第71代 後三条天皇 摂関政治を壊した先駆者

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後三条天皇肖像画

歴代天皇 - 藤原氏に権力を委ねた天皇たち -

ミスター院政ともいえる白河法皇の父親である後三条天皇(ごさんじょう)は、藤原氏の横暴な政治を止めさせようとした人です。

実績の割にはあまりにも知られていない人でもっと知ってほしい天皇の1人です。

後三条天皇の朝廷改革がなければ摂関政治が衰えず、院政もなく、武士の世もなかったかもしれません。

時代の大変革の土台を作った偉大な人物といえます。

中世 平安時代 - 末期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあんのみや)
  • 生没年
  • 1034年7月18日 ~ 1073年5月7日
    長元7 ~ 延久5
    40才
  • 在位
  • 1068年4月19日 ~ 1073年12月8日
    治暦4 ~ 延久4
    5年
  • 名前
  • 尊仁
    (たかひと)
  • 別名
  • 延久帝
  • 第69代 後朱雀天皇
    (ごすざく)
  • 禎子 内親王
    (ていし / よしこ)

    陽明門院
    三条天皇の皇女

生まれが藤原氏出身でないために境遇に恵まれなった

母親が天皇の娘で皇族で、宇多天皇(うだ)以来170年ぶりに藤原氏と外戚関係のない天皇です。

皇太弟となってもなかなか天皇になれず、10~34才の24年もの長い間、東宮生活を送りました。

皇太弟(こうたいてい)

天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。

皇太子は、次の天皇に、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。


東宮(とうぐう)

次期天皇の住んでいるところ。たんに次期天皇のことを東宮と呼ぶことがある。

今でも皇太子殿下の住んでいるところを東宮御所という。

後三条天皇は、生まれが藤原氏と関係がないため、関白 藤原頼通(ふじわら よりみち)に疎まれていました。

また、藤原頼通は、先代で後三条天皇の兄の後冷泉天皇の皇后に自分の娘を入内させていました。この娘に息子が生まれるのを待っていたので、皇太弟の後三条天皇は邪魔でしょうがありません。

入内(じゅだい)

『内裏(だいり)に入る』から、天皇の妻として認められることをいう。天皇と結婚すること。内裏は天皇の住むところ。

だから24年もの間放置されたのです。この長さは異常です。当時はすでに幼い天皇は当たり前の時代になっています。それでも34才まで天皇になれませんでした。

しかし、後三条天皇はこの24年の月日を無駄に過ごしませんでした。藤原氏中心の摂関政治の裏表をすべて観察していたのです。

そして、自分が天皇になったときに何をすべきか考え続けました。その答えが、藤原氏の横暴は許さないというところにつながります。

自分の境遇をエネルギーに変えて改革を断行!

34才で天皇になった後三条天皇は、身分は低いけれど能力は高い人材を積極的に登用して、藤原氏に頼らない天皇中心の政治を行います。

まず、即位の翌年、”延久の荘園整理令”を発布して財政の再建をはかります。

この当時、摂政関白など主要ポストを独占していた藤原氏は、権力を使って違法荘園を日本全国に展開して、自分の懐に入れていました。

詳しい説明はここではしませんが、国家財産、国家収入になるべきものを藤原氏がネコババして自分の懐に入れていたことになります。これはあまりにひどく、国家収入を減少させて国家財政を圧迫するほどでした。

国や藤原氏以外の人々はどんどん貧乏になり、それに反比例して藤原氏はどんどん裕福になっていきました。

この整理令は、

  • 不正蓄財は許しません。
  • 不正と判断されたものはすべて国庫に返還させる。

というものでした。

これはすごいことです。当時の藤原氏は、誰にも文句が言えないほどやりたい放題できた時代です。
そのグループの、その力の根源の経済的基盤である荘園にメスを入れました。

暗殺されてもおかしくありません。これらを実行したのが、藤原氏ではないため境遇に恵まれなかった、源経長(みなもとの つねなが)大江匡房(おおえ まさふさ)などです。

源経長は宇多天皇の玄孫にあたる人で、このあたり何か因縁を感じます。

さらに翌年、絹布(けんぷ)の制を制定し、さらに2年後、公定升(こうています)(公式の度量衡)の制定を実行します。

絹布の制は、絹の品質を統一するという政策です。

度量衡(どりょうこう)とは、長さ(度)、容積(量)、重さ(衡)を測る物差し、はかりのことで、公定升とはその基準をよりよいものに改正し、国が保証することです。

どれも経済に直結する政策で、その経済活動の不正は何人たりとも許さないということでした。

後三条天皇は経済通の政治家だと思います。そのほか、いろいろな実績を残します。

この改革で摂関政治は衰退していく

後三条天皇は人の言葉をよく聞き、高潔な人柄と深い学識を持っていました。また強い政治力も発揮しました。

しかし、4年半という短い在位で、息子の白河天皇に後を譲ります。

病気のためか、院政を始めるためなのか意見は分かれるようですが、藤原氏と距離をとり摂関政治とは違った天皇中心の政治を目指したのは確かです。

天皇を退位した翌年には亡くなってしまいます。

つねに政治的に対立した藤原頼通でさえ

末代の賢主を失った

と嘆くほどの人物でした。

このあとは、稀代の怪物政治家で息子の白河天皇が院政を始めることで摂関政治は衰退し始めます。そして、院政、武家政権と目まぐるしく時代が変わっていくことになります。

長生きしていたらどうなっていた?

後三条天皇が長生きしていたらもっといい世の中を作ってくれたのにと思いたいところですが、早く白河天皇に譲ったことが政治システムの転換にはよかったかもしれません。

親子ですが性格は真逆で、後三条天皇は実務能力に異常に高い能力を発揮しました。行った政策は有能な行政マンそのものです。
そして人格もいい人そのものでした。

一方、息子の白河天皇は、政治闘争に異常に能力を発揮した人です。性格はワンマンそのもので、自分の気に入らない人は貴族であれ息子であれ容赦なく排除します。

これが既存の政治システムを壊して院政という新しいシステムを構築するには適していました。

父親が細かい修正を繰り返すことで世の中の気流を上昇気流に向けさせ、息子がその上昇気流に乗っかって既存のシステムを排除し、新しい時代の扉を開きました。

親子2代のコンビプレーといっていいと思います。

息子の白河天皇は、平清盛と同時代を生きた人でもあり、キャラクターも個性的なのでかなり有名な人ですが、父親はほとんど知られていません。

しかし、後三条天皇が作った土台がなければ、白河天皇は政治闘争に専念できるほどの財政的余裕がなかったはずですし、稀代の怪物政治家 白河天皇は生まれなかったでしょう。

後三条天皇はもっと世間に知ってもらいたい人物です。

 

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