鎌倉幕府の歴代将軍一覧

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鎌倉時代は、本格的な武士の時代の始まりです。その中心の鎌倉幕府の将軍は、そのほとんどが武士ではありませんでした。

武士の棟梁が武士ではないという不思議な時代でもあります。その鎌倉幕府の将軍を少しずつ見ていきます。

記事を書いていくごとに、将軍の名前のところにリンクを貼っていきます。いつまでに終わらせると決めていないので、どれだけ進めていけるのか分かりません。

中世 鎌倉時代

源氏の棟梁の将軍

鎌倉幕府は源頼朝(みなもとの よりとも)が開きました。しかし、あとが続きません。

頼朝の嫡系子孫は息子の3代将軍 源実朝(みなもとの さねとも)で途絶えてしまいます。孫の代まで続くことができませんでした。

また、鎌倉幕府は一枚岩ではありませんでした。鎌倉の御家人は、源氏の棟梁でさえ自分たちのリーダーと認めていないところもあります。

2代将軍 源頼家(みなもとの よりいえ)は母親の実家の北条氏に将軍職をはく奪され、最後は暗殺されます。3代将軍の実朝の暗殺にも御家人の思惑がありました。

このように、『源氏の棟梁』が『武士の棟梁』として認められなかったため、鎌倉幕府の将軍が武士だったのは9代のうち3代だけになってしまいます。

御家人(ごけにん)

鎌倉時代の幕府に従う武士のこと。

家人を丁寧な言い方にしたもの。家人は、『主人の家の人』という意味で、主人に従う人という意味。

鎌倉の力が圧倒的だったので、家人にも『御』をつけるくらい気を使った。

御家人の主人は、鎌倉の将軍ではなく、鎌倉という武士の組織だった。そのため、鎌倉幕府が消滅すると御家人もほとんど消滅する。

今でも、鎌倉時代の言葉として使われることが多く、ほかは、『家臣』と同じ意味で使われることがあるくらい。

  • 鎌倉幕府の将軍が武士だったのは9人のうち3人だけ
  • 鎌倉幕府の将軍は、武士の棟梁ではなかった
1源 頼朝みなもとの よりとも1192清和源氏の流れをくむ源氏の棟梁。鎌倉幕府を開く。
急死したこと、その後の息子たちの最後のこともあって暗殺説がある。
2源 頼家みなもとの よりいえ1202 頼朝の次男。北条政子の子としては長男。
将軍の権力を絶大なものにしようとして御家人に反発される。
母親の実家の北条氏に将軍職をはく奪されて、鎌倉を追い出される。
その後、暗殺された。
3源 実朝みなもとの さねとも1203 頼朝の三男で頼家の弟。
御家人にそそのかされた頼家の息子で甥の公暁(くぎょう)に暗殺される。
文化人としても有名。

貴族の将軍

頼朝の嫡系が途絶えたため、頼朝の妹のひ孫になる九条頼経(くじょう よりつね)を将軍に迎えます。頼朝につながる子孫が武士の家にいなかったため、嫁に出した貴族の家から連れてくるしかありませんでした。

4代・5代の将軍は、五摂家の九条家から将軍を出したので、摂家将軍(せっけしょうぐん)と言います。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では、摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中で、さらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

詳しくは、『摂関政治とは何か?』にあります。

ここから将軍は、全く力を持たない形だけのものになっていきます。それに代わって幕府の権力を握ったのは、頼朝の妻・政子の実家である北条氏です。

将軍に代わって執権(しっけん)が幕府の長になり、それを代々北条氏が務めることになりました。その執権職を務めることができる北条氏の中の一部の家を北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)といいます。

4九条 頼経くじょうよりつね1226 両親がいとこで、2人とも頼朝の妹の孫になる。頼経は頼朝のひ孫。
父親と北条氏の確執から、執権・北条経時(ほうじょう つねとき)に無理やり将軍職を頼嗣に譲らされる。
その後、京都に追い出されるも、反得宗家の御家人からかつぎ出されることもあった。
5九条 頼嗣くじょう よりつぐ1244 6才で将軍になる。
父親の頼経が幕府に対する謀叛に関係したと疑われ、幕府は将軍を皇族から迎えることを決める。
14才で将軍を辞職し18才で死去。

皇族の将軍

九条家から迎え入れた将軍は上手く行きませんでした。

将軍を通して朝廷から幕府に口出ししようとする貴族、将軍を反得宗家としてかつぎ出そうとする御家人など、将軍を利用してのし上がろうとする人が出てきたからです。

そこで、周りが利用するのをためらうほどの人物を将軍にしようと、皇族から迎えることにします。

6代将軍になる宗尊親王(むねたか)は、第88代 後嵯峨天皇の第一皇子です。結局、鎌倉幕府が消滅するまで幕府の将軍は皇族が務めることになります。

  • 宮将軍(みやしょうぐん)
  • 皇族将軍(こうぞくしょうぐん)
  • 親王将軍(しんのうしょうぐん)

と呼ばれます。

6宗尊 親王むねたか1252 第88代 後嵯峨天皇の第一皇子。
母親が身分が低いため皇位継承から外されていた。
異母弟の第89代 後深草天皇から将軍宣下を受ける。
正室の不倫疑惑から謀叛を疑われ、北条得宗家から将軍職を辞めさせられ、京都に帰らされる。
7惟康 親王これやす1266 宗尊親王の嫡男。
父親の辞職で3才で将軍になる。
将軍の在任中は、臣籍降下して源惟康になっていたため、親王ではない。
将軍を辞める2年前に親王宣下を受け皇族に復帰する。
成人してからの長期在任は得宗家に都合が悪いので、次の将軍を決められてしまい、将軍を辞めさせられ京都に帰らされる。
8久明 親王ひさあきら1289 第89代 後深草天皇の第6皇子。
和歌の達人として有名。
得宗家の都合で辞めさせられ、京都に送られる。
しかし、幕府との関係は良かった。
9守邦 親王もりくに1308 父親は8代将軍 久明親王。母親は7代将軍 惟康親王の娘。
8才で将軍に就任する。
在任期間は最長の24年9ヶ月。
存在感がなく、第96代 後醍醐天皇の倒幕運動では、討伐の対象に入っていなかった。
幕府滅亡と同時に将軍を辞めて出家する。
幕府滅亡の3ヶ月後に亡くなったと言われるが、はっきりとしたことは分からない。
臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下の降りること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として行われることもあった。


親王宣下(しんのうせんげ)

天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。

正式に天皇の皇位継承権を持つことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗ることができる。

  • 第4-9代の貴族・皇族の将軍の最後は幕府の都合で辞めさせられている
  • その中で4人は追放処分だった。(久明親王・守邦親王以外)

 

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