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平氏ってなんだ?どこから来たの?なんで有名な武士になれたの?

武士 画像

ご覧のページは 6 / 7 です。先頭ページはこちら。

伊勢平氏(いせへいし)とは?

坂東平氏が東国一帯に広まっていくと、それぞれ地盤を固めて土着した平氏になります。

常磐平氏
(ときわ)
平将門を討った平貞盛(さだもり)が本拠地にしてい
た常磐(ときわ。茨城)を弟・繁盛(しげもり)に譲
り、繁盛の子孫が土着した系統。

鎮西平氏(ちんぜい。熊本): 伊佐氏
越後平氏(えちご。新潟): 城氏
信濃平氏(しなの。長野): 仁科氏
海道平氏(かいどう。福島): 岩城氏

などに分かれた。
伊勢平氏
(いせ)
貞盛の息子・平維衡(これひら)は東国各地の国司を
歴任し、その中のひとつ伊勢国(いせ。三重)を本拠
地にしたのが始まり。

平清盛(きよもり)を出したことで平氏の最大勢力に
なる。
房総平氏
(ぼうそう)
平将門に討たれた国香(くにか)の弟・良文(よしふ
み)の孫で、母方から見て将門の孫でもある平忠常
ただつね)から始まる系統。

お祖父ちゃんの代から続く、千葉・茨城一帯の広大な
土地を受け継いだ。

上総氏(かずさ)、千葉氏(ちば)は、房総半島一帯
で生き残った房総平氏の流れ。
秩父平氏
(ちちぶ)
良文の孫・平将恒(まさつね)が本拠地にしていた武
蔵国・秩父郡(むさし・ちちぶ。埼玉)から始まった
系統。

多数の氏族が出たが、地方豪族を超える勢力は出てい
ない。

この中で注目するところは伊勢平氏。伊勢平氏からは平清盛(きよもり)が出てきます。

というか他の平氏は全国展開するまでにはなれていない。

武士の平氏といえばこの伊勢平氏のことを言うのが一般的です。ただ、東国と言われた地域の地方史を学ぶと、そのほかの平氏がよく出てくるでしょう。

なぜ伊勢平氏だけが大きくなれた?

伊勢平氏が大きくなれた理由は地の利。この一点につきます。

武力でいえば関東の坂東武士は相当強いです。ただ都から遠いので全国展開するための活動ができません。

(全国展開するには中央政府とのコネクションが欠かせない。)

一方、伊勢(三重)は東国とはいえ、山を超えてしまえば都です。船で大阪経由で行ってもいい。中央政府とのコネクションが作りやすい。

織田信長は天下を取りましたが、それよりも軍事力を持っていた武将はいくらでもいました。

(中国・毛利、越後・上杉、信濃・武田、相模・北条。)

それと同じ。そもそも、関東の武士が全国展開を狙ってたのかすら怪しいです。まわりが強者だらけなので守るだけで精一杯だったのかも。

戦国時代の北条氏(後北条氏)は伊勢平氏の流れ。

関東なので伊勢平氏以外の流れに思えるが、北条氏の祖・北条早雲(ほうじょう そううん)は伊勢氏の出身で、伊勢氏は伊勢平氏の末裔。

(そのまんま。)

また、早雲は伊勢の生まれではなく備中(びっちゅう。岡山)。

ややこしい。

それだけ伊勢平氏の末裔は全国に散らばっていた証拠でもある。

院政の波に乗る

伊勢平氏がグングン勢力を拡大するころ、伊勢から都に行くルートは武将になっていた源氏の本拠地でした。

大阪・奈良は摂津源氏大和源氏河内源氏の拠点。そして河内源氏は東国にまで勢力を拡大していました。

美濃
(みの)
岐阜。
東国から都に入る玄関口。
甲斐・信濃
(かい・しなの)
山梨・長野。
東国内陸部の幹線沿い。
(中山道)
上野
(こうずけ)
北関東(群馬)
中山道と東北をつなぐ。
下野
(しもつけ)
北関東(栃木)
陸奥
(むつ)
福島・宮城・岩手・青森
東北の中心。
鎮守府があった。
出羽
(でわ)
山形・秋田
河内源氏の東国での勢力範囲

河内源氏は都の出入り口と東国の主要拠点をすべて抑えています。今でいうと、新幹線と高速道路にアクセスがいいところ、主要都市を抑えているようなもの。

これをひっくり返したのが伊勢平氏。どう見ても無理なんですが、河内源氏の自滅と摂関政治から院政に変わり、白河上皇が伊勢平氏を重宝したことで形成を逆転しました。

坂東平氏、伊勢平氏の勢力

河内源氏は大阪を拠点にした小さな源氏だったが、摂関家に近づいて勢力を急拡大した。

摂関政治が衰え院政期に入ると、摂関家に近いのが仇になり院政に食い込めない。

摂関に近い河内源氏が白河上皇に煙たがられ、新勢力として伊勢平氏を取り込んだのが大きい。

平清盛(きよもり)のお祖父ちゃんや父の時代の出来事。

院政を飲み込んで平家政権樹立。からの急落

がっちりガードしていた河内源氏院政への移行で一気に突き崩した伊勢平氏は平清盛(きよもり)が今度は中央政府に入れてくれた院政をつぶします。

清盛が氏の棟梁になったころから伊勢平氏のことを『平家』(へいけ)と言います。伊勢平氏の中でも特別な言い方。

清盛の時代以外の平氏のことを平家とは言いません。

後白河上皇の院政になると清盛と上皇の権力闘争が激しくなり、清盛が上皇を軟禁して平家政権を樹立します。

そして、『平家の、平家による、平家のための』天皇、安徳天皇を即位させました。

清盛が死ぬと盛り返してきた源頼朝(みなもと の よりとも)の河内源氏との戦いが始まり、安徳天皇の死で平家も滅亡します。

このあたりは有名なのでこのくらいでもいいですよね?

なんで平氏は西へ逃げたのか?

平清盛の死後、平家は西へ西へ逃げていきました。理由は、東は源氏のホームだから。

東国の平氏、坂東平氏(地図のピンク色)も源頼朝に味方しているので、平家の行き場がありません。

坂東平氏、伊勢平氏の勢力

頼朝が平家を追い込んでいるとき、拠点は鎌倉に移り地図で白色になっている東海道の海岸沿いも源氏色になっています。

平家は故郷の伊勢にすら戻れませんでした。源氏一色の東国が目の前に広がっていたから。

地図で見ると、当時の平家の人たちの追い込まれた気持ちが分かります。

東海道の白いところは、清盛が死の間際にあったときから始まった源氏 vs 平家の激戦地。

平家軍が、たくさんの鳥が飛び立ったのを奇襲だと勘違いし、戦わずして逃げてしまったのは有名な話。

富士川の戦い

このエピソードは平家と源氏の立場の逆転のきっかけとして語り継がれている。

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