のあいだでもいろいろ。
歴史の最初から現在までぶっ通しで見るのはきついので、そのあいだの休憩ポイントだと思えばいいです。
疲れるところは人それぞれなので、休む場所も同じでなくて良いです。歴史の流れで自分が覚えやすいポイントを見つけるのも歴史の楽しみの1つです。
時代区分対応表・早見表
時代区分の対応表です。個人的に思う部分はあとでコメントします。
歴史学 | 考古学 | 欧とのリンク | 年代 |
---|---|---|---|
旧石器 | 先史 | BC28,000年頃〜 | |
縄文 | BC13,000年頃〜 | ||
弥生 | BC300年頃〜 | ||
古墳 | 250年頃〜 | ||
古代 | |||
飛鳥 | 592〜 | ||
奈良 | 710〜 | ||
平安 | 794〜 | ||
中世 | |||
鎌倉 | 1,192〜 | ||
室町 | 1,336〜 | ||
(戦国) | 1,467〜 | ||
安土桃山 | 近世 | 1,568〜 | |
江戸 | 1,603〜 | ||
明治 | 近代 | 1,868〜 | |
大正 | 1,912〜 | ||
昭和 | 1,926〜 | ||
現代 | |||
平成 | 1,989〜 | ||
令和 | 2,019〜 |
区分を作ると何か一気に変わったふうに思いますが、境はグラデーションです。
前の時代の特長がフェードアウトしながら、新しい時代の特長がフェードインしてきます。
たとえば、飛鳥時代に新しい古墳が作られているし、北海道・東北では900年代、平安時代になっても作られたとも言われます。
スマホの時代になっても、ガラケーが『はい、終わり』とスパンと消えないのと同じ。
古代のはじまりは専門家でも意見が分かれます。『飛鳥時代から』が一番多いのかな?
推古天皇から天皇の生没年が分かっているからなのか? 推古天皇の時代は、聖徳太子が摂政を務めたことでも有名です。
先史(せんし)は、文字の記録がない時代のこと。日本では、古墳時代の木簡が発見されてそこに文字の記録があります。
また古墳時代の後半には、いまは残っていませんが歴史書などの書物があったことが分かっています。
このことから、ここでは古墳時代の途中から古代のはじまりにしました。
中世のはじまりは、鎌倉時代からというのが一般的です。
もともとの中世の特長に封建制度があるからでしょう。日本の封建制度のはじまりは鎌倉時代からと言われます。
でも、ほんとうに鎌倉からでしょうか?
平家政権と鎌倉幕府のちがいはリーダーの役職くらいです。平家政権は、封建制度としても問題ないと思います。
武士同士の主従関係の濃淡はちがうが。鎌倉のほうが結びつきが強い。
それは源頼朝(みなもと の よりとも)が主の裏切りを許さず、処刑で対処したことが大きい。
また、平安時代の中期にはすでに中央集権的なものは崩れて、荘園公領制もはじまっていました。この時点で封建制度が出ていたともとれます。
このことから、ここでは平安時代の途中を中世のはじまりにしています。
(平安時代の途中から、奈良時代と同じにするにはあまりに政治システム・文化・生活様式がちがうというのもある。)
中央集権国家(ちゅうおうしゅうけんこっか)
権力が、都など中心になる場所に集まった国家。
日本は東京に権力が集中しているのでこれに当てはまる。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
荘園(しょうえん)
743年に私有地を持てる法律ができたことから始まる、上皇・貴族・寺社勢力・豪族の私有地のこと。
農園と言われるが鉄の生産など工業も行われた。
室町時代くらいから武士などの地方の有力者に奪われ失われていく。
豊臣秀吉の太閤検地などの土地制度改革で、私有地はいったん国に返すことになったので消滅する。
封建制度(ほうけんせいど)
君主が、諸侯(実力者)に土地の所有権を渡して、諸侯が民を統治する政治システム。
君主⬅➡諸侯⬅➡民の間に主従関係があるのが特長。
もともと中世ヨーロッパのシステムのことを言い、平安以降の日本のシステムにも当てはめた。
荘園制度や武士の主従関係など。
もともとヨーロッパのシステムなので、日本の封建制度ははっきりしないことも多い。
(日本の当時の実情に合わないことが出てくる。)
封建制度の特長は、トップリーダーの直接支配ではなくリーダーに領地支配を任された人が統治する間接支配です。
中央集権(直接支配)がくずれて、荘園をもつ貴族・寺社勢力が力をもちはじめるので、封建制度に見えなくもない。
武士の時代は、完全に武士に任せるので封建制度といえます。
封建制度という言葉はヨーロッパの歴史からもってきたので、日本の封建制度といわれるとはっきりしません。
日本とヨーロッパの歴史は同じじゃないので。
ヨーロッパと日本の時代区分の対応
おそらく、このハッキリしていないところが歴史嫌いの原因かもしれません。
本当は、ヨーロッパと日本の歴史を対応づけることはできません。それぞれ歴史の歩み方がちがうから。
でも明治の日本人は、その中から共通点を探し出して対応づけました。
その共通点と対応づけをかんたんにまとめました。これを見てそれぞれ自分なりの時代の境を探すのも面白いです。
ヨーロッパ | 日本 | |
---|---|---|
先史 | 文字の記録がない。 ヨーロッパ独自の文明は出ていない。 | 古墳時代の途中まで。 文字の記録がないので考古学に頼る。 |
古代 | ギリシャの都市国家。 ローマ帝国。 ヨーロッパ独自の政治システム・生活 様式・文化文明が作られた。 | 平安時代の途中まで。 国家・日本が制定される。 日本独自の文化(国風文化)が生まれ る。 |
中世 | ローマ帝国の西半分(西ローマ帝国) の滅亡から、ゲルマン人の侵攻による 暗黒時代。 東ローマ帝国滅亡。 そして、国王が国を統治する制度(絶 対王政)が確立するまで。 | 律令制の中央集権体制がくずれた平安 時代の途中から、豊臣秀吉が天下を統 一するまで。 天皇から政治権力を委ねられた貴族・ 武士の時代。 幕府の将軍は、外国向けには国王を名 乗る。 |
近世 | ルネサンス(古典復興)が起きてから 、産業革命の前まで。 | 安土桃山時代から明治維新が起きる前 まで。 |
近代 | 産業革命から、第一次対戦が終わるま で。 今は、1989年のソ連崩壊による共産 勢力の衰退までが主流になってきてい る。 | 明治維新から大東亜戦争の敗戦(1945 年)まで。 |
現代 | 第一次大戦後、または東西冷戦終結後 。 | 『戦後』と言われる今。 |
中世の終わりまではうまいこと対応づけている。でも、近世からあとはムリヤリ感が。日本にはルネサンスにあたる変動はない。
後醍醐天皇の『建武の親政』をあてはめる人もいるが、あれは政治の一瞬の出来事で、文化・芸術はあまり関係ない。
(『昔の良かったころに戻そう』という意思は共通しているが。)
近代・現代になるとまったくちがう。日本では、第一次大戦はそこまで強い印象はなく、東西冷戦の終結もそう。
日本では、大東亜戦争の敗戦が1番インパクトがある。
大東亜戦争は太平洋戦争のこと。
当時の日本に太平洋で戦争している自覚はなく、アジアの東で戦争しているつもりだったので、大東亜のほうが日本人の感覚ではしっくりくる。
太平洋戦争はアメリカやオーストラリアなど欧米人の視点。
いまは、日本の歴史で『古代、中世…』は積極的に使わないらしい。『元々ちがうからムリヤリ対応する必要はないのでは?』になっているのでしょう。
学校の日本史の教科書でもそこまで強調しないはずです。
(僕自身、先生からくわしく説明された記憶はない。)
『古代、中世…』という区分を使うときは、ヨーロッパの歴史のことを言っているのが一般的です。
2022年から高校の『世界史』『日本史』がなくなり、『歴史総合』という、二つを合わせた教科に変わります。
- 歴史を学んだのに、世界の人々と語れない。(日本の歴史を世界の人々に語れない。)
- 世界が日本に与えた歴史の影響、日本が世界に与えた歴史の影響が分からない。
など、歴史をあれだけ長い時間かけて教えるのに、社会に出てまったく役に立たない知識になっているから。
それを直そうというのは良いことですが、『古代・中世…』の対応づけを中心にしないか心配です。
そうなると、ヨーロッパと日本の歴史は『似て非なるもの』なので、わけが分からなくなって歴史嫌いが増えるもしれません。
『中世の日本』は『ヨーロッパが中世のころの日本は』の意味で使うこともあります。
そのときは『日本の中世』は気にしないほうがいいです。
『ヨーロッパが中世のころは日本は〇〇だった』ぐらいで十分。
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