藤原氏は古代の中臣氏から始まり、平安時代には日本の政治のトップに君臨して、明治の近代化になるまで日本の政治の中心にいました。
1000年以上もつねに政治の中心に居続けた氏族は他にいません。
天皇の子孫の源氏や平氏、圧倒的な力を持っていた戦国武将たちでもできませんでした。
神話の時代から仕える側近中の側近
藤原氏のもとは中臣氏(なかとみ)です。中臣氏は代々、神道の神事を仕切る仕事をしていた氏族で、古代から天皇に仕えていました。
その中臣氏は神話の時代までさかのぼります。初代・神武天皇よりもはるか昔で人間もいない神々の世界。
天児屋命(あめ の こやね の みこと)は、天の岩屋戸神話でアマテラスが引きこもりになったのを引っ張り出したカミのひとりで、アマテラスの孫・ニニギノミコトが地上界へ降り立った(天孫降臨)ときのお付きの五人衆のひとりでした。
(五伴緒神(いつとも の お の かみ)という。)
このアメノコヤネが中臣氏の祖、藤原氏の祖です。
藤原氏は、天皇の登場前、人間が誕生する前から天皇にゆかりのある人(カミ)に仕えてきました。
(アマテラスは天皇の祖・皇祖神。)
神々の時代からずっと天皇に仕え近代まで残っている氏族はほかにいません。
三種の神器にもからむ主要人物
天の岩屋戸神話では、鏡を使ってアマテラスを引っ張り出すんですが、その鏡をもってかざしたのがアメノコヤネ。
この鏡はニニギの天孫降臨でアマテラスが自分の分身、守り神として孫に持たせました。これが三種の神器のひとつ八咫鏡です。
このあたりの話は神話なので歴史の事実ではありません。日本書紀や古事記に書かれたもので、その編纂に藤原氏は中心的な役割をしました。
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
捏造と言われればその可能性は大いにあるでしょう。神話ってそういうものです。
- P1 神話の時代から仕える側近中の側近
- P2 藤原氏の祖・藤原鎌足
- P3 律令国家建設の中心人物・藤原不比等
- P4 藤原四兄弟。藤原氏の流派が生まれる
- P5 藤原北家を復活させた藤原冬嗣
- P6 史上初。人臣摂政と人臣の太政大臣
- P7 摂関政治の完成。初代関白・藤原基経
- P8 歴代の藤原氏で最強の男・藤原道長の登場
- P9 摂関政治の衰退から院政へ
- P10 御堂流の分裂。五摂家の誕生。『藤原』を名乗るのをやめる。