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律令国家建設の中心人物・藤原不比等
藤原〇〇を歴史で最初に習うのは藤原不比等(ふじわら の ふひと)でしょう。鎌足の次男です。
不比等は父の功績の割に下っ端の役人からはじまりました。壬申の乱の影響です。
壬申の乱(じんしんのらん)
天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。
古代最大の内乱。
両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。
大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。
天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。
672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。
どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。
古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。
(ここに書いた内容も日本書紀から。)
大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。
いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。
壬申の乱は、天智天皇の息子・大友皇子(おおとも の みこ。弘文天皇)と弟・大海人皇子(おおあま の みこ。天武天皇)の戦争なんですが、中臣氏の多くは敗者の大友についていました。
不比等自身は子どもだったので戦争に参加していませんが、一族の多くが負けた方についたので、その後の中臣氏の天皇からの信頼は最悪です。
(壬申の乱に勝った大海人皇子が即位して天武天皇になった。)
壬申の乱は、天智天皇の近江朝を受け継いだ大友皇子とそれに反乱した大海人皇子の戦争。
中臣氏は鎌足が天智天皇の最側近だったことから、反乱軍につく人はあまりいなかった。
正規軍が賊軍に負けてしまったのが中臣氏の不幸。
不比等の時代は藤原氏決定ではない
『壬申の乱で大友皇子についた中臣氏』と言って藤原氏を使わなかったのに気づいたでしょうか?
藤原姓は鎌足個人に贈られたのが現実で、未来永劫、その子孫も名乗っていいになっていなかったから。
壬申の乱に鎌足の息子たちは参加せず、参加した一族は中臣氏です。結局、中臣氏が敗者になったので、藤原姓の存続は不比等にかかっていました。
結果を言うと不比等は大出世して天皇の側近に返り咲きます。そして第42代 文武天皇が即位したとき、『不比等の子孫だけが藤原を名乗っていい』というお墨付きをもらいました。
これがなかったら藤原氏はこの世に存在しません。
そのほかの同族の人たちは中臣氏のまま。目立ちませんが、平安時代にも中級・下級貴族として生き残りました。
中臣氏の仕事は先祖返りして、宮中祭祀や神事のプロデュースです。藤原氏は政治、中臣氏は祭祀という役割分担ができました。
不比等はどうやって成り上がったか?
本格的に律令政治を始めたのは壬申の乱のあと即位した第40代 天武天皇です。この政治はイコール皇親政治。皇太子が政権のトップで皇族が閣僚、役所のトップになります。
(天皇はすべてを見守る。)
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
不比等はこの環境の変化を察知して、おそらく、藤原氏の復活とか、もう一度政権トップに、とかのプライドを捨てたのでしょう。一官僚として地道に仕事をしていきます。
もともと不比等はこっちのほうが性に合ったのか、皇太子・草壁皇子(くさかべ の みこ)の補佐を務めるまでになりました。今で言えば首席補佐官です。
草壁は29才の若さで亡くなり天皇になりませんでしたが、草壁の母で天武天皇の皇后が第41代 持統天皇になり、そこから、文武・元明・元正天皇まで仕えました。
藤原不比等は、律令政治創世記のスーパー官僚です。
憲法・法律を整備するのが得意?
藤原不比等は、草壁皇子に仕えてたときから飛鳥浄御原令の編纂にたずさわっていたと言われます。その後の大宝律令の編纂では中心的役割を果たしました。
その後の修正版の養老律令の編纂にもかかわり、養老律令の施行前に亡くなります。
律令政治は法治です。律令の良し悪しで国の統治の良し悪しが決まります。日本の律令の創世記から完成、修正までたずさわった不比等の力は大きい。
藤原氏の祖は不比等とも言われます。それだけ不比等のやってきた功績は父・鎌足を超えているかもしれません。
(鎌足は終生、中臣として生きたというのもある。)
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
純臣下として初めて天皇の義父になる
藤原不比等は、娘の宮子を第42代 文武天皇に嫁がせます。文武天皇はかつて仕えた草壁皇子と元明天皇の子。これまで仕えてきた天皇全員が即位を望んだのが文武天皇でした。
宮子は文武天皇が即位すると皇后に昇格します。皇族とまったく血縁関係のない臣下の娘が皇后になったのは史上初。
不比等は臣下として初めて天皇の義父になります。そしてこの夫婦の間に生まれたのが第45代 聖武天皇。
不比等は史上初の臣下の外祖父にもなれたんですが、残念ながら聖武天皇が即位したときはすでに亡くなっていました。
不比等とその子孫だけに藤原姓を名乗るお墨付きをもらったのも、皇后の実家だから。初めて純臣下から皇后を出したんだから、実家に箔をつけてほしかったんですね?
臣下の娘が皇后になる前例はあった。古代の葛城氏や蘇我氏も臣下ながら娘を天皇に嫁がせている。
ただ、葛城氏や蘇我氏は先祖をたどれば天皇。何百年も経ってるとはいえ天皇の子孫だった。
また宮子は正確には皇夫人。皇后がいないときは皇后と同じ扱いで、皇后がいるときは准皇后みたいになる。
文武天皇には皇后がいないので宮子は皇后の格だった。
当時の皇后は皇族出身でないといけない慣習があり、皇族は親族結婚がベストとされた事情もある。
文武天皇がベストな結婚をしなかったのは、該当者がいなかったのか不比等の力が働いていたのかははっきりしない。
個人的には、複雑な人間関係がからんでたまたま起きたと考えている。
(皇親政治は皇族の権力闘争が激しく、殺し合い、陰謀が渦巻いていた。)
皇親政治なのに、なぜ不比等は天皇家と結びつけたのか?
藤原不比等が活躍した時代は皇親政治です。政治家の中心は天皇の子どもや孫たち。それなのに藤原不比等は娘を皇后に出すまでになりました。
これには皇親政治の性格と衰退があります。
皇親政治は、律令政治をはじめた天武天皇と兄・天智天皇の子どもが政権にいたときは上手く機能しました。
しかし世代が変わると皇族たちの結束が弱まります。兄弟といとこじゃファミリー感が薄れるので、権力闘争が激しくなりました。
在位中の天皇の息子が少ないので、『オレが天皇になれるかも?』という野心も政治家の皇子たちに生まれます。
歴史を振り返ると、この時代に在位中の天皇の息子が父から継いで即位したのは第45代 聖武天皇だけ。
『政治のトップになっていずれは天皇に』と思い描いたのでよけいに激しくなりました。失脚させるためのウソ、密告して処刑、死に追い込むことは当たり前。
この時代は女帝が多いです。政治家の皇子たちがたくさんいるんだから、そこから男帝を出してもいいのに出しませんでした。
皇親政治の衰退
皇親政治は皇太子が実質的な政権のリーダーですが、なかなかスーパー皇子は出てきませんでした。政権トップのためにある太政大臣になる人も現れません。
(結果的に皇親政治での太政大臣は持統政権の高市皇子(たけち の みこ)だけ。)
徐々に親王がいなくなり、王ばかりになってしまいます。
(親王は天皇になれる人。王は皇族でもふつうは天皇になれない。)
皇親政治での皇子の影響力が小さくなり、その他の氏族の力が大きくなっていきます。不比等が娘を皇后に出せたのは、天皇家が藤原氏の力を必要としていたからでした。
この『藤原氏から皇后を出す』が平安時代の藤原氏の絶頂期を作る一因になります。
不比等の兄・定恵(じょうけい)
藤原不比等は次男で兄がひとりいました。僧・定恵。
父・鎌足は、中臣氏が代々、神道を守ってきたのに長男を仏教の僧にします。当時鎌足は外交責任者もしていたので外国に目を向けさせたかったらしい。
定恵は遣唐使になって中国に留学します。帰国してすぐに亡くなってしまいましたが、不比等の憲法・法律を作る能力は兄の影響があったのかもしれません。
当時の遣唐使は、世界(中国)の最新技術を持ち帰ってきていたので。
- P1 神話の時代から仕える側近中の側近
- P2 藤原氏の祖・藤原鎌足
- P3 律令国家建設の中心人物・藤原不比等
- P4 藤原四兄弟。藤原氏の流派が生まれる
- P5 藤原北家を復活させた藤原冬嗣
- P6 史上初。人臣摂政と人臣の太政大臣
- P7 摂関政治の完成。初代関白・藤原基経
- P8 歴代の藤原氏で最強の男・藤原道長の登場
- P9 摂関政治の衰退から院政へ
- P10 御堂流の分裂。五摂家の誕生。『藤原』を名乗るのをやめる。