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第39代 弘文天皇。ほんとうに天皇なのか? 正規軍の大将が反乱軍に倒されて死す。

emperor koubun image

歴代天皇 - 政治闘争で殺しあうアグレッシブな天皇たち -

第39代 弘文天皇(こうぶん)は即位した記録がありません。ずっと歴代天皇に数えられていませんでした。

明治3年、明治天皇が『弘文』の諡(おくりな)をおくり、歴代天皇に加わりました。

大友皇子』(おおとも の みこ)のほうが知られています。

理由は簡単。弘文天皇を殺した人が直後に即位したから。

古代 飛鳥時代

  • 皇居
  • 近江大津宮
    (おおみのおおつのみや)

  • 生没年
  • 648年 ~ 672年7月23日
    大化4 ~ 天武天皇元
    25才
  • 在位
  • 671年12月5日 ~ 672年7月23日
    天智天皇10 ~ 天武天皇元
    8?か月
  • 名前
  • 伊賀
    (いが)
  • 別名
  • 大友
    (おおとも)

  • 伊賀采女宅子娘
    (いが の うねめやかこ の いらつめ)

39代 弘文天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

敗軍の将は歴史から抹殺された?

大友皇子(おおとも の みこ)は、第38代 天智天皇の息子です。天智政権のときに太政大臣になり政治を仕切りました。

しかし、天智天皇が亡くなると、叔父・大海人皇子(おおあま の みこ)と古代最大の戦いを行ない、負けて首をつって死んでしまいます。

25才でした。

壬申の乱(じんしんのらん)

天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。

古代最大の内乱。

両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。

大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。

天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。

672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。

どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。

古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。

(ここに書いた内容も日本書紀から。)

大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。

いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。

太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣(令外官)
左大臣
右大臣
内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

勝った大海人皇子は第40代 天武天皇になり、律令国家を完成させる大偉業の号令をかけました。

いまも残る最古の日本の歴史書、

国家の正式な歴史書をつくれ!

と言いだしたのも天武天皇です。

(それが日本書紀、古事記として完成した。)

それもあってか大友皇子のことは分かりません。日本書紀は、天武天皇の都合の悪いことは書いていないと言われるからです。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)

第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。

それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。

国記と天皇記

第33代 推古天皇のとき、聖徳太子蘇我馬子(そが の うまこ)が編集長になって作ったと言われる。

国記
(こっき)
国家の歴史書
天皇記天皇の系譜

天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。

そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。

帝紀と旧辞

帝紀
(ていき)
天皇の系譜、功績をまとめたもの。
旧辞
(きゅうじ)
各氏族の系譜をまとめたもの。
氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。
日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。

帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。

当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。

帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。

古事記(こじき。ふことふみ)

帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。

712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。

20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。

(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)

日本書紀(にほんしょき)

完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。

中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。

天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。

古事記倭語を漢字にあてた。
『夜露死苦』(よろしく)みたいに。

国内向け。
国家統一に利用するためか?
日本書紀漢字で書かれた。
(中国人でも読める。)

国外向け。
世界に日本をアピールするために利用か?

大友皇子は即位していない?

歴代天皇の天智・弘文・天武時代の資料は日本書紀です。古事記はもっと前の推古天皇まででこの時代のことはありません。

日本書紀では大友皇子は即位していません。天智天皇の次は天武天皇です。大友皇子は皇太子にすらなっていない。

しかし、後世の奈良時代・平安時代になると、大友皇子が皇太子になっていた、即位していたという意見が多くなります。

江戸時代には『即位していた』があたりまえになりました。これが明治初期までつづきます。

あとになって歴代天皇に追加される

明治3年、明治天皇が『弘文』という漢風諡をおくり歴代天皇に追加されます。

江戸時代の『あたりまえ』が影響したのでしょう。しかし今、大友皇子は即位していないという意見がけっこう見られます。

天智天皇の皇后(倭姫王)の称制。太政大臣として補佐。

太政大臣・大友皇子の称制。

天智 -> 天武。大友皇子は関係ない。

称制(しょうせい)

天皇がいない状態で代わりの人が政務をとること。

皇太子や皇后が代わりをつとめた。

神功皇后天智天皇など。

など、いまでも抜き出た意見はありません。ただ多数の意見として、

25才で若すぎる。当時は35才前後じゃないと天皇になれない。

大海人皇子が天智天皇に託されたとき、

『皇后の倭姫王をたてて、政治は大友皇子にまかせればよいでしょう』

といって即位を辞退した。

などなど、当時の状況を考えると即位していないだろうということ。

ちなみに、父・天智天皇は4代の天皇の皇太子なのに即位したのは42才です。

古代は皇后を天皇にするのに躊躇がない。

男が即位を辞退する理由に、皇后がふさわしいというものが何度か出てくる。

現代の人には理解できないが、当時の皇后は天皇のビジネスパートナーでもあり、政治手腕が必要だった。

古代の女性は現代よりも人の上に立てる環境だった。

弘文天皇を否定することではない

ボクには『大友皇子は即位していない』が優勢に感じるのですが、なんともいえないのが今の状況で、弘文天皇を歴代天皇から外すところまではいってません。

たとえ即位していなかったとしても明治天皇が決めたことなので、歴史の研究の成果とは分けて考えます。

もし、どうするか? になったとき、決められるのは天皇陛下ただひとりでしょう。

壬申の乱の大友皇子を代弁してみる

壬申の乱の話は、天武天皇が号令をかけた日本書紀に書かれているので、大友皇子の正義は分かりません。

でも、日本書紀の内容でも大友皇子のことを代弁できます。

太政大臣にしたのは親父なんだけど?

父・天智天皇は即位したとき、弟・大海人皇子を皇太弟にしていました。

皇太弟(こうたいてい)

天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。

皇太子は、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。

これ、『次はお前だぞ!』と言っているようなもんです。

でも2年後には、天智天皇は大友皇子を太政大臣にします。太政大臣は近江令で新しく作った役職で、政治の総責任者。

これにまわりはザワつきました。

あれ? 心変わりした?
これって次は大友皇子ってことでしょ?

大友皇子もそう思ったでしょう。しかも、自分で権力欲しさになったわけじゃないので、なんの落ち度もありません。

『文句があるならオヤジに言え!』です。

大友皇子は初代・太政大臣

大海人皇子は即位を辞退した

大海人皇子は、兄の考えが分からなかったようです。天智天皇が病で寝込んでいるとき、

天智天皇
飛鳥時代の人 image
私は病が重いので、あとはお前にまかせたい。
大海人皇子
古代の人
皇后(倭姫王)をたてて、政治は大友皇子にまかせるのがよろしいでしょう。
大海人皇子
古代の人
わたしは出家して吉野(和歌山)に行きたいです。

といって辞退します。

大海人皇子の返事はうまいです。自分を指名していたら謙虚な弟になるし、大友皇子だったら、いさぎよく譲った心やさしい弟になります。

天智天皇の考えがどっちでもいい答えになるようにしたんですね?

でも、この話を大友皇子が知ったらどう思うでしょうか?

『よし、次はオレだ!』と思うはずです。

まわりは大海人皇子の野心を警戒していた

大海人皇子が吉野に出発するとき、皇太弟だったので左大臣右大臣などたくさんの臣下が見送りのため集まっていました。

その中のひとりが、

虎に翼をつけて放つようなものだ。

といいます。

大友皇子に落ち度はあるでしょうか? まったくありません。

都には太政大臣の自分と左大臣・右大臣も残っています。重要な役職の人は自分についています。

(政権は丸ごと大友にあった。)

警戒も解いてないので心強いです。これで、天皇になれないと思うはずがありません。

『これでオレが即位だ!』と思う以外、なにも思うでしょうか?

このときの大海人皇子は完全なお坊さんの格好。徹底している。

もうわたしは、皇族ではありません。戻るつもりもありません。お坊さんになったので。

というメッセージを出していた。

大海人皇子の徹底した行動は、兄・天智天皇の政権の性格を知っているから。

天智天皇は、身内だろうが仲間だろうが敵とみなしたら殺してきました。ちょっと疑われただけで無実の罪で殺された人もいます。

そうやって生き残った人たちが政権の中枢にいました。だから少しでも野心を見せないようにしていたのでしょう。

挙兵したのは大海人皇子。迎え撃っただけ

壬申の乱は大海人皇子の吉野からの挙兵がきっかけで、近江の都にいる大友皇子や臣下たちからすると『反乱軍』です。

大友皇子からすると『正義はこちらにある』でしょう。だって、吉野にいるのは元・皇族のお坊さんですから。

大友皇子の落ち度は若さだけ

父・天智天皇は殺し合いの権力闘争を勝ち抜いてきました。

叔父・大海人皇子は、即位辞退の返事をみても老獪さが見えます。年も天智天皇の5才下だったといわれるので、兄の権力闘争を近くで見てきました。

また大海人は白村江の戦いにも参戦したベテランの武人でもある。

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)

663年(天智2)8月27日の新羅・唐連合軍と百済残党・倭連合軍の最終決戦。

倭(日本)は大惨敗して、唐・新羅に占領されるほどの危機感をもった。

天智天皇が律令国家建設を急ピッチで進めたのもビビっていたため。

天智天皇は内陸部に都を移した。(近江の大津宮)

大津宮は当時から不評で

なんであんなド田舎の山奥に?

という意見が多かった。相当ビビってた?

大友皇子は太政大臣になったとき24才で、ひとりだけ若造。

若さが落ち度はちょっと酷な話です。年齢と経験はどうしようもないですから。

落ち度があるのはまわりの臣下たちかな?

権力闘争には長けていても戦がおそろしく下手くそで、あっという間に大海人に制圧されたので。

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天皇・皇室の本

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日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

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