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第41代 持統天皇 国家を生んだ『日本の母』

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小倉百人一首に収録された持統天皇 by Wikipedia

歴代天皇 - (律令)国家・日本を作った天皇たち -

女帝の第41代 持統天皇(じとう)が、国名を倭から日本に変えたことはあまり知られていません。

それ以外にも、国家・日本の基本が完成したのは、持統天皇(上皇)の時代です。

まさに『日本の母』。

古代 飛鳥時代

  • 皇居
  • 飛鳥浄御原宮
    (あすかのきよみはらのみや)

    藤原宮
    (ふじわらのみや)

  • 生没年
  • 645年?月?日 ~ 702年12月22日
    大化元 ~ 大宝2
    58才
  • 称制
  • 686年9月9日 ~ 689年12月31日
    朱鳥元 ~ 持統天皇3
    4年
  • 在位
  • 690年1月1日 ~ 697年8月1日
    持統天皇4 ~ 持統天皇11
    8年
  • 名前
  • 鸕野讚良
    (うののさらら)
  • 別名
  • 高天原広野姫尊
    (たかあまのはら の ひろのひめ の みこと)

    大倭根子天之広野日女尊
    (おおやまとねこあめのひろのひめ の みこと)

  • 蘇我遠智娘
    (そが の おち の いらつめ)

    蘇我倉山田石川麻呂の娘
    (そが の くらやまだ の いしかわまろ)

持統天皇(上皇)のスゴさ

日本人は幕末・明治維新の歴史が大好きです。『近代化』といえば、この時代のことを思い浮かべるでしょう。

でも、日本の近代化はこのときだけではありません。それに匹敵する、それ以上のことが古代の日本にありました。

そのとき、政治の中心にいたのが持統天皇(上皇)、女帝です。

夫・天武天皇が道半ばで亡くなり、あとの国づくりを一手に引き受けました。

高杉晋作や小栗上野介の妻が歴史の中でなにかしたでしょうか?

西郷吉之助や大久保利通、木戸孝允の妻が近代国家・日本を作り上げたでしょうか?

持統天皇がしたことはそういうことです。

持統天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工 ※ 青印は持統・文武朝の政権メンバー。

古代の近代化は律令国家

古代の近代化は、乱暴に言えば『中国に認められる国家』です。当時の中国は世界最先端、東アジアの盟主で、『世界 = 中国』でした。

明治の近代化は欧米各国のコピーでしたが、このときは中国のコピーでした。それを学校では『律令国家の建設』と教えられます。

古代と明治の近代化のちがいはコピー元がちがうだけで、世界の中心、最先端にいた国を見てパクった点で同じです。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

飛鳥浄御原令の完成

持統天皇が夫・天武天皇から引き継いだものの象徴が飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)です。

持統天皇はこれを施行(689年, 持統3)しました。

もともと父で先々代の天智天皇近江令(おうみりょう)を作ったところから、日本の律令は始まります。

(その前に原始的な法典・17条の憲法とかあるが。)

それを発展させて、もっと良くしようとしたのが先代・天武天皇。

天武天皇は『飛鳥浄御原令を作ってルール化するぞ!』(制定)と言ったところで終わってしまい、『完成したから使うぞ!』(施行)までできませんでした。

持統天皇は夫が言い出したのを完成させて使えるレベルまでもっていきました。でも、まだ飛鳥浄御原令には『律』がありません。律令としては未完成です。

国家・日本の誕生

飛鳥浄御原令を施行した同じ年(689年)、国名を『倭(わ)』から『日本(にほん)』に変えました。

倭は自分でつけたというより、中国から呼ばれていたあだ名みたいなもので、

何を言っても従う。

女みたいにナヨナヨしている。

遠くにある。

野蛮人。

の意味があり、中国から見れば『自分らしさも出せない野蛮なだけの低知能の奴ら』。

世界とわたりあう国名としては最悪です。

日本 = 日の本 = 太陽の出る国

大逆転のイメチェンですね?

倭と聞いてまず、『ナメんなよ!』と、カチンと来るのですが、よく見ると中国はネーミングセンスがあるな、と思う。

日本人は昔から日本人ですね?

調子にのって都を新築(藤原京)

飛鳥浄御原令を施行した持統天皇は次の年(690年, 持統4)、新しい宮殿を作りはじめ、4年後に都を遷しました。(694年, 持統8)

藤原京は日本ではじめて条坊制(じょうぼうせい)を採用した都で、世界に通用する都を作った持統天皇のイキった顔が浮かびます。

ただ5年後、ただの調子乗りだということに気づくのですが。

690年は持統天皇が正式に即位しました。正式に即位したから藤原京を作ろうと思ったか?

(それまでの5年間は称制。)

称制(しょうせい)

天皇がいない状態で代わりの人が政務をとること。

皇太子や皇后が代わりをつとめた。

神功皇后や天智天皇など。

藤原京と平城京

藤原京(ふじわらきょう)

690年(持統4)、女帝・第41代 持統天皇が造営を開始し、4年後(694年, 持統8)に遷都した都。

日本ではじめて中国式の都を建設した(条坊制を採用)。

条坊制は東西と南北に網の目(碁盤目)に道路を作ったもの。いまでも京都に残る。

平城京(へいじょうきょう)

710年(和銅3)、女帝・第43代 元明天皇のときに遷都した本格的な中国式の都。

707年(慶雲4)に遷都の審議がはじまり、元明天皇が708年(和銅元)に決定した。

藤原京とちがい、遷都が決まってから2年しかたってない。未完成のまま引っ越して、そのつど増築されたと考えられている。

大宝律令の撰定・施行

飛鳥浄御原令を施行して10年、ぜんぜん使えないことに気づきます。

700年(文武4)、藤原不比等(ふじわら の ふひと)たちに命じて飛鳥浄御原令の改定作業をはじめました。

また、701年(大宝元)、大宝律令の撰定作業をはじめ、702年(大宝2)に施行します。

『制定』と『撰定』のちがい

2つの法典は施行の前に、飛鳥浄御原令は『制定』、大宝律令は『撰定』になっています。

制定は『作って決めるぞ!』

撰定は『選んだものを整理してまとめるぞ!』

制定はいちから作る、撰定はオリジナルから必要なものを取り出すイメージ。

飛鳥浄御原令は自分たちで作ったのにしっくりこなかったようです。律もないし。

大慌てで律令を作り直す

飛鳥浄御原令は、言ってしまえば思い通りにできなかった失敗作。

そこで中国の律令を完コピしました。そのあと、自分たちが使うものだけを整理してまとめたのが大宝律令です。

大宝律令は撰定から施行まで1年しかかかっていません。

(飛鳥浄御原令は制定から施行まで8年かかっている。)

飛鳥浄御原令はオリジナル作品の失敗。

大宝律令はパクってちょっと改良。

大宝律令は『自分で作ってダメだったからとりあえずパクってみようぜ!』から始まっているので、これはこれでしっくり来ませんでした。

そこで50年後、日本に合うように改良を加えたのが養老律令です。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

大宝律令は文武天皇

持統天皇は、697年(持統11)、孫の軽皇子(かる の みこ)に皇位をゆずって上皇になっていました。

大宝律令は撰定から施行まで文武天皇の時代です。

ただ、上皇になった持統天皇は文武天皇と並んで座り一緒に政治を行なったと言われます。

大宝律令も持統がリーダーシップをとったでしょう。当時18才の文武天皇は何も分かってないでしょうから。

(持統上皇が亡くなるのは702年。大宝律令施行の直後。)

手柄はぜんぶ孫にゆずる

飛鳥浄御原令を施行し、都を移して、国家のシステムをがっちり固めた持統天皇は孫に皇位をゆずり上皇になりました。

上皇になってもそのまま政治を仕切ります。アグレッシブな会長ですね。

(15才の孫に社長をゆずったのでしょうがない。)

持統上皇は702年(大宝2)、大宝律令を施行した同じ年、大宝律令の完成をみて安心したかのように亡くなりました。

文武天皇はごっつぁんゴールです。

持統上皇は、息子・草壁皇子が亡くなったときから決めていたように見えます。自分の仕事は孫にゴールを決めさせることだと。

686年
(朱鳥元)
天武天皇が亡くなる。
持統の称制。
689年
(持統3年)
飛鳥浄御原令の施行。
国名を日本に決定。
690年
(持統4)
持統天皇が正式に即位。
藤原京の造営開始。
694年
(持統8)
藤原京へ遷都。
697年
(持統11)
持統天皇が退位。
上皇になる。

文武天皇が即位。
701年
(大宝元)
大宝律令の撰定開始。
702年
(大宝2)
大宝律令の施行。
持統上皇が亡くなる。
持統天皇の政治

日本の常識をつくる

持統天皇・上皇の時代は、いまの日本に残っている習慣、制度が作られたことが多いです。

このとき、過去の習慣やしきたりをルール化したので、今でも残りやすかったのでしょう。

(とくに、夫・天武天皇がやったことをルール化した。さすがデキた嫁。)

もちろんですが、飛鳥浄御原令や大宝律令などの『ルールを作ること』にかなりのエネルギーを使っていたことも影響しています。

式年遷宮のはじまり

式年遷宮(しきねんせんぐう)は、伊勢神宮の内宮・外宮の建物を20年ごとに建て替え、まつってる神さまを移します。

20年ごとに行われる神さまの引っ越しですね?

内宮の式年遷宮は690年(持統4)にはじまりました。

もとは壬申の乱のとき、先代・天武天皇が戦勝祈願したのを持統天皇が引き継いだもの。

692年(持統6)には外宮の式年遷宮もはじまりました。

これは、戦国時代の100年くらいの中断期間を経て今でもつづいています。

壬申の乱(じんしんのらん)

天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。

古代最大の内乱。

両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。

大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。

天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。

672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。

どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。

古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。

(ここに書いた内容も日本書紀から。)

大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。

いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。

式年遷宮は、持統天皇が即位した年、藤原京の造営年から始まる。

大嘗祭(だいじょうさい / おおにえのまつり)

大嘗祭は、天皇が即位した年にだけ行われる収穫祭のことです。

(天皇は人生で1回しかしない。重祚しない限り。)

重祚(ちょうそ)

一度退位した天皇が再び天皇になること。二度目のときの名前は新しくつけられる。

男性天皇は1人も重祚していない。

民が作ったコメをアマテラスにお供えして、そのあと新天皇がそのコメを食べるというシンプルな祭り。

天皇の祭祀のなかでは重要なものとされています。これを持統天皇が飛鳥浄御原令で制度として確立させました。

(691年11月, 持統5)

『日本書紀』では、673年(天武2)に天武天皇が大嘗祭を行なったとされている。

これが最初。でもこれは制度ではなく天武天皇がやりたかったから。

これをルール化したのが持統天皇。

もちろんですけど、2019年(令和元)にも大嘗祭がありました。

令和の大嘗祭

天皇が年1回秋に行う新嘗祭(にいなめさい)があります。

これも収穫祭で皇室祭祀では重要なもの。

大嘗祭は天皇が即位1年目に行う新嘗祭。

歴代天皇で最初の火葬

日本の火葬のはじまりは700年(文武4)とされます。その人はなんと、三蔵法師の弟子。

(孫悟空、猪八戒、沙悟浄の兄弟弟子? なわけないか。)

道昭(どうしょう)和尚は、藤原鎌足の長男・定恵と同じ遣唐使の船で中国の渡り、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に弟子入りしました。

第37代 斉明天皇のときに帰国します。その道昭和尚の遺言が火葬でした。

702年(大宝2)、持統上皇が亡くなります。生前、上皇は遺言を残していました。

喪服を着てはいけない。

死者を偲んで泣き叫ぶ儀式の禁止。

役人は通常通り仕事すること。

葬儀は質素倹約で。

これだけのことを決めるんですから、おそらく火葬もそうだったのでしょう。過去に例がないことを勝手にすることはないでしょうから。

(あのころの役人も前例がないことは嫌い。)

道昭和尚は留学するくらいの高僧なので、火葬されたことは天皇にも伝わってたはずです。

それに感化されたんでしょうね?

火葬は仏教の葬り方なので、持統天皇は仏教徒なのか? と思いがちですが、そうではない。

遺言にあるように、自分が死んだときは、なるべく目立たないようにしたかっただけだと思う。

ここから歴代天皇は、火葬と土葬のどちらかで葬られます。

土葬一辺倒に戻るのは、徳川家光の時代の後光明天皇から。

(朱子学(儒教)の影響。)

そして明治には法律で土葬に固定する。

(廃仏毀釈の影響。仏教を極端に排除した。)

で、いまの上皇さまのご希望で、400年ぶりに火葬が復活することになっている。

藤原鎌足の長男・定恵(じょうえ / じょうけい)

藤原氏のもとは中臣氏(なかとみし)です。中臣氏は、日本古来の土着宗教を代々監督してきた氏で、神道を守ってきた人たちでした。

鎌足は、最先端の知識を得るためには仏教が必要だと考え、長男を僧に、次男・不比等(ふひと)を官僚にするために育てました。

日本の仏教は神道とごちゃまぜなのも当然です。神道を守る家の長男が僧になるくらいだから。

上皇の制度化

太上天皇(上皇)を制度化したのも持統天皇です。歴代の上皇のスタートが女性だったことはあまり知られていません。

もちろんですが、譲位がルール化されたのもこのとき。

譲位(じょうい)

天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。

第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。

はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。

大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇

持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。

(制度化されてから2/3が譲位)

なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。

それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。

譲位の理由はいろいろ。

次世代が育つ。
そのときの権力者の都合。
自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。
(権力闘争に利用される)
病気。
仏教徒になりたい。
幕府に抗議するため。
天皇の意思。
理由なし。
あたりまえだと思っていた。

譲位をするから上皇がいるわけで、譲位なしで上皇はありえないし、上皇なしで譲位はありえません。

この2つはセットです。それをルール化したのが持統天皇。

『天皇』の制度化

『天皇』は、中国の皇帝が自分の呼び名に使った言葉で、日本では『スメラミコト』『スメラキ』をあてたものです。

中国では天に認められたものが統治する思想があるので

に認められた帝』。

天の思想は北極星を中心に考える。

日本では推古天皇のとき、中国にあてた親書に使われたのが最初で、先代・天武天皇は好んで『天皇』を使ったと言われます。

でもどちらも浸透しませんでした。推古天皇や天武天皇は勝手に名乗っただけ。

(忖度してだれも使おうとしないところがスゴイ。大王はノリノリなのに。)

これを制度化したのも持統天皇・上皇です。

はっきりしているのは『大宝律令で天皇号を制度化した』ですが、それ以前に『日本』、『太上天皇(上皇)』を決めているので、このとき天皇号もルール化したという説が多いです。

(国号、太上天皇をルール化して天皇をしないのは不自然。)

(国名を日本にした689年から701年の大宝律令撰定の間に決まったか?)

持統天皇のルール化は、皇室の祭祀やあり方に関することが多く、今では重要な祭祀やルールとして残っている。

日本の皇室の基礎を作ったのも持統天皇。

まるで聖母

持統天皇は、弱者を救済する政策を多くしました。

身寄りのない人や、お年寄りに布帛(ぬのきぬ)を贈ったり、高麗(こうらい)や新羅(しらぎ)などの渡来人に、土地や食料を用意して生活できるようにしたり。

政治家としては、甥っ子を殺すなどしながら、かなりワンマンでやって来ましたが、民を見る目は女性ならではだったかもしれません。

(怒らせたら手に負えないのも女性っぽい。これって、いま言っちゃダメなこと?)

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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

文章が苦手な人にはマンガ本もあります。


天皇の本10選

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