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藤原氏ってなんだ? どうして日本の政治の中心にいつづけたのか?

藤原氏

ご覧のページは 4 / 10 です。先頭ページはこちら。

藤原四兄弟。藤原氏の流派が生まれる

藤原不比等が亡くなると息子たちの時代が始まります。息子たちにはそれぞれ、藤原〇〇家という流派が初めてできました。

藤原武智麻呂
(むちまろ)
藤原南家の祖
藤原房前
(ふささき)
藤原北家の祖
藤原宇合
(うまかい)
藤原式家の祖
藤原麻呂
(まろ)
藤原京家の祖。
藤原不比等の息子(藤原四兄弟)

第45代 聖武天皇の時代なんですが、聖武天皇は藤原不比等の孫なので、皇親政治の王たちよりも叔父さんの藤原四兄弟を頼ります。

(聖武天皇は母と正妻(皇后)が不比等の娘。藤原氏に囲まれた最初の天皇。)

聖武天皇の政権はトップの入れ替わりが激しいです。長屋王(ながやおう)や橘諸兄(たちばな もろえ)などがいました。

このころは皇親政治の足りないところを誰が補うか試行錯誤の時代。その中に藤原四兄弟はいました。

孝謙天皇政権メンバー
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工 ※ 青印は政権メンバー(有名な人だけ)

藤原氏長者(南家)の没落

世代交代で藤原四兄弟の息子の代に移ったころ、聖武天皇の娘・第46代 孝謙天皇が即位しました。

このときの藤原氏の長者は四兄弟の長男の南家。当主は藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)。

仲麻呂は藤原氏からの独立を許されて、第47代 淳仁天皇から恵美押勝(えみ の おしかつ)という名前をもらいます。当時不在だった太政大臣と同レベルの太師(たいし)にもなりました。

太師という役職は歴史上、押勝しかなっていない。

ただ南家の絶頂期はここまでで、孝謙上皇は弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)を頼るようになり、淳仁天皇から政治権力を取り上げました。

それに怒った押勝は挙兵の準備をしているのがバレて処刑されてしまいます。

藤原仲麻呂の乱恵美押勝の乱))

ここで押勝の出身・南家は藤原長者の地位を失いました。結果を言うと、南家は二度と藤原氏のトップになることがなく、政治の中心に戻ってません。

藤原北家の脱落

藤原南家が没落すると、藤原四兄弟の次男・藤原房前(ふじわら ふささき)の子孫、北家が長者になりますが、第49代 光仁天皇が亡くなってすぐにクーデター未遂事件が起き、左大臣が左遷されて脱落しました。

この裏には、式家の陰謀があったようにも思える。

藤原式家の隆盛と没落

藤原北家を追い落としたと思われる、藤原式家の藤原良継(ふじわら よしつぐ)・百川(ももかわ)兄弟は、第50代 桓武天皇に娘を嫁がせ、皇后と皇妃にします。式家の絶頂期。

ただ式家は失敗します。

次の第51代 平城天皇にも二人の娘を嫁がせて皇后と皇妃で固めるんですが、皇妃の薬子(くすこ)が退位した平城上皇にもう一度即位するようにそそのかして失敗し、上皇が隠居するはめになりました。

薬子はもともと義父の桓武天皇を激怒させるほどの人でトラブルメーカー。

薬子の一件で、藤原式家だけでなく藤原氏全体が、天皇の嫁の実家として信頼されなくなります。第60代 醍醐天皇が藤原氏の皇后を迎えるまで60年間、藤原氏出身の皇后がいません。

その間に摂関政治が始まり、藤原氏の娘が産んだ皇子が天皇になっているのに。

歴史の結果を言うと、式家は二度と藤原氏の中心になれませんでした。

第52代 嵯峨天皇
第53代 淳和天皇
第54代 仁明天皇
第55代 文徳天皇
第56代 清和天皇
第57代 陽成天皇
第58代 光孝天皇
第59代 宇多天皇
藤原氏出身の皇后じゃない天皇
嵯峨天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工
次は 藤原北家を復活させた藤原冬嗣
前は 律令国家建設の中心人物・藤原不比等
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