歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -
第69代 後朱雀天皇(ごすざく)は、比叡山の抗争で京の都が火事に見舞われる災難に心を痛めた優しい天皇です。
不運なことに天然痘が流行り、天皇も天然痘で亡くなりました。
負けず嫌いで人に命令されるのを嫌い、法を守らない人には厳しい雷オヤジのような面もありました。
中世 平安時代 - 中期 -
- 皇居
平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 1009年11月25日 ~ 1045年1月18日
寛弘6 ~ 寛徳2
37才
- 在位
- 1036年4月17日 ~ 1045年1月18日
長元9 ~ 寛徳2
10年
- 名前
- 敦良
(あつなが)
- 父
第66代 一条天皇
(いちじょう)
- 母
藤原彰子
(ふじわら しょうし / あきこ)上東門院
藤原道長の娘
(ふじわら みちなが)
- 皇后
禎子 内親王
(ていし / よしこ)陽明門院
(ようめいもんいん)第67代 三条天皇の皇女
(さんじょう)
- 中宮
藤原嫄子
(ふじわら げんし / もとこ)敦康親王の娘
(あつやす)
- 女御
藤原生子
(ふじわら せいし / なりこ)藤原教通の娘
(ふじわら のりみち)
- 女御
藤原延子
(ふじわら えんし / のぶこ)藤原頼宗の娘
(ふじわら よりむね)
- 妻
その他
年の近い兄から引き継ぐ
後朱雀天皇は、1才年上の兄・後一条天皇が29才で亡くなったあとを引き継いで即位しました。
負けず嫌いで人の言いなりになるのが嫌いだったようで、制度や法律をきっちり守るように言いつけるほど、雷オヤジのような厳格な人でした。
若いのに。
後朱雀天皇は、お祖父ちゃんの藤原道長(ふじわら みちなが)が、先々代の三条天皇とのバーター取引を破って皇太子になりました。
後朱雀天皇の時代はすでに道長は亡くなっていて、道長の息子・藤原頼通(よりみち)が関白です。
叔父さんの頼通の言いなりになるのが、ここ最近の天皇の置かれた立場なのに、後朱雀天皇はそれを受け入れる性格ではないみたい。
もう堕ち始める藤原氏のイケイケ
藤原道長(ふじわら みちなが)は先代の後一条天皇のとき絶好調でした。藤原氏の最高潮の時代です。
でも長くは続かず、道長は10年ちょっとで亡くなります。道長の息子・藤原頼通(よりみち)はそのあと後一条天皇の摂政・関白になりましたが、父・道長ほど大きな力をもてませんでした。
後朱雀天皇の皇后を見れば分かります。
藤原道長の誤算。藤原氏の嫁が亡くなる
後朱雀天皇は皇太子時代に、道長の末娘・藤原嬉子(きし)と結婚しました。もちろん、将来の皇后になる予定で。
皇子を産んだところまでは大歓迎だったのですが、産後の回復がよくなく2日後に亡くなってしまいます。これが道長には誤算でした。
後朱雀天皇が即位する前だったので皇后になれてません。
このときに生まれた皇子が次の後冷泉天皇になります。
藤原氏の油断。藤原氏の娘を皇后にできないのが仇に
道長が次に皇太子時代の後朱雀天皇に嫁がせたのは、三条天皇の娘・禎子内親王(ていし)。
三条天皇と道長はバチバチに対立した犬猿の仲。
一応、禎子内親王は道長の孫なので無きにしもあらずですが、歴史の結果から言うとこれが道長の唯一のミステイクです。
(禎子内親王が嫁いだ翌年、道長は亡くなる。)
後朱雀天皇は二人の皇后をもちますが藤原氏ではありません。二人目の皇后・藤原嫄子(げんし)は関白・藤原頼通(よりみち)の養女ですが後朱雀天皇の兄貴の娘。
(敦康親王(あつやす)の娘・嫄子女王。一条天皇の孫。)
後朱雀天皇の妻の中心は道長の孫娘たちです。
後朱雀天皇と内親王の皇子が摂関政治を壊す
あとの話ですが、後朱雀天皇と禎子内親王の間に生まれた後三条天皇は、170年ぶりに藤原氏と外戚関係をもたない天皇になりました。
(後三条天皇の皇后も内親王。しかも、藤原氏とバトった三条天皇の娘。)
この後三条天皇は藤原氏の摂関政治を壊します。院政の扉を開いた改革者。
このころ藤原頼通(よりみち)は、関白と藤原氏長者を辞めて隠居していましたがまだ健在です。
それでも後三条天皇の改革を止められませんでした。藤原氏は道長の息子の時代にすでに凋落が始まります。
天皇をいじめ倒して退位させ、皇太子もいじめ倒して辞職に追い込む道長のやり方は、相当嫌われていたのでしょう。
道長の子孫と言ってもあくまで天皇の娘なので藤原氏との関係は薄いです。後三条天皇が道長の子孫から皇后を迎えていたらこの改革はできなかったはず。
後朱雀天皇が内親王を皇后にしたのがそのトリガーになってます。
藤原氏を皇后にしないのは天皇の意志か?
禎子内親王の入内は藤原道長(みちなが)が決めているのですが、おそらく、自分の最後を感じていた道長は、自分の息子たちの力が弱いのが心配だったはずです。
もうすでに、道長のやり方に不満を持っている貴族にひっくり返されるのを感じていたのかも。それなら、天皇家の力を借りたほうがいいということで、内親王を皇后にしたのではないか?
それを補強するのが、天皇に嫁いだ道長の孫娘たち。
道長のミスは後朱雀天皇の利かん気な性格をあなどっていたこと。そして息子の後三条天皇もそれを受け継いでいたこと。
後朱雀天皇は、いくらお祖父ちゃんとはいえ道長のやり方に内心、『ちがうでしょ?』と思っていたのを想像できます。
後朱雀天皇の厳しさは『お祖父ちゃんの真似してんじゃねーよ!』だから。
比叡山の抗争。円仁派 vs 円珍派
後朱雀天皇の時代は比叡山延暦寺の抗争が激しくなったころで、京の街が放火されるなど抗争のとばっちりを受けていました。
抗争の収まりがつかなかったのは、両方のボス・円仁と円珍は100年以上前に亡くなっていて、争っていたのは二人に直接指導を受けたわけでもない弟子たちだったから。
しかも当時の比叡山は心優しき仏教徒じゃなくて、荘園など既得権益をもった実力組織。
荘園(しょうえん)
743年に私有地を持てる法律ができたことから始まる、上皇・貴族・寺社勢力・豪族の私有地のこと。
農園と言われるが鉄の生産など工業も行われた。
室町時代くらいから武士などの地方の有力者に奪われ失われていく。
豊臣秀吉の太閤検地などの土地制度改革で、私有地はいったん国に返すことになったので消滅する。
僧兵をもった暴力集団でもありました。今でいうと反社組織の抗争に巻き込まれるようなもの。
急に発泡音がしたり、何かが破壊される音がそこらじゅうで起きたときの恐怖を思い浮かべると、当時の京都の人の気持ちがわかると思います。
円仁(えんにん)
794年、平安京遷都の年に生まれ、864年に亡くなる。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。
入唐八家のひとり。第3代 天台座主。(天台宗のボス)
入唐八家(にっとうはっけ)
唐に留学し、最新の仏教を日本に持ち込んだ8人の高僧。
平安時代の初期に留学した僧たちで、894年の遣唐使廃止でそれ以降留学できなくなった。
最澄 (さいちょう) | 天台宗の開祖。 平安時代に始まる新・日本仏教のニューリーダー。 比叡山・延暦寺を造る。 |
空海 (くうかい) | 真言宗の開祖。 最澄と並ぶニューリーダー。 高野山・金剛峯寺を造る。 |
常暁 (じょうぎょう) | 空海から密教を学ぶ。 |
円行 (えんぎょう) | 空海から密教を学ぶ。 仏具の輸入・開発に力を注ぎ、天才エンジニアの顔も持つ。 |
円仁 (えんにん) | 天台宗。 最澄の弟子。 第3代 天台座主。(天台宗のボス) 天台宗・山門派(さんもんは)の祖。 |
恵運 (えうん) | 真言宗。 空海の孫弟子。(弟子の弟子) |
円珍 (えんちん) | 天台宗。 最澄の孫弟子。 第5代 天台座主。 天台宗・寺門派(じもんは)の祖。 天台宗だが母は空海の姪っ子。 |
宗叡 (しゅえい / しゅうえい) | 真言宗。 天台宗の円珍からも学ぶ。 |
円珍(えんちん)
814年に生まれ891年に亡くなる。智証大師(ちしょうだいし)ともいう。
入唐八家のひとり。第5代 天台座主。
円珍登場以降、円珍派が天台宗の最大派閥になった。
山門派(さんもん)と寺門派(じもん)
円仁の教えと円珍の教えの仏教解釈のちがいから対立する。
993年に、円仁派が比叡山の円珍派の坊舎(僧の住居)を焼き払ったことで対立が激化。
追い出された円珍派は比叡山から独立し、円珍が任されていた園城寺(おんじょうじ)を拠点に活動を始める。
円仁派は比叡山を拠点にしたので山門派、円珍派は山を降りて園城寺に移ったので寺門派という。
円珍派が天台座主を独占していたのに円仁派が不満を持って爆発した。
責任感は強いが天然痘で死す
後朱雀天皇は比叡山のとばっちりで乱れた京に、
『徳のない自分が天皇だから乱れた』
と、あたかも自分の責任かのように嘆いたそうです。
規律を守らせるのに厳しい後朱雀天皇の優しい一面。というか、貴族の乱れは民のためにならないという優しさからの厳しさだったのでしょう。
こんないい天皇の時代は良い世の中になってほしいですが、そうはなりませんでした。むしろ逆。
疱瘡が流行ってしまい、天皇自身も疱瘡で亡くなってしまいます。在位10年、37才でした。
(最初の正妃・嬉子(きし)も疱瘡の一種で亡くなったと言われる。)
疱瘡(ほうそう)
天然痘(てんねんとう)のこと。ウィルス感染する病気で昔は大量の死者を出した。
じんましんみたいに発疹が出る。昔はもっとも恐れられていた病気の1つ。