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女性の成り上がりの物語
県犬養三千代は宮中に出仕する同じタイミングで皇族と結婚します。相手は第30代 敏達天皇の子孫・美努王(みの の おう)。
葛城王(かずらき)と佐為王(さい)の二人の皇子も生まれました。
これで幸せになりました。チャンチャン。...にはなりません。専業主婦になったかとおもいきや仕事はつづけます。
不思議に思うかもしれませんが、当時の女性はキャリアウーマンです。女帝が多いのでも分かる。
女性が子どもを産んで家を守るのが仕事みたいになるのは、平安時代以降。
皇太子の乳母じゃないか?という話も
三千代は子どもを産んで間もなく大事な仕事を任されました。第40代 天武天皇の皇太子・草壁皇子(くさかべ の みこ)に皇子が誕生したのでそのお守役です。
(軽皇子(かる の みこ。のちの文武天皇))。
草壁は天皇にならずに亡くなってしまい、ますます『軽皇子を天皇に!』という期待が膨らみました。将来の天皇の乳母です。
責任重大。
このあたりから三千代の発言力、宮中での影響力が大きくなったと言われます。
夫を捨てて藤原不比等の妻へ
694年、夫の美努王は太宰府(福岡)へ転勤しました。いつなのかは分かっていませんが、三千代は離婚して再婚します。
相手は藤原不比等(ふじわら ふひと)。当時のスーパー官僚です。
この人がいなかったら日本に律令政治はできなかったと言っても過言ではないほど。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
不比等は藤原氏の祖とも言われる大物。三千代は不比等の間に安宿媛(あすかべ ひめ)と多比能(たびの)の二人の娘を産みました。自分が乳母として育てた皇子が即位した第42代 文武天皇の時代です。
さすがに大忙しの夫・不比等を支えるため、仕事をやめるかと思いきやそうはしません。そこはキャリアウーマン。
というか当時の女性で一番のトップキャリアまで登っていきます。
娘が皇后に。天皇のお祖母ちゃんになる。
藤原不比等との間に生まれた娘・安宿媛は第45代 聖武天皇の皇后になります。天皇と皇后の間に生まれた娘が即位して第46代 孝謙天皇になりました。
三千代は聖武天皇の時代の733年に亡くなっているので孫が即位した姿を見てませんが、これが橘氏の最高潮です。
三千代と美努王(みの の おう)との間に生まれた葛城王は橘諸兄に改名していて、聖武天皇・孝謙天皇の時代に左大臣になっていました。
左大臣は当時の政権トップ。総理大臣みたいなもの。
そういう意味でも橘氏は最高潮でした。でも、孝謙天皇の時代に橘氏は早くも没落します。
皇后になった安宿媛は光明子(こうみょうし)として有名。
この時代、天皇、藤原氏を凌ぐ最大の実力者になっていた。
橘諸兄と光明子は父親ちがいの兄妹。
橘三千代は夫婦別姓?
三千代が天皇のお祖母ちゃんになるまでキャリアアップしたのは分かりましたが、ひとつ気になるところが。
橘姓になったタイミングです。
通説では、文武天皇のお守り役をきっかけに出世して元明天皇から橘姓をもらい、藤原不比等に嫁いで光明子を産んだことになってるんですが、ちょっとおかしい。
時系列で並べてみます。
701年 | 光明子が生まれる。 |
708年 | 橘と宿禰の姓をもらう。 |
光明子が生まれたのは賜姓(しせい。天皇から姓をもらうこと)の前。三千代が手塩に育てた文武天皇の時代です。
これ、今裁判にまでなって問題になっている夫婦別姓なんじゃないだろうか? 当時の不比等は文武天皇から『不比等とその子孫だけが藤原氏を名乗っていい。』と言われたころで、藤原三千代になってもいいはず。
不比等の妻は藤原の対象外だったのか? 不比等にはたくさんの妻がいたので立場が弱かったのか?
いろいろあったにせよ夫婦別姓です。
不比等は利用するつもりで藤原になりたいわけじゃなかった?
橘三千代は力を失った夫を捨てて、最大実力者の藤原不比等と再婚しました。
(当時の大宰府赴任は中央の人からすると左遷だと思っていた。)
しかも藤原の家に入るつもりもなく新たに橘姓をもらいます。なかなかここまで気持ちのいい走りを見せる人は男性でもいません。
今の日本人よりも当時の女性は縛りがありません。子どもを産んでもちゃんとキャリアアップできるし、夫の家に縛られていない。
何より三千代に姓を与えた天皇は女帝の元明天皇。女性はおしとやかにとか考えてもいない。最大実力者を踏み台にしようという度胸もぶっ飛んでる。
この時代の女性の自由、らしさをぜひ知っていただきたい。夫婦別姓を選択することすらNoという人はアホです。男尊女卑です。
夫と同じように出世し、夫と同じタイミングでリタイアする。
三千代は後年、720年に夫の藤原不比等が亡くなり、橘姓をくれた元明上皇が721年に病気で死の間際にあったときに、病気治癒の祈祷のために出家します。そして733年に亡くなりました。
奇しくも、夫と同じ5人の天皇に仕えました。(天武・持統・文武・元明・元正)
しかも、国家の中枢で陣頭指揮をとっていた不比等を妻として支えるのではなく、独立したビジネスパートナーです。
もしかすると、天皇からの信頼は不比等を超えていたのかもしれない。
- P1 天皇から姓を下賜されたのは女性
- P2 女性の成り上がりの物語
- P3 橘氏の祖は息子の橘諸兄(たちばな の もろえ)
- P4 橘氏は2代でフェードアウト
- P5 世代を超えて復活!
- P6 なぜ四大氏族に数えられるのか?