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武士はどこから来たのか? なぜ生まれたのか? 日本は軍事が嫌いだから生まれたかも。

武士 画像

武士が生まれたのには、長い歴史の中でポイントになる部分がいくつもあります。

たんに豪族から武士になっただけでは片付けられません。天皇の政策だって影響しています。

『武士が生まれた理由はこれだ!』と決められず、合わせ技一本のようにポイントの積み重ねで生まれました。

武士には強いイメージがあります。もちろん、腕っぷしが強い集団でした。しかし、武士は強いから日本の中でトップに君臨したわけではありません。

むしろ武士は弱いから生まれました。

(弱いというより干されつづけた。)

どいうこと? でしょうが、順を追って説明するので分かると思います。

武士の祖先・豪族(ごうぞく)

古代・奈良時代より前の軍事力をもった人たちに豪族がいます。このころの日本は、天皇が豪族をまとめて日本を統治するシステムでした。

天皇のそばで長く仕えた有名な氏族、大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)は、もともと武器を作っていたなど軍事専門の氏族で、天皇を中心とした政権でも軍事担当の氏族でした。

豪族の特長は、

土着した地元がある。

血族集団。

軍事力が強い。

権力に近い氏族もいる。

???

武士と何がちがうの? と思うでしょう。はっきりいってちがいはありません。あるとすれば、

時代と政治システムがちがった。

あとで豪族と武士のちがいの答え合わせをします。とりあえず今はこの程度にしといてください。

このころの国軍の総司令官は天皇です。じっさい先頭を切って戦場に向かった天皇もいます。最後に総司令官として遠征したのは第37代 斉明天皇。女帝。斉明天皇は遠征先の九州で亡くなりました。

武力を担当する役人

古代の飛鳥・奈良時代に律令政治がはじまりました。天皇がまとめる豪族たちの役割を役人・官僚に変えます。

あまり知られてませんが、日本の律令政治は皇親政治です。

皇親政治は、天皇の息子や孫たちが役人のトップ、政権の中枢に入る政治システム。今でいうと、各省庁の事務次官、内閣の閣僚を天皇の息子や孫が務めるイメージ。

その下で有力豪族だった人たちが天皇の子孫たちを支えます。

もちろん軍事専門の役所もありました。近衛府(このえふ)です。近衛府は宮中警護の役所で左右の2つがあり、それぞれ大将がいました。

(右近衛大将と左近衛大将(うこのえたいしょう, さこのえたいしょう))

近衛府の役人は令外官です。

令外官(りょうげのかん)

律令制度の令(行政法)にない官位のこと。特別職。臨時職。

にある(令にない)位』。摂政関白太政大臣内大臣など。

正式な官位じゃないので比較的自由な立場で仕事ができた。また、正式な官位と兼務ができた。

第50代 桓武天皇は軍政改革で、征夷大将軍検非違使を新たに作った。

律令制は法が現実に合わなくなってもそのままにして、新しい法を追加して臨機応変に変えていくので、それにならって令外官も都度追加された。

ただ、正式な官位よりも重要なものも多い。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

ちなみに近衛大将も、皇族の人が将来政権トップになるキャリアを積むために務めた役職です。

今でも、軍のトップの役職は大将・中将・少将という。

(自衛隊はごまかして別の言い方をするが。)

この呼び方は近衛府から来ている。近衛府には大将の下に中将・少将があった。

律令国家・日本は国軍が小さい

律令政治では国軍がありません。都を警護する近衛府が、いざ戦争というときに国軍の代わりを務めました。

今で言えば、警視庁と警察庁、自衛隊はなく皇宮警察だけがあり、有事のときだけ皇宮警察が代わりにやるイメージ。

『おいおい、警察なくてどうやって治安を守るの?』

と思いますが、今の最高裁判所にあたる刑部省(きょうぶしょう)があり、捜査機関は全国に散らばった国司が務めました。

(国司は地方裁判所の長官でもあった。)

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

古代の日本は、全国の治安は裁判所と県警だけで事足りるほど平和。外国と戦争もしなくなったので常設軍はほぼなし。

むしろ、都周辺のほうが争いごとが多くて宮中警護が重要視されました。

当時の人口は500万人くらいで7万人が都にいたので、今の東京一極集中よりも都の人口密度は高いです。それに合わせると軍の配置が薄いとは言えません。

国軍がなくても納得。

東北はまだヤマト(日本)に従っていないものが多く、日本に組み入れられる途中だったので、大規模な反乱は東北が中心だった。

そこで常設軍は東北の鎮守府(ちんじゅふ)にあり鎮守府将軍がいた。

鎮守府将軍は日本の軍司令官の最高峰だったが、あくまで立場は東北方面の司令官に過ぎない。

次は 国軍の放棄。軍事の地方分権
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