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最澄と空海。相性最悪の仏教2大スター。日本仏教の礎でも方向性がまるでちがう。

最澄と空海

ご覧のページは 7 / 8 です。先頭ページはこちら。

国を代表する2大仏教はそれぞれの道を行く

嵯峨天皇に東寺を任された空海は、高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)を造りそこを真言宗の総本山にします。空海念願の自分の理想郷。

(東寺は預かりものなので、思い通りにはできない。)

東寺と高野山のふたつの総本山を行き来する生活をして、『56億7000万年後に出てくるよ?』と言い残して瞑想に入りました。

じっさいは死んでるんですが、今でも高野山では弘法大師(こうぼうたいし。空海の尊称)は生きている体で、毎日食事が運ばれています。

また、天皇に愛された真言宗らしく、あれだけ戦い合った全国の戦国武将の墓(供養塔)が立ち並ぶ場所もある。

これだけでも行って見る価値はある。

戦国武将たちの墓は、高野山の一番奥にある空海が入定した霊廟のすぐ手前の参道に並んでいる。

56億7000万年後に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が現れて空海が復活する一大イベントのプレミアムシートに陣取ってるとも言われる。

死が間近にあった武将たちは空海伝説にあやかりたいらしい。

日本仏教のほとんどは天台宗から生まれた

浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗...。

自分の身内が無くなった葬式のとき、だいたいこれらの宗派で行うと思います。

今挙げた宗派はすべて天台宗で学んだ僧たちが作りました。最澄の弟子やその弟子たちが興したのが今の日本仏教の主流です。

天台宗は、強訴を繰り返したり、独立国のようにふるまったり、日本の歴史ではあまりよろしくないことをする仏教でしたが、優秀な弟子を輩出するという意味では右に出るものはありません。

優秀な僧ほど比叡山のやり方に不満を持って独立したとも言えるが。

天台宗の最大の功績は日本仏教にバラエティーをもたせたこと。もし仏教の流派が少なかったら、それと合わない人は仏教徒になりません。

日本は世界の中でも類を見ない仏教国です。流派のバラエティーがなかったらそれもなかったでしょう。

最澄が目指した『だれでも仏教徒になれる』のDNAが受け継がれたんですね?

天台宗から多くの宗派が生まれた理由は、最澄が『だれでも仏教徒になれる』のスローガンを掲げただけで、その方法論までは強制しなかったから。

自由度が高い弟子たちは独自の方法論を探りやすいが、それだけに分裂も招く。

それぞれがあまりにも優秀だから。

結果、多くの宗派を生むことになった。

なぜ、優秀な僧は天台宗から始まったか?

天台宗は天皇の仏教にはなりませんでしたが、真言宗と並んで国から保護された宗派です。国立仏教大学の側面もありました。もちろん仏教を学びたい優秀な若者が集まりやすい。

たしかに、学園の幹部たちは権力欲丸出しで、酒は溺れるほど飲むし、女をはべらかして酒池肉林の乱交パーティばっかりのパリピでしたが、学校としてはまともでした。

今でもあるでしょ? 理事長や事務長はとんでもない人でも学校の設備は最高でまとものところが。そんな感じです。

だから勉強しまくって一通り学び終えると独立していくのでしょう。

また、天台宗の若い僧たちには、東寺(空海の真言宗)で修行するものが多くいました。もともと知的好奇心が強い人たちなので、天台宗の勉強で物足りなくなると真言宗にまで手を出します。

天台宗が続いたのは、知的好奇心の塊みたいな若者をつねに引きつけるシステムになっていたからです。

天台宗にも密教が入っている

もうひとつ天台宗に僧が集まりやすいのは、国立大学は総合大学でもあったから。

密教は空海が真髄を習得して後継者になっていますが、専売特許ではありません。天台宗にも密教が取り入れられていて、加持祈祷も行っていました。

最澄は若い頃から密教も勉強していて、空海から真髄までは教えてもらえませんでしたが、4年間の空海の弟子時代で得たものを取り入れています。

真言宗と天台宗の密教は互いにライバル視して競い合いました。それぞれ東密、台密といいます。

密教
真言宗東密(とうみつ)
寺の教)
天台宗台密(だいみつ)
(天宗の教)

天台宗は住職がすごい。長い時間かけて天皇家の血が入っていく。

天台宗が特別なのは住職の呼び方がちがうのでも分かる。天台座主(てんだいざしゅ)と言います。

最初は最澄の直弟子たちが務めましたが、摂政関白左大臣など、藤原氏の実力者の息子たちが出家して座主になることが多くなりました。

平安末期の院政期になると、天皇の息子が出家して座主になるようになり、室町時代には天皇の息子が大半を占めるようになります。

戦国時代になると、宮家から座主を出すようになりました。

『天皇家の仏教は真言宗』は変わりませんが、皇室の仏教では天台宗も大きな役割を担っていきます。

この辺は真言宗と天台宗のバチバチのバトルの匂いがする。お互いにいろんなところで競争していたんじゃないかな?

高野山の住職は金剛峯寺座主という。

もうひとつの真言宗の総本山・東寺の住職は長者(ちょうじゃ)というが、〇〇氏長者という言い方もあるので東寺長者が一般的に使われる。

ふたつの総本山のトップを兼務する人もいたが、基本的には別々。

天台宗のもう一つの顔。日本経済を率いるトップ企業。

平安時代の天台宗は、内部分裂で抗争したり体制批判で強訴したりとまるで反社のようですが理由がありました。

彼らが日本有数の営利企業だったから。

天台宗は急成長し、比叡山の麓、近江(おうみ。滋賀)一帯の経済を牛耳るようになります。

鎌倉時代には日本の金融業の8割は比叡山だったとも言われます。

今の滋賀県は琵琶湖以外のイメージがなく存在感が薄いですが、昔の近江は一大経済圏。下手すると大阪を超えて日本一と言ってもいいほど。

当時の流通は太平洋よりも日本海側がメインで、2つの海の拠点を結ぶ近江は日本経済の中心地でした。

太平洋側の物流拠点は大阪で、日本海側の拠点は福井。

とくに大阪の堺と福井の敦賀・舞鶴は発展した。

日本海と太平洋側の両方の物流をたくさん扱うのは近江しかなかったので、経済のポテンシャルは計り知れない。

近江商人が有名なのも分かりますね? 当時の近江は今の東京なんて足元にも及ばないぐらい国内経済に占める割合が高い経済圏でした。

室町時代の比叡山は日本の経済の半分を牛耳っていたとも言われます。

織田信長が潰したのはこういうところ。

僧侶と言いながら日本経済の大部分を握って好き勝手しているので、これからの日本を作ろうとする信長にとってはジャマでしかなかった。

真言宗は先祖返り。一子相伝を貫く

真言宗を開いた空海は、密教を広めるために間口を広めました。そして貴族や天皇までも巻き込んで日本仏教の2大勢力にまで成長させます。

でもその後、真言宗はそこまで積極的に密教を広めようとはしませんでした。

空海が師匠からマンツーマンで教えを受けたように、一子相伝の仏教へ戻っていきます。高野山にこもってあまり表には出なくなりました。

(東寺が密教の大学の役割を担う。)

天皇の仏教になったので敷居が高くなりすぎたのもあるでしょう。

浄土宗や浄土真宗は、修行はいらない勉強もいらない、農民のままでいい職人のままでいい仏教です。だから日本最大の仏教勢力に成長しました。

それに比べれば、師匠と相対して修行しないといけない真言宗は入り口で気合が必要です。気軽に行けるもんじゃありません。

たしかに浄土系には負けますね? ボクもやだもん。疲れるし。

現世を諦めている人に真言宗は通用しない

もうひとつ真言宗には辛い現状がありました。

浄土宗・浄土真宗が広まったのは、読み書きができない人に広まりやすいだけではありません。

(それなら真言宗にもできた。曼荼羅を見せれば分かるから。)

一番の理由は、そもそも人々が現世を諦めていた。疫病や災害、不作などが続き、終末思想まで広まってしまった平安中期は、人々が完全にこの世での幸せはないと達観していました。

そこでこう言われたらどうでしょう。

『かんたんな念仏を唱えるだけで、あの世で幸せになれる』

『念仏すらいらない。願うだけであの世では幸せになれる。』

そりゃ、広まりますよね?

これに真言宗は勝てません。真言宗は生きている間に幸せになるのを目指すから。

真言宗には幸せに生きたいと思うエネルギーが必要です。それがないとどうしようもありません。

残念ながら、浄土宗・浄土真宗を超える生きるエネルギーを作るのを真言宗はできませんでした。

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