関白は『かんぱく』と読みます。
『天皇の政務に関わって意見を白す(申す)』の意味で、天皇を補佐する立場の人。
摂政(せっしょう)のように古代からあったものではなく、平安時代に作られた役職です。
天皇の首席補佐官と言ったほうが分かりやすかも? 天皇の一番そばにいる政治家でもいいかな?
天皇を補佐する仕事
関白は天皇を補佐する仕事です。平安時代にはじまり、摂政、関白による事実上の政治の実権を藤原氏で独占するために生まれました。
摂政と同じように天皇の后に女子を嫁がせて、外祖父、外伯父になった藤原氏の実力者が務めました。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
関白は太政大臣が兼務するのが通例だったようです。
太政大臣も令外官ですが左大臣よりも立場は上で、朝廷の役人の最高の役職でした。空位のときもあり、関白は通常の大臣職よりも上で、圧倒的な権力がありました。
(どちらかというと太政大臣が兼務するから圧倒的と言える。)
摂政と比べると権力は小さいが大臣よりは上
摂政には天皇と同じ決裁権がありますが関白にはありません。決裁権は天皇にありました。これは関白の特長です。
摂政は、政治を仕切る能力がない天皇を補佐するのが仕事ですが、関白は、政治を仕切る能力がある天皇を補佐するのが仕事です。
関白はつねに天皇と二人三脚です。関白が完全単独で政治を仕切ることはできません。
そして関白は、大臣よりも事実上上位になる、ある特権を持っていました。
天皇の勅を見る権利があった
関白は決裁できないので、政治の決裁は天皇への上奏が必要です。文書で天皇に見せなければなりませんでした。そして天皇は、それに対する答えを文書で通達します。
上奏(じょうそう)と勅(ちょく)・詔(みことのり)
上奏
政治の最高責任者から天皇に行なう報告。天皇への意見や相談。
勅・詔
天皇の命令。勅書(ちょくしょ)・詔書(しょうしょ)は命令書。詔勅(しょうちょく)ともいう。
勅と詔はケースバイケースで使い分けているが、ルールがよく分からないので同じものと思っていい。
1945年の玉音放送は、詔書。
天皇の命令を強調すると勅令(ちょくれい)、意見を強調すると勅語(ちょくご)という。
明治の教育勅語は天皇の意見。当時、天皇が国民に強制するものではない、勅令ではダメだということで勅語になった。
勅語は意見なので国民が絶対に聞かないといけないものではない。
関白には、天皇に上奏する文書の内容を、天皇に渡る前に見ることができ、天皇から大臣へ出される勅が大臣へ渡る前に見ることもできました。
関白には、天皇と政治をじっさいに行う左大臣、右大臣との間のやりとりをすべて見ることができます。これは関白にだけ与えられた特権。
やりとりの間で自分の意思を反映させることが簡単にできたということ。これほどの権力はありません。
太政大臣でもあるから、ということもあるとは思いますが...
藤原の藤原による藤原のための関白
最初の関白は藤原基経(ふじわら もとつね)です。最初の人臣摂政を務めた藤原良房(ふじわらの よしふさ)の養子で、摂政も務めた実力者でした。
良房、基経は、藤原氏の中でもっとも力があった藤原北家(ふじわらほっけ)の流れです。
この良房の子孫が代々、摂政・関白を務めることになり、その後、摂関家と呼ばれるようになります。
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
このように、関白という立場は歴史上を通じて藤原氏だけで続きました。
正式な官位ではないので天皇の最高顧問みたいなもの。これが初期の明治政府まで存在しました。
この中で、たった2人だけ藤原氏以外の人物が務めます。あの有名な戦国武将です。
例外は豊臣秀吉と豊臣秀次の2人だけ
天下を統一した豊臣秀吉は、天下人の正統性が欲しくて、室町幕府の15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の養子になって、征夷大将軍になろうとします。
しかし、義昭に断られてしまいました。
そこで、官位ではないけど圧倒的な権力がある関白に目をつけます。秀吉にとっては都合の良いものでした。
近代以前の日本は、高い官位をもらうには家柄が必要です。秀吉は農民出身なので、左大臣や右大臣、太政大臣になるには由緒ある武家、公家を納得させないといけませんでした。
これには膨大な時間がかかります。
そこで秀吉は、近衛家の養子になって近衛秀吉になりました。そして関白になります。その後、近衛家から独立して豊臣家を興しました。
豊臣家は近衛家の分家で始まったため、名目上は藤原氏です。関白は歴史上、藤原氏だけが就任した不思議なものでした。
明治の近代化で廃止
幕末から明治にかけての王政復古の大号令で新政府樹立が宣言されましたが、これと同時に摂関停止が行われます。摂政・関白の役職停止。
歴史上最後の関白は二条斉敬(にじょう なりゆき)。幕末に孝明天皇から関白に任ぜられ、その後、明治天皇の摂政も務めました。
(二条斉敬は歴史上最後の人臣摂政でもある。)
摂政はその後、明治政府によって復活します。関白はそのまま廃止されました。
(今のところ最後の摂政は裕仁親王(昭和天皇)。)
近代は家柄に関係なく、誰でも国民に選ばれて政治を行えるのが大前提なので、特定の家柄の人だけが務める役職があるのは、おかしいということなのでしょう。無くなって当然です。
内覧(ないらん)とのちがい
『関白には天皇の勅と上奏の文書を最初に見れる特権がある』といいましたが、正確には、関白は内覧を兼任していたから。
内覧こそが、天皇の勅と上奏の文書を最初に見て確認する役職で令外官です。
関白は、これを兼任していたからこそ大臣たちよりも上にいることができました。
(じつは摂政も内覧を兼任する。)
内覧は関白になるためのステップアップになる
内覧は摂政と関白が兼任するものでしたが、左大臣・右大臣が兼任するようになります。
第60代 醍醐天皇などは、関白を置かない天皇親政をしたので、貴族の実力者に内覧をさせました。
あの菅原道真(すがわら みちざね)も内覧です。
第66代 一条天皇のころの藤原道長(ふじわら みちなが)は、関白になってもいいのに断り、左大臣のまま内覧に留まりました。
もともと内覧は『文書を確認する』役職だったのに、関白がいないときの関白っぽい人、近いうち関白になるような人がつとめるようになります。
内覧が准関白(じゅんかんぱく)と言われる理由はこれ。
内覧には、文書を先に見れることをいいことに、自分の都合で天皇に見せなかったり、大臣に勅を出さなかったりしました。
こういうことをできるのは次期関白ならではです。