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藤原氏ってなんだ? どうして日本の政治の中心にいつづけたのか?

藤原氏

ご覧のページは 8 / 10 です。先頭ページはこちら。

歴代の藤原氏で最強の男・藤原道長の登場

藤原兼家(かねいえ)待望の第66代 一条天皇が即位しましたが、4年後に兼家は亡くなります。そのあと息子の道隆(みちたか)が関白になりました。

その道隆も5年後に亡くなります。そして次に関白になったのが花山天皇をだまして退位させた道兼(みちかね)。その道兼は就任して10日くらいで亡くなりました。

(だまし討ちした祟り?)

道兼は『七日関白』という不名誉な称号まであります。

そして次に登場するのが、道隆・道兼の弟・藤原道長(みちなが)です。藤原氏と言えば.. のあの男。

一条天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

関白にならない戦略家・道長

藤原道長は、父や兄たちに続いて藤原長者になりましたが関白にはなりませんでした。

道長が藤原長者になったとき、一条天皇と皇太子(のちの三条天皇)は父や兄たちの意向でなったので、自分の孫(のちの後一条天皇)を天皇にしたい道長はあまり深く関わりたくありません。

道長は一条天皇、三条天皇のときは関白の一歩手前、内覧左大臣でガマンします。

清少納言や紫式部、和泉式部が活躍したのもこの頃。一気に平安文化が花開きます。

三条天皇をイジメ倒して退位させる

一条天皇と道長は上手くやっていました。というか道長が牙を隠していた。それが第67代 三条天皇になると一気に開放します。

三条天皇は即位前から正妃がいたのに、道長の娘を娶らせ皇后にしました。

そこからあとは『やめろコール』の連続。三条天皇は『自分の体の調子がいいと左大臣の機嫌が悪い』と言っていたそうなので、それがすべてを物語っている。

三条天皇は、元々の正妃との間の皇子・敦明親王(あつあきら)を皇太子にする条件をつけて退位しました。

三条天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

九条流・御堂流を守るために必死の道長

なんでここまで天皇をイジメるのか?

このイジメは道長自身だけじゃなく、藤原摂関家の命運がかかっていました。三条天皇は摂関家と折り合いが悪い冷泉天皇の系統で、円融天皇系統に戻す必要が道長にはありました。

また三条天皇は仲の悪さからなのでしょう。現・摂関家からお祖父ちゃん世代まで戻って別系統から嫁をもらっています。

道長からすると家の存続を一手に背負ってる。自分が失敗すると、お祖父ちゃんの兼家(かねいえ)からつづいたものが壊れるかもしれない。お祖父ちゃんから続いた系統から摂政関白を出せなくなるかもしれない。

なりふり構わずとはこのこと。三条天皇退位時の敦明親王を皇太子にするバーター取引に応じたのも、守るつもりはさらさらなかったから。

(敦明親王は藤原師輔の弟・師尹のひ孫なので、道長とはラインが違い距離がある。)

藤原道長が守ろうとした藤原氏のライン、藤原師輔の系統を藤原北家・九条流(くじょうりゅう)、道長の子孫の系統を藤原北家・御堂流(みどうりゅう)という。

道長が御堂関白と呼ばれたことが由来。でも道長は関白にはなっていない。摂政にはなったが。

道長にとっては九条流の死守が天皇をイジメてでもしたかったこと。

このころには摂関家の外には敵がなく、内部の主導権争いが激しかったことが分かる。

藤原氏の絶頂期。そこにいたのは藤原道長

藤原道長待望の第68代 後一条天皇が即位すると、さっそく皇太子をイジメ倒して辞めさせます。そして天皇の弟(次の後朱雀天皇)を皇太子にしました。皇太子も道長の孫。

三条天皇とのバーター取引をあっさり破棄。)

ここで前代未聞なことが起きます。三后がすべて道長の娘。こんなことできたのは道長以外だれもいません。

太皇太后
(たいこうたいごう)
2代前の皇后。藤原彰子
(しょうし)

後一条天皇の母。
皇太后
(こうたいごう)
先代の皇后。藤原妍子
(けんし)

後一条天皇の叔母。
皇后
(こうごう)
天皇の正妻。藤原威子
(いし)

後一条天皇の叔母。
三后

皇后の中でも、一番先輩の太皇太后が一番発言力があり、それが天皇の母。その後ろに道長がいる最強の布陣。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も なしと思へば

藤原道長

このころに道長が詠んだ歌です。勉強嫌いの人でも聞いたことがあると思う。意味はそのまま読んでもなんとくなく分かりますが、こんな感じ。

この世は自分のためにあると思う。

この満月のように、自分には欠けているところが何一つない。

天下を取った道長の当時の絶好調ぶりはこの歌で十分でしょう。

この絶頂期は、道長の長男・藤原頼通(よりみち)が摂政関白になる頃までつづきます。でもそのころから藤原氏の衰退が始まります。

太政大臣だけになる人が出てくる

藤原道長の時代から、摂政関白になっていないのに太政大臣になる人が出てきます。摂関家の中で摂政・関白になってもおかしくないのに、いろんなめぐり合わせが悪くてなれかったとかあったのでしょう。

死後に贈られるのなら分かりますが、バリバリ現役のときになる人もいました。

また、摂政・関白を辞めてだれかに譲った後に太政大臣だけ残す人もいました。

摂関家の人材が豊富で良かったと取るべきか、摂関家のバランスを取るのに使われたと取るべきか、はっきりしませんが、おそらく両方でしょう。

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