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武家政権は平氏と源氏で交互になっていたって本当?

武士 画像

『武家政権は平氏と源氏が交代で担当していた』という話を聞いたことがあるでしょうか?

源平交代論(げんぺいこうたいろん)と言います。

歴史好きには『たしかにそうかも?』と思う話で『そんなバカな!』という話です。

キッチリしたい性分としては、はっきりさせたいと思います。

スタートは平清盛(たいら の きよもり)の平家政権。

日本で最初の武家政権は平清盛(たいら の きよもり)が太政大臣になって樹立した平家政権です。

清盛は、第50代 桓武天皇の孫から始まる桓武平氏の流れ。

桓武平氏は平安時代の初期に上総国(かずさ。千葉)の国司からスタートし、関東一円に勢力を拡大しました。

この勢力を坂東平氏(ばんどうへいし)と言います。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続いた。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

当時は国司が一番軍事力を持った勢力で、初期の武将、武家とも言われます。平将門(たいら の まさかど)が関東を収めて反乱を起こしたのもこの頃。

将門は日本で初めての武家の大規模反乱とも言われます。

その国司から武将になって軍事力をもった勢力の末裔が平清盛。

平安末期平氏平清盛
(たいら の きよもり)
関東から広まった国司の末裔。
太政大臣まで登り詰める。

平家政権を倒したのは源頼朝(みなもと の よりとも)

平清盛の平家政権を倒したのは、源氏の源頼朝

頼朝は第56代 清和天皇の孫から始まる清和源氏の末裔です。清盛の祖先の桓武平氏からは遅れて臣籍降下して民間人になった系統。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として行われ、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

清盛と頼朝は祖先から何かと縁がありました。平将門の乱では主要登場人物として出てきます。

保元の乱では清盛と頼朝の父は仲間でした。平治の乱では敵同士になり、清盛は頼朝の父・源義朝(よしとも)を殺し、頼朝を伊豆へ島流しします。

桓武平氏と清和源氏は永遠のライバル関係。

そんなライバルに一度はボコボコにされた頼朝がリベンジして作ったのが鎌倉幕府。

平安末期平氏平清盛
(たいら の きよもり)
関東から広まった国司の末裔。
太政大臣まで登り詰める。
鎌倉初期源氏源頼朝
(みなもと の よりとも)
平家政権を倒して鎌倉幕府を開く。
征夷大将軍になる。

鎌倉幕府の事実上のトップは平氏の北条氏

鎌倉幕府は源氏の政権ではありません。歴代の将軍は、初代・頼朝の子どもまでしか続きませんでした。

2代・源頼家頼朝と北条政子(まさこ)との間に生まれた長男。
政子に将軍を剥奪されのちに暗殺される。
3代・源実朝頼朝と政子との間に生まれた次男。
頼家の息子・公暁(くぎょう)に暗殺される。

9人の将軍のうち源氏の将軍はたった二人だけ。ほかの将軍は九条家の貴族や皇族でした。

鎌倉将軍のほとんどはお飾りで、実際に幕府を仕切ったのは執権職をつとめた北条氏。北条政子の実家です。

この北条氏は関東の豪族の出身で、平将門を鎮圧した平貞盛(さだもり)の末裔を自称しています。

(平安初期に関東一円を席巻した坂東平氏のひとつ。)

貞盛は桓武平氏の流れで平清盛(きよもり)の先祖です。鎌倉幕府の事実上のトップは平氏でした。

平安
末期
平氏平清盛
(たいら の きよもり)
関東から広まった国司の末裔。
太政大臣まで登り詰める。
鎌倉
初期
源氏源頼朝
(みなもと の よりとも)
平家政権を倒して鎌倉幕府を開く。
征夷大将軍になる。
鎌倉
中期~末期
平氏北条得宗家源頼朝の妻・北条政子の実家。
平清盛と同じ祖先をもつ桓武平氏。

鎌倉幕府(平氏)を倒した源氏・足利高氏(あしかが たかうじ)

鎌倉幕府を倒して室町幕府を作った足利高氏は、源頼朝と同じ清和源氏です。

二人の祖先をたどっていくと、源義家(よしいえ)がいます。八幡太郎義家と言ったほうが有名かも。

義家も平清盛の祖先・坂東平氏と縁があり、後三年の役では、陸奥国(むつ。東北の太平洋側一帯)の国司として参戦し、坂東平氏を引き連れて戦いました。

そこで自腹で坂東平氏たちに恩賞を与えたので、関東で源氏の評価が爆上がりします。

鎌倉幕府を作る源頼朝になんで坂東平氏の末裔が協力したのか? に影響します。

義家のこの行動がなければ、頼朝は伊豆での捕虜生活から抜け出せなかった可能性もあった。

『あの義家の末裔だから男気がある。ついて行こう』になったところがある。

足利氏は鎌倉幕府の主要メンバー

足利氏は、関東で評価が上がった現地で土着した源氏で、源頼朝の挙兵にも坂東平氏といっしょに参戦し、鎌倉幕府樹立に貢献します。

幕府が事実上、北条氏で動かすようになっても、鎌倉御家人の中で別格の扱いを受け、北条氏とは親戚関係を結んでその地位をキープしていました。

そんな足利氏が蜜月の北条氏の鎌倉幕府を倒します。倒したというより、社内でトップに登りつめたあと本社を鎌倉から京都へ移したのが室町幕府。

平安
末期
平氏平清盛
(たいら の きよもり)
関東から広まった国司の末裔。
太政大臣まで登り詰める。
鎌倉
初期
源氏源頼朝
(みなもと の よりとも)
平家政権を倒して鎌倉幕府を開く。
征夷大将軍になる。
鎌倉
中期~末期
平氏北条得宗家源頼朝の妻・北条政子の実家。
平清盛と同じ祖先をもつ桓武平氏。
室町源氏足利高氏
(あしかが たかうじ)
源頼朝と同じ祖先をもつ。
足利氏は鎌倉幕府で、得宗家以外で筆頭御家人だった。

室町幕府を倒した織田信長は平氏?

織田氏は、室町幕府の有力守護大名のひとつ、斯波氏(しば)の家臣だったことは確実ですが、出自がよく分かっていません。

斯波氏は、越前(福井)、尾張(愛知)、遠江(とおとうみ。静岡)などを世襲で守護大名をしていた。

織田信長の祖先は、尾張の斯波氏の家臣。

斯波氏は足利氏の分家で清和源氏。

系図では、平清盛(きよもり)の孫・平資盛(すけもり)の子孫を自称していますが、斯波氏の家臣だった藤原氏とも言われます。

信長自身、本名が藤原信長(ふじわら のぶなが)から朝臣信長(たいら の あそん のぶなが)に変わってるので、どっちとも取れる。

源平交代論では系図の平氏を採用してるみたい。

個人的には、こういう出自はかなり怪しいと思ってます。無名の地方豪族の可能性もある。

平安
末期
平氏平清盛
(たいら の きよもり)
関東から広まった国司の末裔。
太政大臣まで登り詰める。
鎌倉
初期
源氏源頼朝
(みなもと の よりとも)
平家政権を倒して鎌倉幕府を開く。
征夷大将軍になる。
鎌倉
中期~末期
平氏北条得宗家源頼朝の妻・北条政子の実家。
平清盛と同じ祖先をもつ桓武平氏。
室町源氏足利高氏
(あしかが たかうじ)
源頼朝と同じ祖先をもつ。
足利氏は鎌倉幕府で、得宗家以外で筆頭御家人だった。
安土平氏?織田信長平氏と藤原氏の流れがあると言われる。
はっきりしないのでなんとも言えない。

明智光秀(源氏)は無理やりでは?

本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、清和源氏の分家・土岐氏(とき)のそのまた分家・明智氏の出身です。

たしかに源氏ですが、武家政権を担っていたとは言えない。『三日天下』という言葉もあるくらいだし。

前政権の平氏(織田)を倒した源氏(明智)という一点で源平交代論に入るのか?

織田信長以降、源平交代論はどんどん無理しているように見える。

平安
末期
平氏平清盛
(たいら の きよもり)
関東から広まった国司の末裔。
太政大臣まで登り詰める。
鎌倉
初期
源氏源頼朝
(みなもと の よりとも)
平家政権を倒して鎌倉幕府を開く。
征夷大将軍になる。
鎌倉
中期~末期
平氏北条得宗家源頼朝の妻・北条政子の実家。
平清盛と同じ祖先をもつ桓武平氏。
室町源氏足利高氏
(あしかが たかうじ)
源頼朝と同じ祖先をもつ。
足利氏は鎌倉幕府で、得宗家以外で筆頭御家人だった。
安土平氏?織田信長
(おだ のぶなが)
平氏と藤原氏の流れがあると言われる。
はっきりしないのでなんとも言えない。
安土?源氏明智光秀
(あけち みつひで)
清和源氏の流れをくむ。
源氏 -> 土岐氏 -> 明智氏。

武家政権をになっていたとは言えない。

源氏になりたかった豊臣秀吉

豊臣氏は、藤原氏から独立した分家です。

秀吉は天下を統一したとき、室町幕府の最後の将軍・足利義昭(あしかが よしあき)に養子にしてくれと打診して断られました。

そこで次に目をつけたのが関白。関白だった近衛前久(このえ さきひさ)の養子になって藤原秀吉になり、関白になったところで独立して豊臣氏を興します。

明智光秀は三日天下なので、源平交代論から外せば、織田(平氏)から源氏になろうとした秀吉を源氏として見れるのでしょうが、秀吉は源氏、平氏になったことは一度もありません。

源平交代論は無理が通らないほど破綻していると思う。

平安
末期
平氏平清盛
(たいら の きよもり)
関東から広まった国司の末裔。
太政大臣まで登り詰める。
鎌倉
初期
源氏源頼朝
(みなもと の よりとも)
平家政権を倒して鎌倉幕府を開く。
征夷大将軍になる。
鎌倉
中期~末期
平氏北条得宗家源頼朝の妻・北条政子の実家。
平清盛と同じ祖先をもつ桓武平氏。
室町源氏足利高氏
(あしかが たかうじ)
源頼朝と同じ祖先をもつ。
足利氏は鎌倉幕府で、得宗家以外で筆頭御家人だった。
安土平氏?織田信長
(おだ のぶなが)
平氏と藤原氏の流れがあると言われる。
はっきりしないのでなんとも言えない。
安土?源氏明智光秀
(あけち みつひで)
清和源氏の流れをくむ。
源氏 -> 土岐氏 -> 明智氏。

武家政権をになっていたとは言えない。
桃山源氏?豊臣秀吉
(とよとみ ひでよし)
足利義昭の養子になって源氏になろうとするが、なれなかった。

最終的に藤原氏に属して豊臣氏を興す。

徳川氏はガチの源氏(ウソだけど)

徳川家康の本名は源朝臣家康(みなもと の あそん いえやす)です。

江戸時代の御三家の徳川姓、御三卿の一橋・清水・田安の3家、家康の旧姓・松平を名乗った藩主など、徳川氏の末裔の本名はすべて『源』です。

家康は、まだ戦国時代の天下を取るかどうかも分からないころ、自分の領地の国司・駿河守(するが。静岡)に任命してほしくて、源氏をアピールしました。

(駿河守になる直前に松平から徳川に改姓する嘆願を朝廷にしている。)

清和源氏の分家・新田氏の流れが徳川氏だと。個人的には、系図の改ざんだと思います。源氏だという信憑性は薄い。

新田氏の流れだと言い出したのは、家康のお祖父ちゃんとも言われます。

周到な源氏への改ざん

徳川氏、旧姓の松平氏が、新田氏の流れだという説明がため息が出るくらい用意周到です。

ここまで作り込むか? というほど細かく、しつこい。けど詰めが甘い。

新田氏の祖・義重の息子が土着する

徳川氏と新田氏のつながりはふたつあります。ひとつは得川(とくがわ)を名乗った説。もうひとつは世良田(せらだ)を名乗った説。

得川も世良田も、新田氏の領地の名前。

新田郡得川郷
新田郡世良田郷

両方とも今の群馬にあった村。新田氏の祖・新田義重(よししげ)の息子・新田義季(よしすえ)が新田郡に土着したところから始まります。

(新田義重は八幡太郎義家の孫。源頼朝と足利高氏と共通の祖先。)

義季は新田義季、得川義季、世良田義季といろんな呼び方がある。

足利高氏のライバル新田義貞に追い出される

同じ新田氏には足利高氏と争った新田義貞がいます。得川(世良田)に土着した新田の末裔は、高氏に敗れた義貞に侵入され追い出されました。

散り散りになって放浪の旅に出たそう。放浪は10代の子孫までつづいたとか。

(この時点で、もうウソでしょ? になるが。)

放浪の末、三河に定住

で、放浪に出た子孫で時宗(じしゅう。浄土宗の宗派)の寺に入った人が徳阿弥(とくあみ)を名乗り、三河の酒井郷に住み着いて男の子をもうけました。

(いや長い。よく作るわ。)

その後、徳阿弥は同じ三河の松平郷の太郎左衛門という人の家に婿入りして、酒井に残していた子どもを呼び寄せて家老にします。

その子が松平家の祖・松平親氏(まつだいら ちかうじ)。

(めちゃくちゃ。いきなり有力豪族の後継者になってる。放浪者が。)

これ、信じる人いる?

きついです。無理です。ウソです。

三河の松平郷が松平家の始まりは本当だったんでしょうが、そこから前がもうめちゃくちゃ。

松平郷には源氏の歴史がなかったんでしょう。10代の空白期間があって群馬から来ましたなんて。

10代って言ったら、 ウン百年も空いてます。NHKのファミリーヒストリーでも追えません。現代の取材力をもってしても。

平氏はもっと無理だったのかな?

平氏よりも源氏のほうが氏族としてはハイスペックだったので、出世のことを考えたら無理してでも源氏につなげたかったか?

ちなみに、徳川は最初の定住地・得川にかけてます。先祖返りしたとでも言いたいのでしょうか?

平安
末期
平氏平清盛
(たいら の きよもり)
関東から広まった国司の末裔。
太政大臣まで登り詰める。
鎌倉
初期
源氏源頼朝
(みなもと の よりとも)
平家政権を倒して鎌倉幕府を開く。
征夷大将軍になる。
鎌倉
中期~末期
平氏北条得宗家源頼朝の妻・北条政子の実家。
平清盛と同じ祖先をもつ桓武平氏。
室町源氏足利高氏
(あしかが たかうじ)
源頼朝と同じ祖先をもつ。
足利氏は鎌倉幕府で、得宗家以外で筆頭御家人だった。
安土平氏?織田信長
(おだ のぶなが)
平氏と藤原氏の流れがあると言われる。
はっきりしないのでなんとも言えない。
安土?源氏明智光秀
(あけち みつひで)
清和源氏の流れをくむ。
源氏 -> 土岐氏 -> 明智氏。

武家政権をになっていたとは言えない。
桃山源氏?豊臣秀吉
(とよとみ ひでよし)
足利義昭の養子になって源氏になろうとするが、なれなかった。

最終的に藤原氏に属して豊臣氏を興す。
江戸源氏徳川家康徳川家康の末裔の本名は全員『源』。
系図改ざんの疑いがある。

戦国武将は源平交代論を信じてた?

室町時代の末期ぐらいから江戸時代まで、一部では源平交代論が信じられていたという話があります。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康もそれを信じていたから、天下を取るためには前政権の逆の氏を名乗るんだと。

(前が源氏なら平氏、前が平氏なら源氏を名乗る。)

これはちょっとちがうかな~と思う。

信長は交代論よりも政治理念

信長は逆張りした可能性はある。旧体制とはちがうということを言いたくて。結果的には交代論と同じ答えになりますが、政治理念のほうが強いと思う。信長の行動からして。

家康は交代論を意識せずに源氏に執着

徳川家康はどうなんだろう。お祖父ちゃんの代から源氏をアピールしてたという話もあるので、交代論は無いと思う。

たしかに、松平から徳川に変えて源氏をアピールしているとき、信長は平氏だったけど、交代論を家康が意識してたら、信長が天下を取ることを確信していることになる。

まだ信長は尾張を統一したにすぎず美濃すら取って無くて、もちろん上洛もしていない。源氏の室町幕府もある。

やっぱり交代論を意識していたとは考えにくい。家康は先祖代々・源氏だと思ってたことを言ってただけだと思う。

どちらかといえば、武士のはしりだった平安初期の軍事力をもった国司の時代から、由緒ある天皇の子孫で、有力武将が多かった平氏・源氏を使いたかったんじゃないかな?

前政権がどうだったかは関係なく。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続いた。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

ほかの戦国武将はどうだったのか?

源平交代論を信じて逆張りした戦国武将がいないとは言い切れませんが、その可能性はかぎりなく0に近いと思います。

当時の有力な戦国武将は、下剋上と言っても鎌倉・室町からつづくお家柄の人が多く出自が分かってる人が多いので、逆張りしようがない。

とうぜん、由緒ある武家の源氏や平氏の末裔も多い。

美濃(みの。岐阜)の斎藤道三(さいとう どうさん)、相模(さがみ。神奈川)の北条早雲(ほうじょう そううん)、大和(やまと。奈良)の松永久秀(まつなが ひさひで)みたいな下剋上もありますが、彼らが源平交代論を意識したような形跡はない。

(そもそも北条早雲は伊勢平氏の末裔で平清盛と同じ系統のサラブレッド。)

有名どころでは源平交代論で動いた人はいないと思います。

結論。源平交代論は都市伝説

織田信長は自分の氏族の流れを探したらたまたま平氏があって、

豊臣秀吉は、源平と無関係なのがもろバレだから足利義昭の養子になろうとして、

徳川家康は、地元の先祖をたどっても見つからないから、無理やり群馬の新田氏とつなげて、

だと思う。交代論よりも、系図を信じてもらえるかを大事にしたんじゃないか?

信じてもらおうとする時点で、本当のところは相当怪しいですが。

(徳川氏はありえない。強かったからだれも突っ込めなかっただけで。)

あの時代の『ウソかホントかわからない やりすぎ都市伝説』(テレビ東京)みたいなもんだと思います。

戦国時代に『次の天下を取るのは誰だ!』の中で、

『そういや平氏と源氏が交互だよね?』

『そうなると次は平氏じゃね?』

『織田信長も平氏だよね? 勢いからしてあいつじゃね?』

みたいな噂話があったんじゃないかな?

豊臣秀吉がすべてぶっ壊したけど。

織田信長の登場の前から、都まわりは応仁の乱があったり三好氏(みよし)が室町幕府の将軍を殺したりで、覇権争いが始まっていた。

もしかするとこのころから源平交代論の噂が出ていたのかもしれない。

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