第86代 後堀河天皇 なれるはずのない親子が天皇・上皇になる

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後堀河天皇肖像画

歴代天皇 - 鎌倉幕府が認めないとなれなかった天皇たち -

後堀河天皇(ごほりかわ)は、鎌倉幕府がはじめて天皇の即位に口出しして即位した天皇です。

本当なら天皇になるはずはなかったので異例づくしでした。一番びっくりしたのは後堀河天皇の父親でしょう。

中世 鎌倉時代

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあんのみや)

  • 生没年
  • 1212年2月18日 ~ 1234年8月6日
    建暦2 ~ 天福2
    23才
  • 在位
  • 1221年7月9日 ~ 1232年10月4日
    承久3 ~ 貞永元
    12年
  • 名前
  • 茂仁
    (ゆたひと/とよひと)
  • 別名
  • 後堀河院

  • 藤原陳子
    (ふじわら ちんし)

    北白河院

    持明院基家の娘
    (じみょういん もといえ)

  • 皇后
  • 藤原有子
    (ふじわら ゆうし)

    安喜門院
    (あんきもんいん)

    三条公房の娘
    (さんじょう きんふさ)

  • 皇后
  • 藤原長子
    (ふじわら ちょうし)

    鷹司院
    (たかつかさいん)

    近衛家実の娘
    (このえ うえざね)

  • 皇后
  • 藤原竴子
    (ふじわら そんし)

    藻壁門院
    (そうへきもんいん)

    九条道家の娘
    (くじょう みちいえ)

後鳥羽直系を排除したらとんでもないことに

鎌倉幕府は承久の乱のあと、3上皇(後鳥羽土御門順徳)を京都から永久追放し、仲恭天皇を退位させることにします。

太上天皇(だじょうてんのう)

退位した天皇のこと。

上皇(じょうこう)

太上天皇の短縮した言い方。

太上法皇(だじょうほうおう)

出家した上皇のこと。たんに法皇という。

院(いん)

上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。

詳しくは『太上天皇とは何か?』

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宮内庁HPより抜粋 色付きマークは筆者加工

でもここで問題が発生しました。

系図を見れば分かるように、承久の乱の処分は後鳥羽天皇の直系の排除でした。これには載っていませんが、後鳥羽系統の血筋の人間は、根こそぎ排除されています。

でもそれは大変なことでした。後鳥羽上皇の系統は40年近くも続いてきた、本流だったからです。

これで次の天皇になる人がいなくなってしまいました。

そこで幕府は、後鳥羽上皇の兄で、すでに寺に入って僧侶になっていた守貞親王の息子・茂仁王(ゆたひとおう)を天皇にします。

後堀河天皇です。10才でした。

emperor list image
宮内庁HPより抜粋 色付きマークは筆者加工

系図を見るとどれだけ無理をしているのかが分かります。あまりにも人材がなくて、4代前までさかのぼって連れてきました。

家族で事業を経営をしていて、おじいちゃんの兄貴の子供をいきなり連れてこられても困るでしょう。会ったこともないのに。

普通に乗っ取りだと思うはずです。

後堀河天皇は民間人になるはずだった

後堀河天皇は、茂仁王という呼び方でも分かるように、親王ですらなく民間人といってもよいほど皇族から離れていました。

天皇に即位する前、すでに寺に入って修行を始めていたくらいです。一応まだ『王』だったので名目上は皇族でしたが、親王宣下を受けていないので、天皇の後継者候補ではありませんでした。

親王宣下(しんのうせんげ)

天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。

正式に天皇の皇位継承権を持つことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗ることができる。

そもそも父親の守貞親王は、すでに自分から出家して皇族から離れていました(持明院宮 行助入道 親王(じみょういんのみや ぎょうじょにゅうどう しんのう))。

守貞親王は、安徳天皇・平家と一緒に都落ちした経験があります。それが原因で、皇位の系統は弟の後鳥羽天皇に移ったので、皇位継承のラインから外れていました。

じっさいに、皇位の継承は後鳥羽ラインで進みます。もう4代も続いたので、もう自分はないだろうと思って僧侶になってあきらめていました。

それなのに突然、自分の息子が天皇になることになります。おそらく守貞親王が一番びっくりしたのではないでしょうか?

ただの伝説ですが、守貞親王は、安徳天皇が入水自殺をするときに、身代わりになって死んで、安徳天皇を逃がしたという話があります。

これは、茂仁王の母方の祖母が、平清盛の弟の娘なので、『逃げた安徳天皇(守貞親王)の息子で平家の血筋の人間が天皇になった』という願いが込められて作られたと考えられます。

前代未聞の上皇になる

後堀河天皇は10才だったので後見人が必要でした。でも幕府が根こそぎ排除したので人材が不足しています。

そこで、父親の守貞親王が太上法皇(上皇)になって後見人になります(後高倉院)。

(正確には、守貞親王が上皇になってから後堀河天皇が即位した。)

でもこの上皇は異例中の異例でした。『天皇を経験していない人が上皇になった』からです。

鎌倉幕府は後先考えずにやったもんだから、もうやけくそだったのでしょうか? それぐらい無理しています。

天皇としての仕事は戦後処理

天皇に即位してから2年後(1223年)には、後高倉院が亡くなり、その翌年には、承久の乱を指揮した北条義時(ほうじょう よしとき)が亡くなりました。

天皇に即位してから3年後には、承久の乱の主要関係者は誰一人いなくなっています。その中で、戦争の後片付けをすることになります。

(義時の死後、幕府軍の総大将・北条泰時(ほうじょう やすとき)が幕府の実権を握ります。)

1232年、御家人の権利・義務を成文化した『御成敗式目(貞永式目)』(ごせいばいしきもく・じょうえいしきもく)を公布

後堀河天皇が在位したときの代表的な出来事です。これ以外の歴史的な功績はありません。しかも幕府が中心に進めたものでした。

もともと病弱だった後堀河天皇は、21才で息子の秀仁親王(みつひと)に譲位し、院政を始めますが2年後に23才で亡くなります。

秀仁親王の母親もその前年に亡くなったので、『後鳥羽上皇の怨念』と噂されました。

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天皇・皇室の本
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