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左弁・右弁・少納言(三局), 太政官の実働部隊の最強トリオ。

大極殿

太政官は律令制度の官僚組織の中心で、今でいう内閣府なんですが、その中にさらに中枢の中枢がありました。

左弁官・右弁官・少納言。それらには『局』が付けられ部局として存在していたので三局(さんきょく)といいます。

サッカーの4・3・3システムのMFだと思えばいい。サッカーに興味ない人にはチンプンカンプンですが。

公卿の直属で国家運営の中枢を担う

律令制の政権運営の中心は太政官(だいじょうかん)です。今でいうと内閣府のようなもの。

太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣(令外官)
左大臣
右大臣
内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

そして、そこのトップ集団の貴族が公卿(くぎょう)と呼ばれます。位階三位以上の高級貴族。そこに四位参議を加えたものが政権メンバー。

今でいうと内閣みたいなもの。

太政官
公卿正一位
従一位
太政大臣
公卿正二位
従二位
左大臣
右大臣
内大臣
公卿正三位大納言
公卿従三位中納言
正四位上
正四位下
参議
従四位上参議


・左大弁
・右大弁
従四位下参議
正五位上
・左中弁
・右中弁
正五位下
・左少弁
・右少弁
従五位上
従五位下少納言
正六位上
・左大史
・右大史
正六位下
従六位上
従六位下
正七位上
・左少史
・右少史

外記
・大外記
正七位下
従七位上外記
・少外記
太政官の官位。
色付きは令外官。

そのすぐ下にいたのが弁官少納言です。弁官は左右に分かれ、それぞれ官職には上から大弁中弁少弁がありました。

左弁官・右弁官・少納言は局が付き、部局になっていたので三局(さんきょく)といいます。

三局は公卿と参議が会議で決めたことをじっさいに実行する実働部隊。

律令制下では一番の要になっていました。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

三局位階官職
左弁官局従四位上
正五位上
正五位下
左大弁
左中弁
左少弁
右弁官局従四位上
正五位上
正五位下
右大弁
右中弁
右少弁
少納言局従五位下少納言
三局の位階と官職

『太政官の中の太政官』の弁官

読みどんな仕事?

左大弁
右大弁
左中弁
右中弁
左少弁
右少弁
べん
さだいべん
うだいべん
さちゅうべん
うちゅうべん
さしょうべん
うしょうべん
役人の給与の管理。
8つの省を管理監督する太政官の中
枢機関でもある。

左右に分かれ、それぞれ大・中・少
のランクがあった。

左大史
右大史
左少史
右少史

さだいし
うだいし
さしょうし
うしょうし
公文書の作成。
弁に代わって太政官の実務を担当。

左右に分かれ、それぞれ大・少のラ
ンクがあった。

三局の中でも弁官は特別です。律令制の官職では、大事なところで規模が必要なところは2つに分け左右が付きます。

弁官も左弁官と右弁官に分かれ、仕事は分担しそれぞれ1部局になっていました。

(だから三局のうち2つが弁官。)

弁官は、省や寮など規模が大きく重要なところも含む、その他の役所を管理監督する総監督みたいな部署です。

だから官職の数も多く、大弁・中弁・少弁があり、それが左右に分かれ左大弁・右大弁、左中弁・右中弁、左少弁・右少弁がありました。

一般的に左大臣・右大臣のように、左のほうが少し立場が上になるんですが、弁官では同等です。

公卿への登竜門。弁官なくして出世なし!

弁官が重要とされた一番の理由は、公卿になるためには通らなければならない官職だったから。

少弁・中弁・大弁とステップを踏んでいき、参議になって公卿になるというのがサクセスストーリーです。

太政官
従四位上参議


・左大弁
・右大弁
従四位下参議
正五位上
・左中弁
・右中弁
正五位下
・左少弁
・右少弁
従五位上
従五位下
正六位上
・左大史
・右大史
正六位下
従六位上
従六位下
正七位上
・左少史
・右少史
弁官の官位。
色付きは令外官。

そのためか大弁の位階は高く、殿上人になれる従四位上でした。

四位五位は公卿に次ぐ高官。高級貴族の部類に入ります。大弁に加え中弁もそこに入るので、弁官になるイコール高級貴族の仲間入りでした。

そして参議の中で大弁を兼任する人もいました。

当時の貴族からすれば、中弁になったあたりから上の世界が夢でなくなったと思ったでしょう。

ちなみに(し)は弁官の下に置かれた部署の官職。字の通り書記官のこと。位階から見ても上流貴族ではありません。

太政官から独立していたともいわれる弁官

なお、弁官(左弁官・右弁官)は人事や財政に関して、太政官とは別に貴族の給与計算などを行い管理していたので、太政官から独立していたともいわれます。

現代は三権分立がありますが、それに近い役割があったのでしょう。

でも弁官は、公卿への出世の登竜門でもあったので、完全独立というよりはもちつもたれつの関係。

これも三権分立と似ていますね?

三権分立では司法の長は行政の長(総理大臣)が指名し、行政の長は立法(国会)が指名する。

司法の長は何も指名しないが、法律や憲法の正当性を判断する。

立法(国会)の長を選ぶのは国民(の選挙)。

お金を管理するところは力が集中します。今の財務省もそうだし、会社でもお金の使い道が決められる人には頭が上がりません。

そういう部署の人って、同じ会社の仲間とは思えないほどちがうものに見えますよね?

それが弁官でした。

弁官の正確な官職名は『弁』で、左右に分かれて『左弁』『右弁』です。

でも『弁官』『左弁官』『右弁官』と呼ぶのが一般的。

PCのキーボードで『さべん』『うべん』では変換候補すら出てこない。それだけ使われません。

個人的な意見ですがこの『官』に太政官からの独立性が含まれていると思う。

律令制の役所の中で『官』にあたるのは太政官と神祇官(じんぎかん)の2つだけ。

官グループは役所の中でのダントツのトップグループ。

それに匹敵する部局だったと言いたいのだと思う。

少納言は存在感が消えていく

読みどんな仕事?
少納言しょうなごん後述するのでここでは省略。
外記
大外記
少外記
げき
だいげき
しょうげき
書記官。
太政官の日常業務の記録係。
太政官に上がってくる文書の校閲。

少納言の部下。
少納言の命令で太政官の実務も担当
した。

もうひとつの三局、少納言も弁官くらいの何かあるんじゃないか? と思いがちですが、仕事は単純です。

太政官が発布したことを示す印鑑の外印(げいん。太政官印。)や御璽(ぎょじ。天皇の印鑑)、鈴、公文書を管理するところでした。

(鈴は何かを知らせるのに使った。今のチャイム・館内放送みたいなもの。)

御璽
御璽 by Wikipedia
太政官印
太政官印 by Wikipedia

押印に不正がないか公文書に不正・間違いがないかを監督していたので、仕事はかんたんですが重要なものでした。

でもそこは地味な仕事。三局の一角といえど弁官ほど存在感はありません。

当時の貴族のあいだでも、大事なところだけど無能でもできるぜ? と言われていたのかもしれない。

出版社の校閲(こうえつ)に近いのかな? 地味でいらなそうだけど出版物には欠かせないもの。

大事な仕事は蔵人所へ移管

蔵人所(くろうどどころ)は第52代 嵯峨天皇が設置した天皇直属の特殊機関です。

嵯峨天皇は兄の第51代 平城天皇(このとき上皇)と、もうすぐ開戦というところまできていて、上皇側に情報が漏れるのを阻止するために作りました。

フェイクニュースもあったでしょう。今のニュースを見ても分かる。

怪文書や偽公文書も飛び交っていたはずです。

そこで印鑑、とくに御璽と外印の管理監督や公文書の内容精査などは蔵人所がするようになります。

それが定着して少納言は印と鈴を管理するだけになりました。

蔵人所に仕事を取られ窓際族に

少納言局は仕事がなくなったので、もともと少納言の下部組織だった正七位上従七位上外記(げき)という、太政官の幹部で一番下の人が、たった4人で回すようになります。

(もちろん、その下に職員はいる。)

完全な事業再編、規模縮小。

少納言局のことを外記局(げききょく)と呼ぶようになるほど。それってもう、少納言局の解体じゃないか?

これ、資料室にこもる窓際族だよね?

しょうがないです。蔵人所は位階のランクが三局よりもだいぶ上だから。

社長直属の部署って、何やってるか分かんないんだけど強いんだよな~。

見えないだけに他部署からは陰口を言われたりする。

清少納言は少納言とは関係ない

少納言と聞いてまず最初に思い浮かべるのは、平安時代の女流作家・清少納言(せいしょうなごん)でしょう。

この時代の女性の名前は『父の名前 + 父の役職』がスタンダードの一つでした。

(当時の女性は夫以外に自分の名を明かさなかった。)

清少納言も『父の原元輔(きよはら の もとすけ)が少納言だったから』と行きたいところですがそうでもない。

父は国司です。人生の後半生は別々の国の国司を歴任していて少納言とは全く関係ありません。

というか、太政官の官職にすらついたこともない。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

中宮定子(ていし。藤原定子)に見出されて、宮中の女性の中では大出世したほうなので、上司なのか中宮なのか分からないけれど、『少納言』の称号を与えたのでしょう。

それだけ国司名を名乗るのが恥ずかしかったのかな? 中央政府の中では。

中宮(ちゅうぐう)

天皇の正室の住んでいるところ。そこから天皇の正室のことを意味する。

皇后も同じ意味だがちがいはあまりない。使われはじめた時代がちがうと考えてよい。

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