藤原氏は古代の中臣氏から始まり、平安時代には日本の政治のトップに君臨して、明治の近代化になるまで日本の政治の中心にいました。
1000年以上もつねに政治の中心に居続けた氏族は他にいません。
天皇の子孫の源氏や平氏、圧倒的な力を持っていた戦国武将たちでもできませんでした。
続きを読む藤原氏は古代の中臣氏から始まり、平安時代には日本の政治のトップに君臨して、明治の近代化になるまで日本の政治の中心にいました。
1000年以上もつねに政治の中心に居続けた氏族は他にいません。
天皇の子孫の源氏や平氏、圧倒的な力を持っていた戦国武将たちでもできませんでした。
続きを読む太政大臣(だじょうだいじん)は、明治の近代化の前までの、日本の役職の一番トップです。ほかの役職とは圧倒的な力の差があるほど、誰でもなれるものではありませんでした。
歴史も長く、古代の飛鳥時代に始まり日本の歴史の大部分でトップであり続けました。
そして、時代によってなれる人も変わっていきました。
続きを読む第40代 天武天皇(てんむ)は、律令国家建設の大号令をかけて国づくりをおしすすめます。
日本の国のかたちをつくるという意味では明治維新に匹敵するかそれ以上かも。日本のもうひとつの近代化の父と言ってもいい。
ただ、多くの大号令をかけながら完成する前に亡くなってしまいましたが...
続きを読む第40代 天武天皇(てんむ)は、古代最大の内戦、壬申の乱に勝って即位しました。
どうやって即位したかは日本書紀に書かれているのですが、天武天皇が号令をかけてその子孫が作ったものなので『勝者の歴史』ともいわれます。
勝利した天武天皇は日本で初めて関所を作りました。優秀な武人だった証拠。
続きを読む第39代 弘文天皇(こうぶん)は即位した記録がありません。ずっと歴代天皇に数えられていませんでした。
明治3年、明治天皇が『弘文』の諡(おくりな)をおくり、歴代天皇に加わりました。
『大友皇子』(おおとも の みこ)のほうが知られています。
理由は簡単。弘文天皇を殺した人が直後に即位したから。
続きを読むこれまで、天智天皇の怪しげな人物像ばかり言ってきましたが、重要なことをたくさんしています。
外交しかり。内政もしかり。
いちばんは近江令(おうみりょう)の制定・施行でしょう。近江令は日本最古の本格的な律令とも言われ、のちの律令国家建設のベースになりました。
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