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フェードアウト後の第1期のつづき
清和源氏、武将の源氏が濃すぎて疲れてきたので残りはダイジェストでいきます。
(その中で気になるところだけ補足。)
13 | 後三条源氏 (ごさんじょう) | 源有仁(みなもと の ありひと)ひとり だけ。 左大臣までなったが後継者がいなくて断 絶。 武士の中には後三条源氏を名乗るものが いたが自称の可能性が高い。 |
14 | 後白河源氏 (ごしらかわ) | 反平家の挙兵をした以仁王ひとりだけ。 くわしくはあとで。 |
天皇になってもおかしくないのに居場所がない
以仁王(もちひとおう)は源氏になった皇族で一番の不幸かもしれません。第77代 後白河天皇の息子なんですが親王宣下すらさせてえもらえずにいました。
親王宣下(しんのうせんげ)
天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。
正式に天皇の皇位継承権をもつことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗る。
男性が親王。女性が内親王。
天皇の子ども・孫など直系子孫が宣下を受けた。
天皇の子孫でも宣下を受けてない人は王になる。民間人になると王の称号もなくなる。
はじめて親王宣下をしたのは奈良時代の第47代 淳仁天皇。
親王宣下のないころ、飛鳥・奈良時代の皇族は、天皇の子どもが親王(内親王)、孫から王(女王)だった。
大宝律令の中で制度化したと思われる。
(正確な決まりはない。)
親王宣下は皇族の生まれた立ち位置で自然に決まっていた制度を指名制に変えた。
宮家(世襲親王家)は、本来なら王や民間人になるような人だったが、宣下を受けて親王を名乗った。
明治以降、皇室典範で親王宣下のルールは決められている。
天皇の孫までは親王(内親王)、それ以上血統が離れると王(女王)。
範囲が子から孫へ広がったのは、昔は天皇の子どもが多かったのと、奈良時代は皇族が政権の役職・官僚のトップを務める皇親政治で、そのランクにも使われたので、範囲が広すぎると権力闘争で安定しないから。
弟は天皇になるんですが(第80代 高倉天皇)、父・後白河上皇は平家との衝突を避けるために以仁王を皇位継承から外したとされます。
高倉天皇の母は平滋子(たいら の しげこ)。平清盛の妻の妹。以仁王の親王宣下を阻止したのは滋子という話もある。
経過はどうあれ、以仁王は親王にあることも許されず王のままだったという結果だけ見れば、皇族としては生き地獄です。
打倒平家のきっかけを作った以仁王(もちひとおう)
そんな中、事件が起きます。父・後白河法皇が、平清盛(たいら の きよもり)に幽閉されて朝廷から追い出されます。
そのとき、以仁王は唯一の救いの知行国を没収されました。
知行国(ちぎょうこく)
上皇や貴族、寺社勢力がもっている知行を行使できる領地。
知行は領地支配権のこと。
知行を行使する人を知行国主(ちぎょうこくしゅ)という。
知行国主には、自分の知行国の国司の推薦ができた。(ほぼ任命権を持っていたに等しい。)
知行国主は、国司を通してあたかも自分の領地のようにできた。もちろん、領地からいくらか貢物を受け取る権利ももっていた。
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
以仁王にとって、居場所なし、職業なしに加えて、収入ゼロが加わります。これに怒った以仁王は挙兵するしかありませんでした。
そのとき計画がバレて平家の圧力で源以光(みなもと の もちみつ)と名乗らされました。この臣籍降下は懲罰です。皇籍を剥奪するために源氏にされました。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
何もかも奪われて失うものが無くなった以仁王はやるしかありません。全国に平家打倒を呼びかけ兵を挙げました。
結果を言うと大惨敗。そして戦死。
以仁王は踏んだり蹴ったりの人生でしたが、これが平家に不満をもつ武士たちに勇気を与え、木曽義仲(きそ よしなか)や源頼朝(みなもと の よりとも)などの源氏の挙兵につながります。
挙兵した以仁王を助けたのは源頼政(みなもと の よりまさ)。
頼政は武士の源氏のメイン・河内源氏ではなく摂津源氏。
河内源氏は平家に都から一掃され立場が弱くなっていたが、摂津源氏だったことで平家政権の中で唯一の源氏として残っていた。
以仁王を助けたのは唯一残された源氏の意地か?
- P1 源氏だけじゃない天皇の子孫の氏族
- P2 源氏は何天皇の子孫?
- P3 第1期 左大臣を送り込む貴族の一大勢力
- P4 フェードアウト後の第1期源氏
- P5 貴族の面目を保った村上源氏
- P6 真打ち登場。武士の源氏(清和源氏)
- P7 河内源氏(かわちげんじ)って何だ?
- P8 源氏はヤンキー気質
- P9 フェードアウト後の第1期のつづき
- P10 第2期 幕府の都合で源氏になる