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『大臣』の付く人は最大で同時にいるのはたった4人だけ
右大臣は左大臣より位階がひとつ下なんですが、左大臣との力関係はそこまでなく、どちらかといえばパートナーに近いです。
律令制では大事なところは左と右を使って2つに分けるものがあって、大臣(だいじん)も分かれました。
左大臣と右大臣は特別です。だから『大臣』が付いている。
大臣は実在が怪しいとされる天皇の時代、古墳時代のころから使われた氏姓制度(しせいせいど)の姓、臣(おみ)の中で、さらにトップの人に与えられた大臣(おおおみ)が由来です。
(さらに元をたどれば中国。)
律令政治導入以前の日本では、官職の代わりに天皇が与える姓によって仕事が決まっていた。
その中で臣はトップの姓。そして大臣は天皇の一番側にいる氏族に与えられたもの。
聖徳太子の時代の、あの有名な蘇我馬子(そが の うまこ)や入鹿(いるか)も大臣だった。その前は葛城氏(かずらき)や平群氏(へぐり)など。
『天皇の一番の臣下』という意味がある。
だから大臣(だいじん)も律令制のトップの官職になった。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
今の議院内閣制の内閣の閣僚の大臣はここから来ている。
もしいたら、左大臣を超える天上人の太政大臣
そんな希少な『大臣』には左大臣を超えるものがひとつだけありました。太政大臣(だじょうだいじん)です。
太政大臣は最初、あとあと天皇になるくらいの皇子が務めたので、平安時代に藤原氏がなるようになっても特別なものでした。
本来、あとから追加された官職のことを令外官というんですが、ほかとはあまりに次元がちがうので、大宝律令以前からあった太政大臣は令外官でした。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
あまりにすごすぎて、制度の中に入れるのをためらったのでしょう。
平安時代に摂関政治が始まると、関白に就任した人が自動的に太政大臣になる慣例ができました。
太政大臣は政治を行うより方向性だけを示し、そのあとは見守る政治顧問みたいなもので、じっさいに行ったのが左大臣・右大臣です。
あっ、忘れるところだった。もうひとつ大臣がつくものがあります。内大臣(ないだいじん)です。
天皇に一番近い男。内臣と内大臣。
忘れそうになった内大臣(ないだいじん)は、内臣(うちつおみ)から来ています。
最初に内臣になったのは、乙巳の変で中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)と一緒に蘇我入鹿(そが の いるか)を暗殺した中臣鎌足(なかとみ の かまたり)。
内は天皇の身内、一番近い人という意味で、内臣は天皇に一番近い臣下という意味。
内臣は鎌足のためだけに用意された官職とも言えるものでした。
それが一度は大宝律令で廃止されすぐに復活し、日本の律令制が完成した奈良時代に内大臣へと変わり、平安中期に令外官として定着しました。
(臣を上回る大臣(おおおみ)の名残がある。内臣に箔を付けたっぽい。)
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
鎌足は亡くなったときに大臣になったという話から内大臣になっていた説もある。
『大臣』がつく官職はすべて定員1名
太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣はそれぞれ定員1名で、複数人いることは許されません。
これでも大臣の重みを感じます。
左大臣と右大臣に分かれてるのは少しでも人数を増やしたいがためでしょう。
この左右に分けるアイディアは日本ではなく本家の中国の律令制度にあったものです。
日本は養老律令でかなり本家からはなれたオリジナリティのある律令になっていましたが、根本的には丸コピそのまんまのところがあります。
とくに、官職名や役所名など固有名詞のところは。
- P1 太政官は今の内閣府
- P2 『大臣』の付く人は最大で同時にいるのはたった4人だけ
- P3 大納言は国家運営の肝?
- P4 大納言のリストラの代わりに追加された中納言
- P5 公卿までもう一歩。でも公卿の会議に参加できる参議