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最澄と空海。相性最悪の仏教2大スター。日本仏教の礎でも方向性がまるでちがう。

最澄と空海

ご覧のページは 2 / 8 です。先頭ページはこちら。

空海
空海の肖像 by Wikipedia

非エリートで無名だけど天才的な空海(くうかい)

空海は讃岐国(さぬき。香川)で生まれます。父は郡司なので地方役人でもそこまで上り詰めた人ではありません。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

頭の良さは子どもの頃からずば抜けていたらしく、京の都にある大学に入ることができました。

当時の大学は官僚育成機関。郡司の息子がそうかんたんに入れるものではありません。

(大学に入るのは高級官僚の息子が多く、それ以外には狭き門だった。)

大学でも優秀さは抜けていて、ありとあらゆる書物を読みまくります。そして学校の勉強では物足りなくなって修験道に入り修行するようになりました。

このあたりから儒教・道教などの書物も読みまくり、一番素晴らしいのは仏教だと気づきました。

とくに大日経(だいにちきょう)にハマったらしい。

修験道は、古くからある山岳信仰に仏教などあとからやってきた宗教が混ざったもの。

もともとブレンドなので、仏教徒でも修行で修験道に入る人は多かった。

最先端の仏教にのめり込み遣唐使で留学

大日経は空海の頭脳をもってしても理解できなかったものらしい。それもそう。本場中国で急激に人気が出てきた最新の仏教だったから。

それが悔しかったようで中国留学を目指します。いったん故郷に帰り留学費用を父に工面してもらって、遣唐使の船に乗せてもらい中国へ渡りました。

空海は正式に国から認められた遣唐使ではありません。完全な自費留学。

中国密教の最高権威の後継者になる

空海は中国へ渡ると、大日経が密教の経典だということを知ります。

密教はインドのヒンズー教やゾロアスター教も取り込んだ仏教で、サンスクリット語を勉強しないといけないんですが、空海は3ヶ月で習得したらしい。

頭の良さは中国でもずば抜けていました。

サンスクリット語は古代のインドの言葉で、当時のインド人でも理解できないものだった。

(ヨーロッパ人のラテン語のようなもの。)

空海が見た中国の大日経はそのサンスクリット語で書かれていた。

また、ゾロアスター教はペルシア(今のイラン)発祥で、人類最初の宗教とも言われる。

そして、いきなり密教の大師匠・恵果(けいか)に弟子入りを志願。大日経以外どうでもよかったみたい。

結果、空海は恵果の弟子どころか後継者に指名されました。

恵果は空海とはじめて会ったときに、

『私は君がこの地に来るのを知っていて、長い間君を待っていた。』

と初対面でいきなり言われたエピソードもあります。

また、本場の密教の継承者になった空海は、師匠から日本に帰って密教を広げなさいと言われ、たった2年で帰ることになりました。

たった2年で修行終了なんてどんだけ空海は優秀なんでしょう。

後継者を探していた恵果(けいか)

恵果はこのとき1000人の弟子がいたほどで、3人の皇帝を弟子にしたことから三朝国師(さんちょうこくし)と呼ばれるほど名声がありました。

ただ、たくさんの弟子には後継者にしたい人材がいなかったらしく、サンスクリット語を短期間で習得した日本の若造の噂を聞いていたのかもしれない。

また、自分の寿命が尽きる予感もしていたので、訪ねてきた空海は奇跡的なタイミングでした。

初対面で1000人の弟子をごぼう抜きして密教のすべてを教えるなんて、漫画のような話。

若干盛ってる気がしますが、じっさいに空海は恵果とマンツーマンの口伝で密教の真髄を教わっていて、伝法阿闍梨(でんぽうあじゃり)という密教の最高位も授かっています。

この辺の修行の話は見ていた弟子が記録しているので事実でしょう。

日本に帰るときは密入国。逮捕される。

空海は師匠に言われて日本に帰ったんですが大きな問題がありました。勝手に帰ってきたから。

当時の遣唐使は、自費留学の学生は20年は中国で修行しないといけないルールがありました。それをたった2年で帰ってきたのは完全なルール違反。

というか密入国。当然、逮捕されて博多(はかた。福岡)で止められてしまい都に帰れませんでした。

それを救ったのがすでに日本仏教のトップになっていた、もうひとりの大スター・最澄です。

空海の実家は裕福だった。

郡司は地方の有力豪族が務めることが多く大金持ちの部類。ただ中央政府での官位は低い。

空海は20年分の留学費用を実家からもらい、そのほとんどを密教の経典、道具を買うのに使った。

それをぜんぶ日本に持ち込んだので、その価値は計り知れない。

次は エリート層で有名人の最澄(さいちょう)。
前は なぜ最澄と空海が出てきたのか?
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